遠い昔の名前



君が呼ぶ、

遠いあの日の置き土産



【遠い昔の名前】



ざわざわと騒がしい人波を摺り抜け、僕はちらりと街の電光掲示板に記された時間を確認する。
今日は直前に控えた作戦のため、幹部の誰だかと打ち合わせをする予定なのだが…――――早く来過ぎてしまったようだ。待ち合わせの時間まで30分以上もある。



(暇だなー…どうしよう……)



コツン、と踵で地面を蹴り、手持ち無沙汰な僕はふらりと体を揺らす。
何処かの店に行って暇を潰すにも中途半端な時間で、かと言ってこのまま待つのも微妙な処。加えて、これから待っている話し合いも決して楽しいものではないから、僕の足運びは自然と気の抜けたものになってしまう。


そのせいで、視界の端に映った女の子に気付くのに、随分と遅れてしまった。



「……あっ!!」

「――――っと!」



道の端に立っていた一人の女の子にどん、と思いっきりぶつかってしまい、よろけた彼女の体を慌てて支える。倒れないように腕を掴んだら、その衝撃で、目深に被られていた耳付きの黒いパーカーがふわりと揺れた。



「…………―――――ごめん、大丈夫?」

「……平気です」



フードが脱げたことで、ダークアッシュの髪がさらりと風に舞う。そして、あらわになった、孔雀石色の瞳。



「(……この子…――――?)」



鮮やかな孔雀石色の瞳に、記憶の端が揺らされる。首を傾げ、朧げな思考を巡らせたら、随分と前に読んだ何かの資料の記述が浮かび上がった。

あいつが居れば、この研究もさっさと完成するかもしれないのに―――――……同じ研究所に所属している、元ロケット団研究員がぽつりと独り言を零していたのを思い出す。



名前は、そう確か…――――



「…シキ…………」

「…――――!?」



思わず口から漏れた単語。
それを聞いた少女…――――カイドウ・シキは、ざっと顔色を変えて、掴んだままだった僕の手を無理矢理に剥がす。一歩二歩と後退し、警戒心を剥き出しにして僕を睨んだ。



“染色体の人工操作”

“色素遺伝子の組み替え”



そんなタイトルで括られた、ロケット団が提供してきた資料にあった一つの研究報告書。興味のある内容だったため、論文形式にまとめられていた資料を夜通し読んだのはつい最近のことだ。
柔軟な発想と画期的な論理に舌を巻き、もっと他の資料は無いかとデータベースを洗った末に見付けた著者情報には、正直かなり驚いた。



ロケット団壊滅の1年前に脱走

プログラミングとハッキングを得意とした、最高峰の技術犯罪者



走り書きのメモのようにあった説明文に、思わず吹き出したのは覚えている。そして、それと同時に興味も失せた。
僕としては、ロケット団の過去の遺産にたいした興味は無い。脱走を謀るような奴を組織に連れ戻した処で、再び逃げ出さないという保証も無い。忠誠心が無い奴を、側に置いておくリスクも犯したくはない。

あぁ、でも…――――お義父さんは喜ぶかな?
研究面での人員不足は深刻な問題だし、技術の革新と進歩はこの先必ず必要になる。



そして、なにより、



(ユイ……嫌がるだろうな…………)



思い出した憎い親友の顔に、ぐにゃりと口許が不気味に歪む。


見たところ、シキと彼の妹であるアヤちゃんは同じ年頃だ。
僕を捨ててまで守った大切な妹と似通った年代の女の子を無理矢理に従わせれば、道徳は曲げようとも仁義は通す彼だ。絶対に精神面に一撃を与えられる。



