ちょっと待ってて、といつも人に向けるより情けなさの配分を多めにした黄瀬の笑顔は、なまえにとって媚薬も同然だった。 目にすれば陶酔する。胸が高鳴り、耳や頬が熱くなり、 自然と瞳が潤む。誤魔化すように唾を飲み込んで、うん、 と頷いた。「急がなくていいからね」 座っててもいいよ、と言い残して、彼は部屋の中へと駆けていく。長い廊下の先の突き当たりがリビングであるらしく、些か乱暴に扉を開け、閉め、黄瀬の姿が見えなくなると、がさがさと物を動かすような音が聞こえてきた。 ――急がなくても良いと言ったのに。余裕綽々で軽快な黄瀬が慌てている様子を思い浮かべて、つい、頬が緩む。 座っててもいいと言われたところで、玄関先に座り込む のはどうかと思い、三和土に立ち尽くしたままぐるりと辺りを見回してみる。 控えめな照明は、モデルである彼の好みだろうか。子供っぽいようで大人びた印象が、部屋にまで及んでいるのかもしれない。扉のない靴箱には、なまえの持っているよりもずっと多い靴が並んでいる。いくつもプレゼントしてもらえるのだと教わったことを思い出した。

「お待たせ、寒かったっしょ」

「ふあ、いや、へいき」

「何その返事」 くすりと笑う黄瀬は、もうすっかり余裕を取り戻している。かと思えば、ちらりとなまえの目線を追って、「ああ、これ見てたんスか」と、妙にぼんやりした言い方をした。 これ、というのは、ガラス細工でできた庭だ。庭、と一 言でいっても、ガラスでできたプレートに、ガラスを細かく砕いた砂が敷き詰められ、その上に犬だとか、亀だとか、一貫性のない動物たちが並んでいるものであるのだが、どれも可愛らしく、ついつい魅入ってしまっていた。 「集めてるの?」と口をついて出た言葉を訂正するように、「貰い物か」と続ける。 彼におしゃれな小物やそれを選んでいる様子は似合うけれども、なまえの前の恋人は少し名のある可愛らしいモデルであったと噂されているから、そういう人が置いていったと考える方が妥当だと思ったのだ。たくさんの靴と同じよう に。

「そっスよ、集めてて」

「だよね。……え?」

「自分で買ったんスよ、それ」 一人暮らしを始めてから小まめに買い増やしている、と 黄瀬は言う。 なまえでさえ素通りした、ガラス細工より小さくて脆い、透明な嫉妬心も彼にはお見通しだったらしい。「それあると、いってらっしゃい、おかえりって、挨拶してくれるみたいじゃない?」と、冗談っぽい言い方をした。

「じゃあ黄瀬は、いってきます、ただいまって、挨拶を返 すの?」

「ま、そんなとこ」

じゃあ黄瀬の家族だねぇ、といえば、随分小さいけど、 と笑われてしまう。 こっち、と案内され、靴を脱いだところで、彼らにおじゃまします、と頭を下げた。淡い光に照らされて、色を透かせて映す姿は、なるほど、いらっしゃい、と返してくれるように見える。 やはりそれに足を止めてしまっていて、なかなかついて来ないなまえを訝しんで振り返った黄瀬は、その様を見るなり口を押さえて笑っていた。

結局終電を逃し、帰るのは朝になり、親に連絡を入れたとはいえ不安いっぱいで部屋を去ることになる。 早朝の陽はまだ浅く、玄関で慌ただしく靴を履くなまえを、 焦るなと宥めているようでもある。ブーツのファスナーを上げきったところで勢いよく立ち上がり、「それじゃまた! あ、黄瀬の家族も!」とあげた手を、送っていくと聞かない黄瀬ががっちりと掴む。 「ちょっと待って」

