とてもじゃないが勉強するような空気ではなくなってしまったため、私たちは帰ることにした。今日はいいと何度も断ったが、送らせろとうるさい黄瀬に折れて今日も送ってもらっている。…あんなとこ見られて、あんなこと言っておいて、黄瀬の好意に甘んじてしまっている。

「……」
「……」

二人を沈黙が包む。今日は言われたわけではないとはいえ、これで二度も黄瀬の気持ちを断ってしまったのだ。私から黄瀬にかける言葉なんて見つからなくて当然だ。そして、逆も然り。黄瀬から私に、かけるべき言葉なんてきっとありはしない。私たちの間には、二人ぶんの足音が無機質に響くだけだった。

「…聞かないの」
「…聞かれてーの?」
「あんまり」

じゃあ聞かねーよ、と前だけを見て答える黄瀬に、少なからず安堵した。もし黄瀬が私が泣く理由や過去にあったことを詮索するような人間だったら、きっと私の精神はもたなかった。聞かないでいてくれる優しさが、ありがたかった。…私が黄瀬に感謝する数だけ、黄瀬はきっと傷付いてるはずだけど。

「あれ、菜緒じゃん」

聞き慣れた、けれど懐かしいその声に、身体が硬直した。俯き気味だった顔を上げれば、そこにいたのは、私の元彼。
なんで、こんな時に。落ち着きを取り戻していた心が再びざわついて、心臓がどくんと音を立てる。会いたくなかったと思う自分も確かにいる。けど、話しかけてくれたことに嬉しいと感じている自分も、いた。汗ばんだ手のひらをぎゅっと握り、舗装された道路を見つめた。

「…何か用」
「別に?ただ見かけたから」
「…最近ずっと付き纏ってたくせによく言うね」
「あっは、バレてた?」

へらりとおどけたように笑いながら、私に一歩、また一歩と近付いてくる。いやだ、やめて。これ以上、私の心を乱さないで。今すぐ逃げ出したいけれど、震えた足は全くいうことを聞かない。それはきっと、逃げたいと思う私と、このままこいつといたいと思う私が、身体の中でせめぎあっているから。どうしよう、どうしよう。軽いパニックに陥る私の視界に、広い背中が入り込んだ。

「黄、瀬」
「あれ、昨日ぶりだね」
「…どーもっス、元彼クン」

黄瀬の背中で視界が遮られ、あいつの声だけが聞こえる。きっと、それはそれは楽しそうな表情を浮かべているに違いない。性格の悪さは、黄瀬並みだから。

「相変わらずベタ惚れみたいだね」
「まあ、それなりに」
「…菜緒は俺のこと全然ふっきれてないみたいだけど」
「これから忘れさせるんで、俺が」

ふうん、と黄瀬越しに声が聞こえて、小さく息を溢すような笑いが耳に届いた。そのまま、足音が此方に向かってくる。肩にかけた鞄の持ち手を、握り締めた。

「だってさ、よかったね菜緒」

私の肩に手を置いて呟き、そのままあいつは去っていった。同時に全身の力が抜けて、足がふらつく。そんな私の状態を見逃さない黄瀬は、さっと腕をまわして私を支えた。
緊張が解けると、こんなにも脱力してしまうものなのか。黄瀬にありがとうと言って離れようとすると、そのまま片腕で引き寄せられ黄瀬の胸板に顔を埋める形になった。

「ちょ、黄瀬、」
「強がってんじゃねーよ」
「……だいじょぶ、だから」
「ちょっと黙ってろ」

そう言われてしまっては、黙る他ない。口を噤み目の前のワイシャツの白をひたすらに見つめていると、頭上で黄瀬がふう、と溜め息を吐いたのがわかった。

「…フラれたくらいで諦めると思ったっスか」
「は」
「諦めて堪るかよ。あいつが好きで辛いなら、俺があいつを忘れさせる」
「黄、瀬」
「そんな軽い気持ちで好きじゃねーよ、あんたのこと」

図書室で抱き締めてきた時は、あんなに弱々しかったくせに。今私を抱き締めてそう言う黄瀬は、微塵も弱さなんて感じさせなかった。力強い、意思の籠った声。
いけないとはわかりつつ、その声に安心感を覚える自分も、確かにいた。

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