それは同棲3年目の12月の話。

 時刻は23時。ミッドナイトブルーに一層深みが増して、家々の明かりがまた一つ消えた。降り積もる粉雪が、窓ガラスの縁に掛かる。初雪を観測した東京の夜は、昨晩とは比べ物にならない程しんしんと冷える。十分暖かくしている室内でさえ、隙間風が吹き付ける度、寒さを覚えた。
 滝はブルゾンを羽織り、こたつに脚を埋め、また時計を見遣る。だが妙に落ち着かず、こたつから這い出た。――いつもならもう帰ってきてお風呂に入っている頃なのに。キッチンのガスレンジに置かれた鍋に残る夕食。蓋を開けてそれを眺めながら、一人、ぼーっと立ちつくす。炊飯器の御飯も炊いてはみたものの手付かずのまま、保温のスイッチをつけっぱなしだ。どうにも一人で夕食を摂る気分にはなれず、滝はテーブルに肘杖をつき、意味もなく冷蔵庫を開けて、また閉めた。
 日吉がいない夜はなんだかどうしても物足りぬような感覚があり、寝るにも寝られず仕方なく起きて帰りを待つ。出掛ける際に今日は遅くなると、まるで旦那のような事を言っていたのをまた思い出し、少し寂しくなった。

 時刻は23時。ブラインドカーテンの紐を引き、帰り支度を始める。漸くデータを送信し終え、日吉はうんと背伸びをした。残業はもうこりごりだ。サラリーマンの宿命と言うべきか、ロッカーに荷物を取りに行く道すがら、他の部署の社員が数名まだ残業しており、なるほどこれが社会人というものなのかと、日吉は欠伸をかみ殺しながら思った。ビジネスバッグの重みが、自分の肩に掛かる責任のように思える。
 PCを消して、トレンチコートを羽織り、擦れ違う警備員に会釈をして、棒のような脚を引きずり非常階段を下りた。データと資料が今日中に完成したのはなによりだが、それと引き換えに肩凝りを頂いてしまうのは難点だ。
 コンタクトが目に張り付き、夜風に瞳を撫でられる度、しくしくと痛んだ。今日に限って目薬も眼鏡も家に忘れて来ている。あっ、家――そうか、滝さんが。日吉はふと同居人のことを思い出し、従業員出入り口に止まっていたタクシーを拾い、駅へと向かった。

 駅には最終電車に乗り遅れるまいと、人が沢山押し寄せる。日吉もまたその中の一人で、小走りで改札機を抜けた。波に飲まれることのないよう上手く人混みを掻き分けるのは至難の業だが慣れたものだ。いつの時間帯に駅に行っても、変わらぬ人混みがそこにある。

〈■■線 ■■方面行き 23:36発〉

電光掲示板を見て日吉はぎょっとした。あと1分しかない。階段を駆け降り、プラットフォームに猛ダッシュで滑り込む。ドアが閉まります、ご注意下さいというアナウンスが流れ、日吉は目当ての電車の一番手前の車両に駆け込んだ。
 呼吸を乱しながら、手すりにもたれるようにしがみついた。鞄の重みと肩の痛みが増して肉体的な疲労が募る。どっと、溜息をついた。
 眼下をゆっくりと流れてゆく目を見張る夜景。それは残業と夜勤で出来ていると、以前テレビで滝と共に聞いた記憶を起こさせる。ならば100万ドルの夜景を誇る何処かしらは尚?それはまた別か、と、やっと日吉は息を取り戻した。

 時計の針が時を刻む音が、静かな部屋に鳴り響く。刻一刻とそれは明日に近づいて行く。寝息を立てる滝は、頭をふらふらと揺らした。瞼はすっかり閉じ切って、深い眠りに落ちてしまいそうだ。
 テーブルに置いた携帯電話のバイブが突如鳴った。生き物のようにぶるぶると震えながら、テーブルの上を這うように動き回る携帯電話。そのストラップもまた、バイブの衝撃でかたかたと音を立てる。長く永く、待ち人来たらずの様相で、携帯電話は滝に手に取られるのを待っている。その存在を必死でアピールしながら、滝が起きるのを待っている。

「はっ」

滝はやっと目を覚ました。慌てて電話の在処を探ると、それはごとんと鈍い音を立ててカーペットに落下した。じゃらりとストラップも携帯電話の上に落下。
――電話は滝の掌に収まったところで、しんと止んだ。

