act.10 大幹部マリリン






「あーー……死にそう……」



沢山の書類に囲まれて机にぐったりと伏せている自分。

ペンを持つ手を動かして動かして動かして動かして……かれこれ四時間その動作を続けているが一向に書類の数が減らない。いや、減っていない気がする。当たり前だ。次から次へとグランドフェスティバルの事務員が書類を送ってくるからだ。

幾ら書類と向き合っても数が減らない事に嫌気が指して机で唸っていた。確実に嫌がらせされている。

こんなんじゃノイローゼ…いや鬱になってしまいそう。今だったら“過労死”で亡くなってしまう人達の気持ちがよくわかる。ミクリはずっとこれをやって来たのだろうか…。自分が逃げた後もここでずっと同じことを繰り返していたのだろうか。ああ今までごめんなさいミクリさん、反省してます。なんて思いながらアヤは積まれた書類にのろのろと手を伸ばした。

ポケモンを持って旅に出れば大人の仲間入り。

なんて言われるけど。

自分は何もここで働きたい訳でない。若い内は本当なら旅に出たり色んな所に行ったり、自由気ままにコンテストに出たりして青春を謳歌したいのに。
しかし自分でやると決めたことだ。向き合うと決めた事だから文句は言ってられない。
しかし、まだ子供な自分に割り当てられるこの仕事はただサインを書いたり読むだけの仕事が多いから楽なことは楽なのだが。量が多すぎることが問題である。

ガリガリガリガリ…と机に伏せながらもなんとか指を動かしてはいるがいつ止まるのか時間の問題だ。

ワタルとダイゴが各自分の地方に帰ってしまったのは先刻前である。「暫く忙しいからまた遊びには来れなくなるけど、一人で出歩く時は気を付けるんだよ」とワタルは言って、ダイゴは「無理しないでね」とアヤの頭を軽く撫でてから手を振って背を向けた。

アヤはポケモンに乗り空に姿を消して行ったそんな二人を眺めて。


それから間もなくしてシロナもリーグが忙しいらしく、家を留守にすることが増えた。ちょっと寂しいがまぁ仕方ない。犯罪集団もその内落ち着くだろう。



「ボクが一般人よりカモだって言ってたけど……」


そもそも今はシロナの温情に甘えて彼女の家に常住しているし。そしてグランドフェスティバル本部までを常に人通りが多い所を通って通勤している。
加えてまたいつアヤが逃げるか分からないから監視も着いているくらいだ。自分が言うのもなんだけど厳重に警備が付いているから大丈夫だろうし。

いやそれよりもレッドとヒカリに今度有ったら是非ともお話を伺いたい。



「ふっー終わったー…!!」



数時間後、やっと全ての書類に筆を入れ終わった。ペンを投げるように机の隅に起き、時計を見る。もう17時を過ぎている…ジムも間もなく閉まる時間だろう。時間があればバッジ獲得の為に挑戦しようかな、とも考えていたが時間的に厳しい。今日は無理かな…と考えてすっかり冷めきった紅茶を一気に飲み干した丁度その時、扉を数回。ノックする音。

アヤの返事も待たずに大会の幹部である関係者が中に入ってきた。

しかも一番大嫌いなジジイでうわ、と内心邪険にするにもお偉いさんにそんな表情を見せる訳にはいかない。表面上の笑顔だけを貼り付けて挨拶すればおじさんはニコニコと手を上げる。



「………こんばんは」

「どうだね、進んでいるかな?」

「まあ…一応、今日の分はやり切りました」

「ほぉ、感心感心!」



大したもんだ、と老人特有のわっはっはと大きな笑い声で顎を撫でる。

幹部の人達も苦手だ。何かと小言が多いしグチグチ言ってくるし、毎日小言を言われるのも精神的にまいっている。やっぱりまだ若いせいもあるけど、何よりも小言を言われる一番の原因はトップになった直後のミクリへの暴力沙汰。そして逃亡。

前は、「今更何をしに戻って来たんだ」「まだまだ経験も浅い若造にはトップの座は務まらない」「今更どの面下げて戻って来たんだ。何をしたのか覚えていないのか?そもそもあの優勝どころかお前の成績はおかしい。誰に媚を売ったんだ」………など、明らかな敵意ある屈辱きまわりない事も影で言われ続けた事も多くある。

でも自分がやってしまったことは取り返しのつかない悪いことだし。怒られても仕方ないし今でもよく思われないことは仕方の無いことだ。

人を公衆の面前で張り飛ばしたのに何もお咎めなく、アヤがまだコーディネーターを剥奪されずにここに居れるのは間違いなくミクリとヒカリのお陰だった。

彼はあんなことをしたにも関わらず、何故か笑ってアヤを許してくれた。ただ、「きちんと反省はして下サい。その時の感情デ、行動をしてはイけマセン。アナタは最高のパフォーマーなのですカラ」という言葉を持ってアヤを一喝した。

