「……ごめん、忘れて」

黄瀬はすぐにそう言うと、私を放した。どうしていいかわからなくて、私も黄瀬も押し黙る。きっと黄瀬は、こんな状態の私に負担をかけたくないのだろう。こんな時にまで、私を気遣うのだ、こいつは。

「…そういや時間、大丈夫」
「え」

慌てて時計を見ると、針は11時を示していた。そういえば、お母さんに連絡してない。ウチは結構緩い方だとはいえ、何の断りもなしにこの時間はさすがに心配してるかもしれない。

「送るっスよ」
「え、いいよ」
「こんな時間に一人で彷徨かれる方がよっぽど迷惑っスわ。いいから送らして」
「…ん」

仕方なしに了承すると、黄瀬はすっと立ち上がってバスルームに消えていった。かと思えば、高そうなお店の紙袋を引っ提げて戻ってきて、それを私に手渡す。中には生乾きの制服がきちんと畳まれて入っていた。

「まだ乾燥機かけきれてなかったから、ちゃんと乾いてないけど」
「…あ、りがと」

乾燥機なんか、かけてくれてたんだ。紙袋を抱き抱えていると黄瀬はサイドボードの小さな引き出しを開けてちゃり、と何かを取った。どうやら自転車の鍵だったようで、それをポケットに突っ込むと、行くっスよ、と私の手を取り玄関に向かった。


「はい、後ろ乗って」
「ん」

荷台に股がり、黄瀬は自転車を発進させた。どこを掴んでいいのかわからなくて、とりあえずシャツの裾を握っておいた。…黄瀬と二人乗りするのは二度目なのに、あの時とは随分心境が違う。

「…なんか、前に来た時と立場逆っスね」
「…同じこと考えてた」

前に黄瀬の家に来た時は、私が慰める側だったのに。今はこんなにも黄瀬に支えられている。…変わったのは、立場なんて単純なものだけではないけれど。黄瀬は私を好いてくれてて、私はそれに応えられなくて。曖昧な関係のまま、ずるずると。
先程の黄瀬の言葉が、頭に木霊する。俺にしろ、とはつまり、そういうこと。けど私の中にいるのは、やっぱり。
黙って自転車を漕ぐ黄瀬の背中を見つめる。前にも思ったけれど、その時以上にその背中は広く感じた。それは以前よりもずっと、私が黄瀬を頼もしく思っているということだ。けれど。
山積みの問題に目眩がして、黄瀬の背中に頭を預けた。


「はい、着いたっスよ」
「…ありがと」

キッ、とブレーキが鳴り、黄瀬にお礼を告げて自転車を降りる。この季節に人一人後ろに乗せて漕いだからか、黄瀬の額にはじんわりと汗が滲んでいた。

「親大丈夫っスか」
「たぶん…まあ謝れば大丈夫」
「俺も一緒に謝ろっか?」
「いい、私のせいだし、完全に」

そ、と短く返す黄瀬にうんと頷き、家を見る。リビングは電気がついていて、お母さんに何て言おうかな、と考えて憂鬱になった。目、絶対腫れてるしなあ…。
はあ、と溜め息を吐くと、自転車を降りた黄瀬が私の頭にぽんと手を乗せた。

「……今日はありがとう、ほんとに」
「ん」
「…じゃあ、ね」

黄瀬に背を向け玄関に向かおうとすると、突然腕を掴まれ、後ろに引っ張られた。体勢を崩した私は黄瀬にホールドされる形になり、身体に腕を回され身動きがとれなくなる。あまりに一瞬で声を上げることすら出来ず、もちろん反抗も出来なかった。

「…さっき言ったこと、マジだから」

さっき、とは、当然あの言葉についてだろう。黄瀬の真剣な声がいかに本気かを伝えてきて、かあ、と顔に熱が集中した。それにここ、家の前、なのに。密着しているため黄瀬の心音を直に感じて、どんどん恥ずかしくなってくる。

「好き」
「…っ、」
「好きだよ、あんたが」
「き、黄瀬」
「…本気で考えてよ、俺のこと」
「…っ」

私の肩に顔を埋めて、掠れ気味の声で呟く黄瀬。もう、顔の熱が限界だ。変な汗まで掻いてきてしまって、もうどうしたらいいのかわからない。

「わ、わかった、からっ」
「え」
「ちゃんと、考える、から…」

絞り出すようにそう言えば、黄瀬は顔を上げて、驚いたように私を見た。ちょ、こっち見んな顔見んな!必死に黄瀬の逆方向を見ようとするも、黄瀬にはお見通しのようで、ふっと小さく笑われた。ああもう、悔しい。
緩まった腕から抜け出して、黄瀬を見ることなくドアの前まで走った。

「…じゃ!ありがと!」
「ん」
「…気を付けて、帰ってよ」
「ん、りょーかいっス」

黄瀬の返事を確認してから、ドアを開けて中に入る。彼の姿をちらりと見てからドアを閉めようとすると、閉まりきる間際、黄瀬の落ち着いた声が私をまた動揺させた。

「好きだよ、菜緒」

ぱたん。閉まったドアに背を預け、口許を両手で押さえる。腰が抜けてしまって、ドア伝いずるずると床に滑り落ちた。あ、んの野郎、ふざけんな。真っ赤になった顔を隠すように、膝に額を付けた。

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