〈不在着信1件 日吉若〉

「わか、し、わかし、あっ、あっ」

滝はあわてふためき、日吉に電話を掛け直す。日吉はワンコールで直ぐに出た。

『遅いですよ滝さん。恋人が凍えながら一生懸命電話してあげたんですよ』
「御免、本当に御免、どうしたの日吉、お疲れ様――」
『迎えに来て下さい』
「えっ?」

木枯らしが吹きすさぶ音の前、日吉は今迄滝が聞いた事の無いような台詞を吐いた。驚きを隠せなかった滝は、思わず聞き返す。相変わらずのいやみったらしい口調に寝起きの頭はついて行けず、呆気に取られたまま滝は固まった。

『だから、…迎えに』

滝が聞き返しなどするものだから、日吉は僅かに恥ずかしさを覚える。こんな甘えは普段なら有り得ない事だ。空前絶後のむず痒さは溜息に変わった。

「分かった、分かったすぐ行く!今何処?」
『駅です。早くしないとタクシーに乗って帰りますよ』
「駄目、絶対駄目、俺が行く、待ってて」

寝ぼけた頭は状況を漸く把握し、滝は器用に携帯電話を肩に挟みブーツを履く。紐などは適当に締めていればいい。ブルゾンを羽織り、朝ソファーの背に日吉が掛けたまま置いて行った手編みのマフラーを鞄に詰め込む。滝がこれを編み始める前、日吉が好きな色は特に無いなどといい加減な事を言ったものだから似合いそうな白色の毛糸で編んだのだ。暖かさはカシミヤマフラーなどに負ける筈が無い。滝は日吉が出掛けた際の服装を思い起こす。ああ手袋も忘れていたかもしれない。毛糸の帽子も持って行こう。温かい飲み物は、駅構内で買えばいい。
 鍵掛けから鍵を取り、段差に片足を取られながら玄関を出る。慌てて戸締まりをするものだから、なかなか鍵が締まらず、締め慣れている筈なのに何回転も回してしまった。夜更けなどお構いなしに足音を遠慮なく立てたい所だが、なるべく静かにご近所に気を遣いつつ、息を切らして階段を駆け下りた。――階下の駐車場に止めたシルバーのSUBARU・ルクラに飛び乗って、滝は日吉が待つ駅へと向かう。

 時刻は0時。再終電車が発車し、駅構内に人はまばらだ。悴む手をポケットに突っ込んだが、鞄を持つ手は凍えて痛みが走る。構内に吹き抜ける風に耐えたものの、大きな欠伸が洩れた。これは眠気か死か、瞼に掛かる重みが増した時。

「日吉〜!!!」
「滝さん――」

シルバーの軽車両がタクシー乗り場に乱暴に現れた。急ブレーキを掛けると、恥ずかしい程の笑顔で、笑える程薄着で、マフラーと手袋を携え、滝は車から飛び降り、日吉に駆け寄った。

「寒い!乗って!!」
「はあ」

滝は日吉に手際よくマフラーと帽子を被せ、手袋を手渡した。
あまりの手際のよさに口を開けて固まってしまった。そのまま日吉は滝に強引に手を引かれ、助手席に乗せられる。車内は暖房が効いていて、余りの暖かさに日吉はほんの一瞬まどろんだ。
 滝が運転席に乗り込んだところで、車は、今度は安堵を伝えるように穏やかに発進した。

「ロマンチックもへったくれも無いですね」
「そんなのは御若い恋人や新婚さんに任せてればいいの!寒い中待たせた挙げ句立たせたままおかえりのチューなんて、そんな呑気なことしてたら風邪ひいちゃうよ」
「確かに」
「全く、俺達何年恋人やってるのさ」
「俺が高1の時から…もう11年か」
「でしょう?夫婦だよ夫婦」

夫婦か、と日吉が呟いた。その横で、ああぶつけそうだ!と滝はガムを口に入れた。日吉ごめん、明日のためにちょっとガソリンスタンド寄るね、――

 日吉はいつの間にか眠っていた。赤信号で車を止め、滝は日吉の寝顔を拝む。無防備で、綺麗で、愛おしい。ひんやりとした真っ白な頬に、滝はそっとキスを落とした。

 夜道を走り抜ける数多の車。まばゆい大都会のネオン。いわば不夜城だ。クリスマス前ということもあり、街路樹のイルミネーションが煌々と輝いていた。
 今年はどんなクリスマスにしようかと思いを馳せる滝の幸せそうな顔を、対向車のライトが照らした。BGMをジャズピアノ曲に変え、隣に眠る恋人に目を遣る。
 この先もずっと二人で暮らして行くよ日吉、と小声で言うと、日吉の口角が微かに上がった。