「だから玄関まででいいって、駅近いし。せめて始発で帰らないと」

「そうじゃなくって」とかぶりを振った黄瀬は、おもむろになまえの顔の横に手を伸ばした。驚いて身をすくませるが、 「はい」と言われ、目を開く。「お土産。持ってって」

広げた両手にことりと落とされたのは、ガラス細工の犬だった。 まじまじと見ると、レトリーバーのようで、細かく表現された人懐こい表情は、目の前の男を思わせる。 「え、でもこれ」

「オレの代わり」 そう言って口を尖らせ、送らせてもくれないし、と黄瀬 は不服そうでもある。彼はもう少し自分の有名さを知るべきだとなまえは思う。

「……わかった。ありがと」

気を付けて、と傍に置いてあったフクロウのガラス細工を手に取り、それを子供にするように揺らすのに合わせて、なまえも犬を揺らしてまたね、と別れの挨拶をする。 扉を閉め、自分では到底縁のないほどのマンションの去り際に、自分の体温で暖まったガラスにそっと唇を落とした。 ごめんね、と謝ると、熱いものが喉からじわりと込み上げてくる。 私は君とみんなを引き離してしまった。これから君は一 人きりで私の家に来て、寂しい思いをするだろうけど、せめて大切にするからね。 なまえは小さい頃から抱いているぬいぐるみも未だに捨てられないでいるのに、黄瀬は自分のためだけに、家族を手放してくれたのだ。そう思うと、その分まで自分が埋めなければと、妙な使命感が沸いてきて、困った。

*

じゃあまた、と靴を履いて立ち上がると、黄瀬のお決まりの、ちょっと待って、が始まる。その度になまえは目を閉じて、両手を差し出し、彼の宝物をひとつ譲り受ける。膨れ たハリセンボンを手渡された今、もうガラスの庭には、一本のリンゴの木しか残っていなかった。 「黄瀬、駄目だよ」と、押し返す。

「ん?」

「今、黄瀬は誰にただいまって言ってるの?」 ハリセンボンは膨れたまま可愛らしい顔を保っているが、なまえは膨れ上がった感情を醜く吐露して、塩からい涙を流すことを耐えられなかった。「誰がおかえりって返して くれるの? 誰がいってらっしゃいって見送ってくれるの? 寂しかったからつくった家族なんでしょ?」 黄瀬は黙っている。けれど突き返されたものを受け取ろうという気はないらしかった。――それもそうだ。送り出した子を返されて、いい気がするわけがない。 それに気付いてから、両手で包んだそれを自分の胸に引き寄せた。 「私の家に並べても、みんなやっぱり寂しそうだよ。うちには家族もいるし、私もいつもいるけど、それでもやっぱ り、この子たちは黄瀬のだよ。私が奪っていいものじゃな い」

「奪う?」 繰り返した黄瀬は、眦をそっと下げる。玄関先にどかりと座ると、その腿を叩いて座れと促した。おずおずと、なまえはその指示に従う。触れ合う背中は熱く、回された腕は力強い。「逆でしょ。なまえがここに来て、こいつらがいなくなっても大丈夫にしてくれた」そう言って、両手を包まれる。「オレはずっと、あんたの亡霊に出迎えてもらってる」 だから持って帰ってと、彼はそっと囁いた。「家族がいてもそいつらを見て、なまえがオレを想って寂しくなれっていう、呪いなんスよ、それは」

「……わかった」 頷いて、別れを惜しみ、いつも通りに立ち去った。

そうして家に帰ってから、玄関に同じように並べたガラスの庭を眺める。確かに各々を見つめて想うのは、黄瀬のことだけだった。 気付けば梱包材を探す手間も惜しく、傍にあったタオルで彼らを優しく包んでいた。 駆り立てるのは黄瀬の幻影だ。彼を穏やかな照明と一緒に出迎えることになるだろう仲間たちと、知らぬ間に通い慣れた道を辿っている。

硝子の庭(黄瀬涼太/krk)
written by riine.

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