電車が遅れたせいで帰りが遅くなっちまったお疲れのおれを出迎えたのは「ぁ、っ!」っつー短い悲鳴と、ガシャンと何か──陶器みてーなもんが砕けるようなイヤな音だった。

「……おしたり?」

 なんだよ今の。
 眠気は一気にふっとんだ。カバンを放り出してバタバタ慌ただしく靴を脱ぎ散らかして、おれはなんかもう余裕なんか全然ないの丸出しで短い廊下を走った。

「忍足ッどしたの!?」
「おわぁっ、ジロー!?」

 リビングのドアを力任せに開け放つと、キッチンの方に同棲中の恋人───中学のときから相変わらずもさい丸眼鏡野郎、忍足侑士が床にぺたりと座り込んでるのが見えて、おれは腹の底が冷えた気がした。

「なに……どっか痛ぇの? なぁ、どしたんだよ」
「あっ、いやその……」

 その猫背気味の背中にドタドタ駆け寄ってみると、さっきまで忍足の影になってて見えてなかったものがおれの目に飛び込んできた。
 きれいにパッカリ割れた、鶯色のマグカップ。の、ザンガイ。

 ……もう。ほんとに、マジでさ。お前ってやつはさ。
 なんかすげぇ脱力感だよ、なぁ忍足。おれのさっきまでの焦りと眠気返せよ、マジ心臓に悪ぃ……

「……忍足さぁ……」
「っ……すまん……」
「ホントだよ、マジマジ超紛らわCんだよお前」
「は? や、紛らわしい言うんはようわからんけど……マグカップ、ごめんな。堪忍……」

 とりあえず状況がわかって一息ついたおれは開けっ放しだったリビングのドアを閉めに行ってたんだけど、忍足はまたなんか的外れに落ち込みはじめてて、おれはますます力が抜けた。こいつはおれをクラゲにでもしてーのかな。

 あのな、マグカップはどーでもEっつぅの。

 帰って早々もさかわ系マイハニーの悲鳴と破壊音聞こえてきてこちとら超焦ったんだよばかやろ。
 そういうの、ほんと、こいつはわかってない。
 んでもって相変わらずなんかずれてて、あーこゆとこたぶんおれら一生わかりあえねぇ気がすんなぁって思う。

 つか、こいつ素手で破片拾ってんじゃん。もー、くっそ、なにやってんだよ

「あーあーあー、素手でやんなよ、ケガすんだろ」
「あ、……すまん、ちょお焦ってしもてて」
「つかお前どこもケガしてねぇだろーな」
「おん、してへんよ」
「ならEけどさ」

 集めていた破片をひとまずビニール袋に入れて、忍足はゴム手袋をはめた。
 ……つーか何、まだ拾う気?

「……なぁ」
「ん?」
「それもうさ、掃除機で吸った方がはえーんじゃねぇの」

 大きな破片は粗方拾われてんのに、忍足はなんでか、砂粒みてーな破片まで拾い集めようとしてるみたいだ。わけわかんねぇ。
 そんなにまでして集めたって、マグカップが復元するわけでもねぇのに。
 そんなことを考えてたら、忍足がぽつりと呟いた。

「……このマグカップ、お揃いで買ったやつやったやん。一緒に住みはじめたときに」

 忍足の横顔は、長い黒髪に隠れて見えない。

「……そだね」
「ジローが、『こういう雑貨買いに来たんおれはじめてや〜』言うて」
「……うん」

 今これはスゲーどーでもEことだと思うんだけど、忍足の記憶のなかのおれそんなコテコテの関西弁操ってんのかな……
 や……Eんだけどさ……

「せっかく一緒に、色違いのん買おたのに、とか……なんや、いろいろ思い入れ、あるやん」

 そう言って顔を上げた忍足はやんわり笑ってて、おれはちょっとびっくりした。
 もっと、ツラい顔して話してんのかと思ってた。

「他にも、ほら、はじめてジローがコーヒー入れるんに挑戦したんもこれやったやん。あれは飲めたもんやなかったけどな」
「うるせーな」
「炭素味やったやん。豆どこいったんやー言うてなぁ。あはは」

 そんな忍足の表情にちょっと見入ってたら、忍足はなんかそのスマイルのままおれのはずかC思い出を生き生きと、面白そーに話しはじめた。なんでだよ。
 まぁ、お前が楽Cなら、いんだけどさ。

