嫌いだなぁ、って。
自覚したのはいつだっただろう。

彼の性格を言葉で表現するなら、男前で、少し乱暴だけど女子に対しては凄い初心で、そして生真面目な男の子。それが一般的な彼に対する、みんなの認識だろう。男の子に人気な男の子。でも部活に凄く真面目に取り組むその姿勢とか、顔を真っ赤にして視線を逸らしながら会話(といっても、ほとんど一方的に喋りかけているだけに近いけど。)する、その普段とのギャップも重なって、ひっそりと女子からも人気があって。

そんな彼が、私は正直苦手だった。
いいや、言い直そう。私は正直、彼が嫌いだった。

根拠はぶっちゃけ言ってしまうと、ない。ただただ気づいたら私は彼がとてつもなく苦手で、嫌いで。教室で男子と一緒に笑っている姿も、女子に怖気ついている姿も、両方共凄く凄く、嫌いだった。
もしかして、私は本当は彼のことが大好きで、嫉妬という感情と嫌悪という感情を一緒にしているんじゃないかとも思ったけれど、そういうことではないと思う。そういうのとは、なんか違う。だって、彼と喋っている子に苛立つんじゃなくて、彼自身を見てると吐き気がするほどの嫌悪に駆られるんだもの。私にその感情が向けられたら、なんて。考えただけで吐けた。それはもう見事に。
これは末期だ、と自己判断した私はなるべく彼を視界に入れないように生活しながらも、それを直隠しにしてきた。私と彼は別に友達でもなんでもない、ただのクラスメイトだし、言いふらすようなことでもなかったから。私は平穏に過ごしたいのだ。余計な波乱は、立てたくない。だからこそ、友達の彼に対しての恋愛トークだって笑顔で付き合ったし、恋の応援だって盛大にしてやった。


なのに、この、状況は、なんなん、だろう。


「なぁ、主人公」


夕日が照らす、橙色に染まった教室。
わぁわぁと外からは部活に勤しむ音が聞こえてくるだけで、2人の男女がいる以外には無人な教室では、思いのほか声が響いた。

彼は、笑顔で続ける。なぁ、主人公。と。私の方を向いて、あの焼き付くような、消えてしまいそうな瞳を目蓋の奥に隠しながら。不自然なくらいに綺麗な笑顔で、彼は、また、続ける。なぁ、主人公、と。私の苗字を、淡々と、その口から紡いでく。


「なーぁ、主人公」


一見すると、仲睦まじいカップルの、青春のワンシーンにしか見えないのだろう。
夕方で、無人の教室。BGMには青春に欠かせないものとしてあげられる、部活の練習の音。方や口角を上げ、至極楽しそうに笑みを浮かべる男の子。
普段の彼とのギャップを初心以外であげるのなら、彼の声色だろう。愛しいものを呼ぶように、あまったるさに包まれ舌の上で紡がれたその「音」は、普段の彼からは絶対に想像もできないような音だった。


「…なぁ、」


けれど、私の今の現状を私の視点から確認するに、どう考えたってあの甘酸っぱいワンシーンではなくて。
背筋が凍るような、冷や汗がこぼれるような、そんな緊張感に包まれてしまい完全に竦んでしまった足は、いくら感情だけで叱咤してもピクリとも動かずにいた。頭痛がする。吐いて、しまいそうだ。早く、吐いてしまうまえに、ここから立ち去らなくちゃ。脳はガンガンと命令を出しているのに、私の体はどう頑張ったって、動く気がしなかった。もう一生このままなんじゃないだろうか、と錯覚するほどには。


「おい、」


すぅ、と薄く開かれ覗いた瞳の色を見て、ガツンッと後頭部を鈍器で殴られるような錯覚に陥る。
ビクリと動いた足は先程までの全く動かなかった足とは全然違い、今にも空を飛べそうなほどに軽くなった足で、本能のまま、駆けようとした。逃げようとした。

視界の端で、ゆらりと動き出す彼を見て、私はその本能に無理矢理ストップをかけ急ブレーキと同じ容量で、踏み出した片足を行動に移すための全機能を止めるように床に打ち付けた。


―バァンッ!


