「菜緒!」

ああもう、なんでここで鉢合わせちゃうの。真っ直ぐに伸びる廊下には階段も何もなくて、つまり黄瀬から逃げるには一年生の教室が並ぶこの廊下を走るしかなくて。昼休みということも相俟って、人もたくさんいるのに。今はとにかく、黄瀬に会いたくなかった。

「ちょ、逃げんな!」
「や、だ…!」

どんなに必死に逃げたところでバリバリの運動部に勝てるわけはなく、あっという間に腕を掴まれる。どうしても後ろを振り向けなくて前を向いたまま首を横に振るが、逃がさない、というかのように掴まれた手首に力がこもった。

「…なんでそんな嫌がるんスか」
「…どう接していいかわかんない」
「普通に接すりゃいいじゃん」
「っ、それが出来ないから困ってんじゃん!私はあんたとは違う!」

黄瀬みたいに、そういうことに慣れてるわけでもなければ、割り切って接することが出来るほど器用でもない。私は黄瀬とは違うのだ。声を荒らげてしまったことが恥ずかしくて逃げ出そうと腕を振ってみるも、やはり黄瀬の力からは逃れられなくて。むしろ強くなったような気さえするその力に、少しだけ痛みを覚えた。

「…じゃあなんで拒否んなかったんスか」

静かな声で、黄瀬が私に問う。なんで、って、そんなの私が知りたい。落ち着いた、けれど有無を言わせぬその圧力に、ついに私の涙腺は耐えきれなくなったらしい。泣き出すのは卑怯だとは思うけれど、勝手に溢れてくるんだからしょうがない。

「…っ、うるさいなだから悩んでんだよ!ふざけんなバカ!」

バカは私だ。勝手に黄瀬を遠ざけて、たくさん傷つけて、しまいには逆ギレして。だけど、ここで弱気になったらもう負けだ。私たちを見る視線の数とか、そろそろ授業始まるとか、もう全部どうでもいい。

「嫌じゃなかったから拒否れなかった!それが問題なんじゃん!だからこんな悩んでんじゃん!」

黄瀬の顔が迫ってきた時、嫌だなんて全く思わなかった。どうしていいのかわからないながらも私が思ったことは、むしろ。あの夜も、今も、それよりずっと前からもこの男に感じていたドキドキは、以前にも経験したことがある。この感情を、私は知ってる。

「自分でも意味わかんないんだよ!あんなに落ちないって思ってたのに、いつのまにかこんなっ…こんなにあんたのこと、好きになってて!」

言い終わると同時に、黄瀬に抱き締められた。私の目から溢れ落ちた涙が、黄瀬のワイシャツに吸い込まれてゆく。黄瀬の心臓がどくどく鳴ってて、私の心臓もやばいことになってて、しかも密着してるせいで確実に本人まで届いてて。もうやだ、穴があったら入りたい。

「菜緒、」
「うるさい」
「まだなんも言ってねっスよ」
「うるさいっつってんの喋んなバカ」
「はいはい、わかったから落ち着いて」

呆れたように黄瀬が笑って、私の背中をゆっくり撫でた。それだけでちょっと涙が引っ込むんだから本当単純すぎて嫌になる。暫くそのまま黄瀬に包み込まれていると無機質なチャイムが鳴り渡って、今の顔で授業とかあり得ないし恥ずかしくて教室戻れない、なんてぼんやり考える。

「菜緒、次授業なに」
「…生物」
「そ。んじゃそれサボるっスよ。…踊り場、いこ」

まだ何も言ってないのに黄瀬が私の手を引いて、ギャラリーの間をぬって階段まで移動する。あー、今さらだけどめちゃくちゃ目立ってる。明日からどんな顔して教室入ればいいの、なんて場違いなことを考えつつ階段を上れば、いつも黄瀬と過ごした踊り場が見えてきた。

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