ユイを、少しでも苦しめられるなら…――――目の前に居る一人の少女を、手土産として幹部に引き渡すのも悪くない。



じりじりと後退る少女をほくそ笑み、モンスターボールを握りながら手を伸ばした、その瞬間。



「ユウーーー!」

「「……!?」」



張り詰めていた空気を砕くように、何処からか聞こえた声にギクリと体が強張った。


…―――――ユウ




遠いあの日、彼に呼ばれていた僕の名前。

頭の中で反響するその声に、『ユウ』と呼ばれたシキから弾かれたように一歩下がる。


俯いてしまった顔を上げ、シキの視線の先を辿ってみれば、キャラメルブラウンの髪を揺らした少年が遠くに見える。僕にとっては懐かしい名前を叫んだのであろう少年は、多過ぎる人垣に阻まれてなかなか近寄れないようだ。
汚れなく澄んだ飴色の瞳が、シキと僕を見詰めている。


何だか、悪巧みもやる気も、何かもかもが萎えてしまった。
伸ばしていた手を下ろし、握っていたボールを懐に戻した僕は、無言でシキに背中を向ける。「じゃあね」と短く言ってこの場を去ろうとしたら、くん、と腕を引かれた。



「いいの?」

「…………え?」

「私を逃がして、いいのかと聞いている」



詰問調のシキの台詞に、僕は小首を傾げて聞き返す。頭がぼんやりとしてしまって、思考能力が上手く働いてくれない。



「ユウって、君の偽名?」

「…………」



こちらに向かって来る少年の手には、温かそうな飲み物の入ったカップが二つ。零さないように気をつけながら走る彼は、きっとシキの知り合いで、そして大切な人なんだろう。


未だに警戒心を解かずに僕を睨むシキと向かい合い、心の底からの、皮肉も込めた笑顔を浮かべて言ってやった。



「趣味の悪い名前だね」



きっと、今の僕の顔は酷く歪んでいるだろう。

ユウという名前。それを呼ぶ、大切な誰かの存在。思い出したくもない、幼いあの頃の記憶を揺さぶられる。



「不愉快だ」



掴まれた腕を振り払い、眉をひそめるシキを残して歩き出す。こんな子が居なくとも、研究を完成させる自信はある。僕ならお義父さんを喜ばせられるし、ユイへの復讐も完遂出来る。



だから、きっと気のせいだ。



久しぶりに聞いた昔の名前に、涙が出そうになったのなんか。



* * * *



「ごめんね、遅くなっちゃって……」

「平気。…ありがとう」



ユウヤとの会話で意識が揺れていたユウだが、優しい声にほっとしたように強張っていた肩から力を抜く。
ナギからテイクアウト用の紙コップを受け取り、淡く微笑んで温かなカフェラテを口に含む。そして、美味しそうにコップの中身を飲むナギをぼんやりと眺め、「ナギのは何なの?」と小さな声で尋ねた。



「僕の?キャラメルマキアートだよ。ちょっと飲む?」

「……うん、」

「……んっ……!?」



はい、と差し出されたカップを素通りし、ユウは軽く身を乗り出してナギの唇に自身のそれを重ねる。ぺろりと口内を舐めてみれば、甘いキャラメルの味が舌に伝わった。



「ユ、ユ……!!」

「…ご馳走様」



僅かに触れた舌の感触に戸惑うナギに対し、悪戯っぽく笑うユウは何事も無かったように自身のカフェラテを一口飲む。
一瞬の出来事だったため、周囲を行き交う人々が気付いた様子は無いが、それでもナギの顔は火が着いたように真っ赤だ。くすくすと笑うユウに何か言いたげに唇を震わせていたが、諦めたようにため息を吐いてマキアートを喉に流し込む。



「…そういえば、さっきの人誰?知ってる人?」

「え?」

「ほら、髪の黒い……」

「…………あぁ、」



ふいに問われたナギの言葉に、ユウは疑問符を浮かべて聞き返す。けれど、加えて言われた情報で理解したのか、他人事のように淡々と答えた。



「全然、知らない人よ」



目の覚めるような蒼い空を見上げ、孔雀石色の瞳を微かに細めた。



遠い昔の名前


もう、そう呼ぶ人は居ないから




ユゥウウウウウヤァアアアアア!!!!まさかの初共演!
彼らは同じ組織に居たという事で何かと接点が多いと思います…!似たような同じ名前に、お互い変な感じになるといい\(^o^)/
素敵な小説ありがとうございました!




- ナノ -