嘘はひとつもない


 そんな調子のまま授業に戻れるかと言われれば、完全に無理で。
 思わず走ってトイレへと駆け寄り、思わずいつもの癖で私は女子トイレ、女は男子トイレへと入っていってしまったけれど本当に今が授業中でよかったと思う。
 ピカピカとはお世辞にも言えない、飛沫の跡が残るトイレの鏡。汚いと思っても思わずぺたぺたと鏡を触るけれど、映るものに変化は起きない。当たり前だ。鏡を触っただけで、映し出すものに変化など起きてたまるか。


「…うそ、だろ…?」


 もうここにきて何度目かもわからない言葉を吐き出しながら、ゆっくりと、トイレを出るしかなかった。
 現実をいくら見直したところで、なにも変わる様子はない。とりあえずトイレから出て、速攻頭突きをかまして見たけれど残念なことに元に戻ることはなかった。むしろ頭痛が増した。私は最高に不機嫌な顔をしているに違いない。


「とりあえず、保健室行こうぜ…もうダメだ絶対コブになってる」

「頭突き二回とかダメージ積もりすぎた…デコ真っ赤じゃないか私…」

「痛いのわかるんだけどさぁー、やべーくらい凶悪ヅラしてるのなんとかしよ?俺こんなに顔怖かったんだって今超思ってる」

「残念ながら痛すぎて笑える余裕がない」


 自分がどんな表情をしているのか、生憎鏡から離れてしまった今見ることはできない。想像してみたいけれど、残念なことにこの体の持ち主の表情は笑っている顔しか思い出せなかった。
 これからどうするか、なんて考えてる暇もなく。とりあえずやっぱり保健室に行ってシップをもらうことくらいしか、今出来ることはなかった。



 ぺたり、と四角く切られたシップが貼られる。この感覚がどうしても苦手で、思わず「うへぇ」と声を漏らせば保健の先生は少しだけ不思議そうな顔をした。いつもの私ならここで一緒に「うへぇ」と漏らすだろうけれど、生憎彼は平気そうな顔をしている。


「…よし、とりあえずシップは貼ったけれど…本当に大丈夫?」

「あー、大丈夫です。特に具合、悪くないです」

「ならいいんだけれど…少しでも具合が悪くなったら、すぐに私でも、他の先生でもいいから言うのよ?」

「あ、はい。大丈夫です。はい。」


 適当にごまかすにも二人同時なんて厄介なもんで、馬鹿正直に階段から落ちた話をすれば保健の先生はこれでもかってくらい慌てた。そりゃもうびっくりしてシップの箱を逆さまに持っちゃって中身ばらまく程度には慌てた。ここで追撃に「実はその際自分たちの中身が入れ替わっちゃって〜」なんて話たら窓割りそうな勢いだったからさすがに黙った。最初からいう気なかったけど。
 すっかりさっぱりサボってしまった授業時間は、あともう少しくらいある。この授業が終われば昼休みだ。保健室へ行ったことはちゃんと用紙をもらったから、担任に渡せば問題ないだろう。素直に授業に戻るわけにもいかず、私たちは教室でみんなが戻ってくるまで待つことにした。


「で、これからどうする?」


 椅子を傾けながら聞いてくる女に、一応そのまますっ倒れないでよと声はかけておく。仮にも自分の体である。戻った時に痛いところが多いのはとても困る。


「どうしたもこうしたもねえ…」

「頭突きしても戻らねーし、今日一日はこのまま過ごすしかねーけどよ」

「まぁ、そうだよね…高尾くんってバスケ部だよね。うわ死ねるー」


 ボールに嫌われている人間というのはまさに私のことを指すというのに、この私がバスケ部とは。これいかに。
 思わずうなだれるも、訪れた無音に怪訝な顔をしながら顔を上げる。すると女は、とてもびっくりしましたと言わんばかりの表情を浮かべていた。


「…どうかした?」

「えっ、いや、まさか柏木さんが俺の名前知ってると思わなくて…」

「むしろ私的には自分の名前が知られてたことのほうが衝撃なんだけど」


 ハイスペックで人気者で、一年にしてバスケ部レギュラーと名高い高尾くんに比べ、教室の隅っこで携帯をいじり小説を読み、トイレと移動教室くらいでしか椅子から立ち上がらない根暗ぼっちな私。どっちの名前を覚えているかなんて、考えるまでもないというのに。何を言ってるんだコイツは。
 私が明らかに怪訝な顔をしていたのが見るまでもなくわかったのだろう女は、少し慌てたように手を振った。


「あ、いや、ほら!柏木さんって正直クラスメイトの名前、覚えてないっしょ?だから俺も覚えられてないもんだとばっかり…」

「さすがの私でも高尾くんと緑間くんのツーセットは嫌でも覚えるよ。てか、高尾くんこそなんで一回も話したことない私の名前知ってるの…」

「クラスメイトの名前くらい覚えてね?」

「やだー、高尾くんさっき自分で私に言ったこと思い出してー超恥ずかしいからー」


 ごめんよ興味なさすぎて!と思わず自分の顔を覆った。なるほどこれがハイスペックと言われる所以であるのか…クラスメイトの名前を、喋らない相手だろうと寸分違わずに覚える。これぞ彼がリア充の代名詞のような男になれる所以であり、学年一のハイスペックの名を欲しいままにしている男…恐ろしいものだ。同じ人間か悩ましくなる。


「えと、とりあえず俺はコンピューター部か。やべー俺パソコンなんていうほどいじらないんだけど、いっつもスマホ」


 へら、と笑う姿は自分を見ているようで、自分じゃないような感覚に陥る。私ってこんな表情するのかって感じである。
 なにはともあれ、私は思わず天を仰いだ。どうかした?なんて聞いてくる女の声なんて聞こえやしない。そうか、なるほど。ハイスペックだもんな。そのくらい、余裕ってやつか…。

 さらりと吐き出された、私の所属する部活。
 それを彼が覚えていたことに、ただただ感服するのであった。
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