はじまりのチャイム


 「まずはバレずに現状維持」を目標に、と掲げられた誓を胸に、ドッキンドッキンと不規則に鼓動を打ち続ける心臓を押さえつける。ついさっきまで教室の隅っこで椅子を温める生活をしてきた私が、今この瞬間からクラスの人気者を演じなければいけないのだ。そりゃあ緊張くらいするし、変な汗くらいかく。がんばれーと小さく応援してくれている女、高尾くんに理不尽な殺意さえも目覚めはじめているけれど、いくら殺意を抱いたところで現状が変わるわけでもない。
 がらり、と大きく開かれた扉に私は覚悟を決めた。


「あれ、高尾!お前サボりやがったのか!」

「ちが、チッゲーよ!見てこのシップ!階段から落ちちまったの!」

「まじかよ、だから気をつけろっつったろ!」

「あれ、もしかして柏木さんもさっきの時間いなかったけど…高尾くん?」

「あ、あー…実は階段で足踏み外したとき、頭ぶつけちゃって…」

「おま、高尾!なにやってんだよ!」

「ちょっと高尾くん!ちゃんと柏木さんに謝った?」


 げらげらと笑う男子諸君と、ぷんすこしてる女子諸君を前にもう苦笑しか出ない。おいやめろ、一応階段から落ちた身の人間を小突くんじゃない。背中を叩くな、痛いだろ。


「大丈夫?柏木さん、ちゃんと高尾くんに謝ってもらった?」

「あ、えと、うん。大丈夫、だよ?」

「本当に頭大丈夫?高尾、石頭だったでしょ」

「だ、大丈夫だから、ほんと」


 必然的に流れでこの会話に巻き込まれることになる女、高尾くんを視界に入れる。どもり加減が自分そっくりで正直死にたくなった。どうやら高尾くんはコミュ障を演じることも楽勝らしい。さすがハイスペック。
 微妙に困った顔で流す姿は、きっといつもどおりの私の姿なのだろう。自分のことなのに、こうして第三者視点で見ることになるとは。まるで夢でも見ている気分だった。夢であってくれれば、どれだけよかったことか。私はもう帰りたい。
 そうやって男子諸君を適当に相手しながら現実逃避をしていれば、ガラリ。すこし遅れてまた教室の扉が開く。思わず視線をそちらへと向ければ、そこに立っていたのは、大きな緑。

 ―――きたか。私の最大のミッションにして、高レベル難易度を所持する男が。

 思わず身が硬くなる。ひやりと嫌な汗も流れ出ている感じがする。ごくりと唾を飲み込めば、思ったよりも大きな音が鳴った。すこし落ち着いたはずの心臓はまたどくりどくりと不規則に鼓動を奏で始め、ぎゅっと握った指先が冷たくなっている。なにをそんなに、と思うかもしれない。正直私自信、大袈裟だと思わないでもない。けれども、この反応をせざるえないのだ。
 なにせ今、私は柏木ユハではないのだ。
 クラスの人気者で、お調子もので、誰とだって分け隔てなく会話ができて、コミュ力の塊で、一年レギュラーで、そんでもって、そう。彼のコミュ力は、クラスでは偏屈変人として有名な、かの緑間真太郎とでさえも、『友達』になり得る力を持っていて!

 引き締まりそうになる表情を、無理矢理にでも笑顔に変える。キュっと口角を上げ、目尻を細くする。絵に書いたような満面の笑みを浮かべながら、私は、声をかけた。


「よっ、真ちゃん!さっきぶり!」

「………」


 ふん、と鼻で一度すかすと緑間くんはそのまま無言で自分の席へと戻った。以上。終了である。


「っておいおい、ガンスルー!?もっとこう、返事くらいくれてもいいじゃん!?」

「うるさい黙れ」

「仮にも階段から落ちたあとなのに真ちゃんが辛辣すぎて泣きそう」


 およよ、と軽く泣き真似をしながら様子を伺ってみるけれど、一切こちらを見る素振りを見せない。やばいめげそうだ。
 思わず高尾くんのほうに視線をやれば、彼はこっそりと親指を立てているではないか。がんばれってか!がんばれって言ってんのか!?速攻で切られすぎてがんばりようもないんだが!ねえ!高尾くん見てる!?ねえー!!
 いくら叫んだところで言葉に出さなければ通じやしない。そのまま一度満足そうに頷いた高尾くんは、さっさと次の授業の準備をはじめてしまった。放置プレイか。コミュ障ぼっちにこの仕打ちはないんじゃないだろうか。

 すがるようにもう一度緑間くんの方を向けば、彼はクソ真面目なことに予習をしながらも、やはり一度も視線をこちらによこすことなく「前を向いてさっさと準備をするのだよ」と全力なる俺に関わるなオーラ付きで言われてしまった。

 もうだめだこころおれた。

 緑間くんの言葉にすんなりと従いながら、私は次の時間の準備をする。なるほどそうか次は数学かぁ、めんどくさいなぁ。現実逃避をしながら、鳴り響くチャイムを聞き流す。そして一秒でも長く授業が続くことを願った。彼と2人で部活なんてできる気がしません神様高尾様。

 けれども残念ながら、時計は無情にもいつもどおり時を重ねる。
 大きく鳴り響く終わりのチャイムを聞きながら、私はトイレへと走った。


 柏木ユハは、撤退した!
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