失わずに済んだコーディネーターとしての自分。

恐らくあんなことをしたら今後コンテストやグランドフェスティバルへの出場権すら与えられていなかった。

そしてアヤが逃げ出してからヒカリがトップコーディネーターとなったが、彼女はそれを良しとはせず再びトップの座をアヤへと強制的に返上した。ヒカリは現環境トップにいる、目標であったアヤを完膚なきまでにぶっ潰す為に王座に戻しただけである。

折角二人の温情でまだコーディネーターでいられる訳だし。

まだ演技ができるのだ。



「(当たり障りのない会話をして、ボクがここから出てけばいいかな…)」



本当はこんな嫌味な幹部達には関わりたくはないが、失礼のないようにしないといけない。

それに言い返したりでもしたら何を言われ、されるかわかったもんじゃないし。どんなに酷い言葉も過剰業務もずっと黙って耐えて来た。これは過去やってはいけないことを犯した自分へのバツである。
だから風当たりが自分に強いことは、そう言われることは仕方無い事だと理解はしていたから、まだ我慢は出来ていたけど。

それよりもずっと我慢出来ない事がある。



「これだけの量を今日でこなすとは…若いのに大したもんだよ、アヤちゃん」

「…………」



出来上がった資料を手に取って見ていた爺は、極自然な動作で自分が座る椅子の横へと立った。誉めるだけ誉めるとそのおっさんは本当に、本当にどさくさに紛れて机の上に置いた自分の手の上に皺が付いた手が重なる。あぁ本当にもう。



「若い内からこんな働いていては肌にも悪いだろう?ほら、あまり血色も良く無い」

「………」



――気持ち悪いな。

我慢できない事。それはセクハラ被害である。

自分の手の甲を撫で回す皺の刻まれた手に小さく舌打ちした。何も言わないことに調子に乗り、後ろからぴったり体を寄せて覆い被さるような形で更には頭や肩、背中までも労りという名のどさくさに紛れるようにして撫でて来るもんだから。
背筋がゾワリと悪寒が走る。口の中がカラカラに乾いて変な味がする。顔の横に有るムカつく顔に頭突きしてやりたい衝動に掛けられたが、取り敢えずその衝動を抑え込んで誰か来ないかなぁ…と考え始める。

それにしてもさっきから自分のボールベルトに着いた六個のモンスターボールから、異様な殺気が立ち込めて居るのを感じ取り、うわ……と内心蒼白になった。

まさか自分がセクハラにあうとは。



「(そういえば、)」



スキンシップとセクハラは紙一重とか言うではないか。

そういえば異性ではレッドの他にダイゴがやたらスキンシップが多い。それは主に昔から頭を撫でたり頬ずりしたり抱き上げてくれたり……あ、いや。そんなことは今ではされた試しはないが、昔はよく小さな自分に対して「可愛い可愛い」と構って遊んでくれていた記憶があるからだ。
さすがに今はそんなことはされないが、昔のようなことをされたら完璧にコンプライアンス的にアウトだろう。今では紳士的に構い倒されているような気がするし、ワタルもついでにシロナも同じような頭を撫でる癖がある。3人揃ってスキンシップがそういえば激しいな、とも。

そしてレッドと別行動になる前の彼の様子を思い出してみる。
レッドのスキンシップはあれは純粋な好意から。好きだとストレートに発言された言葉の通り、別行動になるまでレッドのスキンシップは見違えるくらいに多くなった。勿論、そこに嫌悪感なんてものは存在しなかった。たぶん今この爺がしていることと全く同じことをされても嫌とは感じないだろう。

うーん、とアヤは不躾な手が二の腕を摩る動きを凝視しながら、考える。

ダイゴがいつものようにハメを外しながら「アヤちゃん最強の石を探しに行こうよ!!お兄さんに任せて!!」と叫びながら例えば二の腕を擦りながら、両肩をさすさすしながら、両手を揉みながら言って来たとしよう。勢で張り倒してしまいそうだが心の底からダイゴを嫌だとはきっと感じないだろう。

たぶんそこには邪な下心がないから。

厭らしさがなく何故か爽やかささえ感じる。

最近ではダイゴのセクハラ紛いな行動とは何かが違うなぁと感じ取れるようになっていたが、きっと邪な考えが有るか無いかだろう。アヤのセクハラの判断基準は要はそいつが気持ち悪いか気持ち悪くないか。許せるか許せないか、好きか嫌いかである。

椅子に座る自分にぴったり寄り添うように体を密着させる変態爺に腕をベタベタに触られ、オヤジの気が済むまで耐える。もうこのおっさん目が下品過ぎてムリ。ゲロ吐きそう。粗大ゴミにまとめてギャラドスが沢山泳ぐ怒りの湖に捨てたい。マジ気持ち悪い。