「そんなん忍足だって、おれが入れてたソーメンツユ麦茶と間違って飲んで吹いてたじゃん」
「あっ、あれはお前が悪いんやん! なんでマグカップで素麺食おうとしてんねん!」
「食えりゃなんでもEじゃん」
「よぉないわ!」
「アハハ、忍足あの後舌ピリピリする〜って言ってたもんなあ」
「せやで、めっちゃ刺激強かったわストレートな素麺ツユ。しかもあれ3倍だか5倍だかに薄めて使う濃いぃやつやったしな」
「でもおれ治してやったじゃん」
「うんーせやったな! 執拗にちゅっちゅしてきよっただけやったけど! あんなんお前が楽しんでただけやん!」
「ンだよ、おめーも楽しんでたじゃんかよ。好きだろ、おれとちゅっちゅすんの」
「好っ……き……やないわけやないけども! あんまりしつっこいし押しても叩いてもやめてくれへんかったから苦しゅうて死んでまうかと思たわ! ちゅうか何言わすねんなもうっ!!」

 自分で言ったくせに顔真っ赤にして、忍足は頭を抱え込んだ。ばかだ。
 でもたぶん、そんなばか相手にいちいちちょっと顔熱くなってるおれももうとっくにばかの世界にご案内済みなんだろうなと思う。あーくそ、またキスしてやりてぇ あとでやろう

「……ほらな、やっぱりいっぱい思い入れあるやんか」

 極度の照れから立ち直ったらしい忍足が、まだちょっと顔赤くしたまま、ぽつりとそう言った。
 丸眼鏡の奥の目がうるりと湿ってる。

「………元に戻されへんやろか、ってなぁ、どうしても考えてまうんや。女々しいなぁ」

 おれは黙って聞いてた。
 うん、ほんと、女々Cよなぁ。
 いろいろと無頓着なくせに変なとこロマンチストだから、こういうとき面倒な思いするんだよ、お前。
 そういうとこも、嫌いじゃねーからタチ悪ぃんだけどさ。
 でもとりあえず、割れたコップは元に戻らねぇし、忍足が破片でケガしたらだめだ。

「……なぁ、とりあえずさ、その辺掃除機で吸おうぜ。ケガしたらだめだから」
「……ん。わかった」
「破片は捨てなくてEから」
「ん。……おおきに」

 忍足はカチャカチャ音を立てながら、破片が入ったビニール袋の口をぎゅっと縛った。
 おれはやっと戻ってきた眠気を振り払いながら掃除機を出してやって、それから大きく伸びをする。
 せっかくあったか我が家に帰って来たっつーのに、まだ昼寝は出来そうにない。

「それ終わったら、買い物行こうぜ」
「へ?」
「お揃いで選んだやつがEんだろ? んなもん、いくらでも一緒に買いに行くよ」

 一緒に住んでんだからさ。
 あと、言い忘れてたけど、ただいま。
 言ってやると、忍足は目を丸くして、それからまた顔を赤くしてくしゃりと笑って「おかえり」と言った。

「なんや、お前とおったらどんどん捨てたないもん増えてってまいそうやわ」
「……おれ、ゴミ屋敷はやだかんね」
「そんなん俺かてイヤやっちゅうねん! ほんまお前ムードの無いやっちゃな……」

 ぶつくさ言いながらも、忍足はいそいそと片付けを進めてく。

 今こうやって話したことも、今から買いに行く2つ揃いのマグカップも、きっとあの鶯色の破片みたいに、忍足にとって捨てられないものになるんだろう。

(忍足。お前ってさ、やっぱり、いつまで経っても不器用だよな)

 心の中で言ってみる。
 そういうところも好きなんだけど、やっぱめんどくせーと思う。
 おれからしたら、割れたマグカップなんかより、それを素手で拾うお前の方がずっと大事で、心配で、手放したくないのに。

「ジロー、片付け出来たで!」
「よーし。んじゃ、行こっか」


 次のマグカップは死ぬまで割らずに使えたらEね。忍足。
 玄関に脱ぎ散らかされたおれの靴を見て目を丸くした忍足に不意打ちでキスを仕掛けながら、おれは心の中でそう呟いた。




【宝物になった】
毎日毎日の、そのぜんぶが。