「最低!」
パシン、と乾いた音が響くと同時に、涙を浮かべた目の前の女は去っていった。放課後の教室は普段の喧騒が嘘のように静かで、外から部活の掛け声が響いてくる以外には何の音もない。だから、誰かが近付いてくる足音に、気がつくのも早かった。
「…またやったの?涼太」
「っせーな」
聞きなれたその声とその言葉。姿なんて見なくてもわかる。幼なじみの、なまえだ。
「いい加減治しなよ、女癖」
「うっせーっつってんだろ。いちいち干渉してくんなよ」
俺が女遊びをするようになってから、こいつはその度俺を咎めるようになった。俺を心配するような、憐れむようなその眼差しは、俺の神経を逆撫でするには十分で。干渉するなと、俺に近寄るなと何度も突き放したが、こいつは相も変わらずこうして俺の傍にいる。
「アンタこそいい加減諦めたら?俺はもう昔の俺じゃねーんだよ、期待すんな」
「…私は、また涼太に笑ってほしいよ」
「それがウザイっつってんスよ」
彼女に振り向き、一瞥。こいつのその想いが、その期待が、俺を一番イラつかせるとまだわからないのか。
この女の気持ちなんて手に取るようにわかる。俺に向けられるその視線に、特別な感情が込められていることくらいとうの昔に知っている。
「じゃ、俺これから別の子と約束あるから、部活には適当に言っといて」
「…涼太」
「じゃーね」
悲しい目をして俺を呼ぶ彼女を無視して、置き去りにして教室を出た。あいつの期待はくそうぜーけど、あいつの傷ついた顔を見るのは好きだ。俺がバスケを適当に流すようになった時、女遊びを始めた時、あいつは、心底傷ついた顔を見せた。その顔に、多少なり救われていることもまた事実だ。歪んでいるのは自負している。俺は俺なりに、彼女を大事にしているのだ。もちろん、俺の為にだが。
『ねえ涼太、今から歩道橋に来てほしいの』
「はあ?」
その夜、突然なまえから電話が入った。彼女の言う歩道橋とは、道路を挟んで向かい合う俺たちの家の前に位置するものだ。昔はよくそこで落ち合って遊びに行った。中学に入ったあたりから、全く足を運ばなくなったが。
「何スか急に」
『大事な話なの』
「電話じゃダメなわけ?」
『直接話したい』
はあ、と大きな溜め息が漏れる。彼女が何をしようとしているのかは、だいたい想像がついた。今更、俺に言ってどうなるというのか。
「…行くけど、さっさと済ませろよ」
『うん、ありがとう』
言われることはわかってる。彼女が俺にどうしてほしいのかは知らないが、これから更になまえの傷つく顔が見れるんだ。そう考えると少し楽しく感じる自分もいて、自らの性格の悪さに苦笑した。上着を羽織って靴を履いて、彼女の待つ歩道橋へ足を向ける。
「…涼太」
「何スか、話って」
階段をカツカツ音を鳴らして上ると、真ん中あたりでなまえが立っていて。俺に気付いた彼女にさも気だるそうにそう言えば、眉を下げて小さく笑った。そこで、なまえの笑った顔を久しぶりに見たことに気がついた。そういえばこいつ、俺が遊び始めたくらいから、全く笑わなくなった。こいつの笑顔って、こんなんだったっけ。
「あのね、私、涼太が好きだよ」
何の前触れもなく、突然告げられたなまえの気持ち。昔からずっと知っていたとはいえ、こうして面と向かって言われるのは初めてだった。揺らぐことのない真っ直ぐな瞳に少し戸惑うも、少し頭を落ち着かせれば、いつもの調子が戻ってくる。
「で?それが何」
「涼太は、私のことどう思ってる?」
我ながら冷たい声色で返したというのに、なまえは少しも臆することなく、俺の言葉に冷静に返してきた。
「どうも思ってねーよ。何、どう思っててほしかったわけ?」
「…ううん、なんでもない」
「は?つーか今更何スか?それ俺に言ってどうにかなると思った?」
言葉が、どんどん口から溢れてくる。なまえの傷ついた顔が見たい。それを見て救われたい。そんな俺の汚い願望が、俺の理性を破壊してゆく。
「アンタの気持ちなら昔から知ってるよ。それを知った上で女遊びしてたの、わかんねっスか?」
「…わかってたよ」
「じゃあ何?俺に告白すればやめてくれると思った?」
「ううん」
「は?お前、」
「涼太」
俺の言葉を、彼女の声が遮った。なまえは少し哀しそうに、だがすっきりとした表情で、笑った。
「大好きだったよ」
それだけ告げて、彼女は踵を返した。彼女のその言葉が、その行為が、何を意味するのかわからなくてただただ立ち尽くす。
「何なんだよ…」
なまえの小さい背中を見つめ、俺も来た道を引き返す。真逆の方向へ向いてしまったベクトルを、この時に少しでも彼女へ傾ければ、何か違っていたのだろうか。
次の日、見知らぬ男と一緒に登校するなまえを見かけた。男の態度となまえの表情を見て、俺は全てを悟った。彼女の行動の意味も、寄り添う二人の関係も、そして、俺の気持ちも。
「…っ、んなんだよ、クソ…」
とても授業なんて受けられる気分じゃなくて、俺は屋上に足を運んでいた。ガシャン、と殴ったフェンスが大きな音を立てて、そんなことでさえも不快で。
なまえの昨日の言葉と、先程の表情が頭から離れない。俺が何年も見ることのなかった心からの笑みを、あいつはあんな男の前で浮かべていた。
「…バカじゃねーの、俺」
ほんとは、ずっとあいつが好きだった。ずっとずっとあいつを見てた。額に手をあて、声を押し殺して、泣いた。今更後悔したところで、あいつはもう戻ってこない。もう、遅い。
自らの手によって出来た影が顔を覆う。ぽろぽろ溢れる俺の涙に、太陽の光が当たることはなかった。