鼻息荒く首に指を這わせて来たおっさんに本気で頭を抱えた。流石にもう我慢の限界だった。首は本当に嫌だ。



「あのっ、」

「何をやっているのですか」

「!?」

「えっ、ぁ、ま、マリリンさん…!」



天の助け!と言わんばかりに第三者の声の主を振り返れば、扉を前に中に入ってきたのは白のドレスを着た婦人。彼女はマリリンと言う。長い白髪を頭上で止め、金色の目が特徴な、気品のある仕草や雰囲気が歳を全く感じさせない人だった。因みに大幹部である。アヤの直属の上司みたいな人だ。因みにめっちゃ美人で怒るとめっちゃ怖い。

マリリンはアヤと狼狽えている男を静かに見つめるとゆっくりと手に持った扇子を広げて口元を隠した。



「何をやっているのです?」



コツ。コツ。コツ。とヒールを静かに鳴らしながらマリリンは男を見た。口調は穏やかで笑っている。しかし目は笑っていない。アヤは知っている。あの扇子で隠された口元は大きくひん曲げられていることだろう。

男を睨み付けるマリリンは般若だ。

男が「あ、いえ、これは違くて、アヤさんが、」とか何とか狼狽えて言い訳を口に出し始め言葉を紡いでいるが嘘がバレバレである。
嘘を着くならもっと堂々と嘘付けよ、とも。



「あなた、初めてではございませんわね?下醜はここにはいりませんよ」



酷く冷たい声で言い放つと男はサッと青白くなった。



「いや!ちょっ、待ってくださ」

「クビです。懲戒処分ですね。今からもう来なくて宜しいですよ」

「まっ…!おまちくださ、」

「出口はあちらです」

にっこり笑ったマリリンが死刑宣告をしたようだ。

男は言い訳することも出来ずに、マリリンは有無を言わさず部屋からつまみ出した。「では、ごきげんよう」と吐き捨てて。

男が部屋からはじき出されたのを見て、アヤはやっと重い息を漏らした。



「……ありがとうございます、マリリンさん」

「アヤさん、あなたね…何故今まで黙っていたのです?今日初めてされた訳じゃないでしょう」

「はは……一応あんな人でも幹部だし…」



マリリン。彼女は外国人の元トップコーディネーターだった人だ。約10年、歴代のトップの座を長く守ったのはマリリンで現在は大幹部を勤めている。

幹部の人達は嫌いだけど逆に大幹部の人達はマリリンのような良い人達が多い。彼女はシロナの知り合いで初めから自分の事を頼んでいてくれたようで、律儀にもとても良く面倒を見て貰っている。

厳しいけどとても優しい人だ。

そしてマリリンは机の上に視線をやると首を傾げた。



「……?アヤさん!その書類は何です」

「え?」

「何で幹部の間で終わらせなければならない書類もこの中にあるのです!しかも殆どが幹部の書類ばかり!」

「…………?…は、え!?」

「っおかしいとは思っていたのですが…上層部の方で今回アヤさんの仕事の進み具合が極端に遅すぎると耳に入りました。だから見に来たのです。まだ未成年であるあなたには、あなたへ回ってくる仕事の量は一日3時間もあれば出来る量の筈なのに……。それがまさか幹部の仕事まで押し付けられているとは…」

「(何だってッーー!!?)」



あの幹部共、全員首に致しましょう。と静かにキレるマリリンは相当ご立腹のようだ。
それにしてもまさか今までやっていた仕事の量の半分以上が幹部の仕事だったなんて…。完璧嫌がらせだろ。自分の通常の書類の量も倍に増やされていたらしい。完全なイジメだ。
マリリンから「わたくしの監督不行届です。ごめんなさいアヤさん」と謝るマリリン
対してアヤは慌てて横に首を振った。



「あぁ、そうだわアヤ。あなた、ジムバッジを集め始めたらしいですわね。シロナから聞きましたよ」

「え?あ…まぁ、一応。今回グランドフェスティバルに出場するコーディネーター達の成績表を見たんですけど、殆どが他の地方含めて8つ以上のジムバッジを取得してる人が多くて……ボク、ジムはからっきしで。流石に恥ずかしいなぁって」

「それは確かに。ならグランドフィスティバル当日まで旅にでも出たらどうでしょう?練習も満足に出来てないのでしょう?これだけやれば後の仕事も随分減っていますし、わたくし達で普通に終わらせられる量ですからね…。というより幹部共にやらせればいいのです。わたくしが言っておきましょう」

「ほ…本当ですか!」

「ええ」



今まで気付いてあげられなくてごめんなさい、と小さく呟くマリリンにまたアヤはブンブンと首を横に振る。



「そもそもな話。大会は数ヶ月後に迫っているのにあなたはここで座ってるべきではないの。演技の練習に打ち込んで貰わないと。…前年度より、大会を盛り上げてくださいね」



この時、アヤの目にはマリリンが女神のように見えたのだった。





ありがとうマリリンさん!








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