重なった殴るような音を聞いて、一瞬反響でもしたのかと思ったけれど、むしろ反響だったらどれだけ嬉しかったことか。

目の前に叩きつけられた、一本の腕。
あと一歩、とまるのが、遅かったら。そう考えるだけで背筋がゾッと冷えていった。


「スゲー、止まったか」


頭上から聞こえる、感心した。というような声に気を惹きつけられ、思わず視線を声のしたほうに向ける。ばちり、と交わりあった視線はガラス玉のように目の前の出来事を移しているだけで、他の色が見えなかった。


「かさま、つ、く」

「なぁ、主人公」


ふわり。何事もなかったかのように笑みを見せる彼は、自然体でいて、とても不自然だった。叩きつけられた腕は、いまだ動くことはない。つまり必然的に私たちの距離は近くて、片方しか塞がれていないはずなのに、まるで牢屋に放り込まれたかのように逃げ道が導き出せない。せめて空気だけでも、と思い発した声は意図的に遮られた。逃げ道が、ない。逃げ道、が、


「好きだ」


からん、と落ちてきた空っぽな言葉は、一瞬理解ができなかった。
カラカラになった喉から言葉を絞り出そうとしたけれど、漏れるのはハッ、と小さな吐息だけで、それ以上なにかを紡ぐことはできなかった。


「好きだ、好きなんだ。お前のことが、俺は、好きだ。」


からん、からん、ころん。いくつも投げつけられる空っぽな言葉は、どれも理解しがたいものだった。空っぽで、空っぽで、うっすらとも色づいてない言葉はうれしいとも、かなしいとも、嫌悪さえも浮かんでは来なかった。それほどまでに、彼の言葉は干からびて、空っぽだった。甘さも苦さもなにも含んでないそれは、ただ音を出した楽器のように、意味もなにもないように聞こえた。


「…笠松、くん」

「ん?」


にこり。口角を上げて、目を優しそうに細めながら問いかけてくる。こてん、と少し首を倒した姿は、普段の彼からは想像もできない姿だった。私以外の女の子だったら、きっとギャップ萌え、というものに身を焦がすような想いをしていただろうに。生憎、私はどんなに普段とのギャップを感じはせど、萌えなんてものは見いだせなかった。吐きそう、だ。ごくり、と思わず飲み込むけれど、唾はない。むしろ、喉はカラカラだった。


「笠松君、わるいけれど、私、あなたのこと、」

「嫌いなんだろ?」


さらっと、なんでもないことのように言われて思わず息が止まった。なんで、知っているんだろう。それ以前に、なんで知っているのに私にこんな告白まがいのことを、しているんだろう。パニックに陥る私に見向きもせず、彼は笑顔のまま続けた。


「知ってるさ、主人公が俺のことが嫌いなことくらい。だから俺はお前が好きだし、こうしてずっと待ってたんじゃねぇか」

「待って、た?」

「ああ、待ってた。ずっと。お前と、こうやってふたりきりになるのを。」


呼び出したところで、どうせおまえ、来ないだろ?くすくすと笑いながらそんなことを言ってみせる彼に、私はまた頭の奥がガンガンと鳴る。警報のようなものも聞こえてくるような気さえして、今すぐにでも大きな声をあげて逃げ出してしまいたかった。
きっと、私の顔は死体のように青いのだろう。血色の悪い、酷い酷い表情をしているに違いない。それほどまでに、私は彼を、受け付けられなかった。

ゆらり。笑いながら動いた彼に、警報の音と心臓の音がうるさくなる。逃げよう。逃げたい。逃げ、なくちゃ。逃げるんだ。逃げないといけない。ぐるぐると脳内を覆い尽くす言葉に同意して、逃げ出そうと思った。逃げ道なんて見えなくても、今ここにいちゃいけないことくらいわかってた。わかってしまったからこそ、私は逃げたかった。


「逃がさねえよ」


私の足が動き出す前に、足を踏まれて止められる。そこまで痛くはない。けれど、私はもう、確かに逃げられなくなっていた。


「なぁ、主人公」


甘い、あまい声。砂糖菓子よりも甘く、優しく紡がれる自分の名前に吐き気がする。ドロドロとしたものに、私はいつ触れてしまったのか。触れた場所からドロドロと溶かされていく錯覚に、身震いした。そして、遅い遅い、自覚をした。

これは、嫌悪じゃなくて、恐怖だったのだ。


「捕まえた」


手を壁につけて逃げ道を奪っているほうではなく、もう一つの空いている腕でゆっくり肩を掴まれる。痛くはない。痛くなんて、ないんだけれど、逃げ出せる気が一ミリもしなかった。気づくのが、圧倒的に、遅すぎたのだ。嫌悪と恐怖を、間違えて認識なんてしていなければ。ずっと私の中の本能は、教えてくれていたのに!

じわじわと浸食するように、私は彼の腕に、捕まった。



(警報音は、聞こえない)
(もう、鳴らす必要なんて、ないということなのか)