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Zauber Karte

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記憶の消失


「し…新一っ!!」
「あっ、おい優月!!」


目の前に現れた新一は、確かにコナンの姿じゃなく元の高校生の姿になっていた。
石が転がる不安定な地面を懸命に走りながら、何故こんな事になってしまったのかを必死に考える。


−平気だよ。博士に貰った風邪薬飲んだし…−


ふと脳裏に、以前博士からもらった薬で悪夢を見た事を思い出した。
それと同時に、顔から血の気が引いて行く感覚がして、やっと新一の傍に辿りつけたというのに、クチビルが震えて言葉をうまく発せない。
博士が新一に渡した薬は、実は解毒剤だった…?
だから新一は元の姿に…?


「ね…ねぇ、新一…?」
「え…?」
「まさかとは思うんだけど…博士からもらった風邪薬って、もしかすると…」
「…新一?」
「…え?」
「それが…僕の名前ですか?」


どこか冷めた様に私を見つめる新一の瞳。
川のせせらぎですら、聴こえない。
新一の口から発せられた言葉が、私の胸を締め付ける。


「な、何アホな事ぬかしとんねん!お前は東の高校生探偵、工藤新一!そないなしょーもないボケ、誰も笑わへんぞぉ!」
「探偵…?」


ポカン、とした顔で私と平次くんを交互に見やる新一を眺めながら、頭が真っ白になっていくのを感じた。
この人は、何を言ってるんだろう。
何でこんな時に、冗談なんか言ってるんだろう。
そんな想いが一気に駆け抜けてきて、今起きてる現実が信じられなくて、スカートの裾を力一杯握りしめた。


「分からない。僕が誰なのか…。ここが、どこなのか…」


冷静になろうと、必死に思考を張り巡らせる。
…そう。
前にもこんな事があった。
ほんの数カ月前、自分の記憶がまるごと消えてしまったあの事件。
胸にざわつくあの時と同じシチュエーション。
まさか、何かの拍子に新一の記憶が…?


「…嘘、だよ」
「え…?」
「こんなの…新一じゃない…。私の知ってる新一なわけない!!」
「お、おい優月…」
「ねぇ、そうだよね新一!?自分の名前が分からないなんて冗談なんでしょ!?私の事も分からないなんて…そんなの…。ねぇ新一ってば!嘘だって言ってよ新一っ!!新一ぃ!!」
「優月落ち着け!騒いだってしゃーないやろ!」
「っ…」


平次くんの言う通りだ。
泣いたって、仕方が無い。
新一を攻めたって、仕方が無い。
…分かってる。
そんな事…そんな事言われなくたって分かってるよ。
だけど信じられなかった。
信じたくなかった。
まさか新一が記憶喪失になるなんて…そんな事、到底…。


「ふ…ぅ、っ…」
「優月ちゃん…」


どんなに我慢しようとしても、涙は止まってなんかくれない。
そればかりかどんどん溢れてきて、顔を覆っている掌があっという間に濡れていく。


「…新一は、」
「…え?」
「新一は…私が、記憶を失くした時…こんな気持ち、だったんだ…」
「優月ちゃん…」


私が記憶を失くしていた時、新一がたまに見せた苦しそうな顔。
それが今になって鮮明に思い出されて、流れる涙が一層悔しく感じた。
私は新一みたいに自分の感情を抑え、取り繕って話をする事なんて出来ない。
どうしたらいいのかさえも、思い付かない。
そんな自分自身が、とてつもなく悔しかった。


「おい、よく見たらコイツ、あの工藤新一じゃねぇか!だったら助けるんじゃなかったよ…」
「何やとコラ!!」
「あの…」
「え…?」
「何か、着る物を貸して頂けませんか…?何も着てない様なので…」
「ええで!俺の着替え貸したるわ!」


しゃがれた声で話す新一は、確かに私が恋をしたその人なのに…どうしてだろう。
この人は、本当に新一なの…?
そんな猜疑心に満ちた目で見てしまうのは、きちんと現実を見ていない証拠なんだろう。
だけど、信じられないよ…。
新一が、記憶喪失になっちゃったなんて…そんなの…。


「にしても、ひっでぇ風邪声だなぁ…」
「まるでコナンくんやわ…。あっ、そうや!早よコナンくん捜さへんと!」
「いや、もうその心配はないん」
「え?何でなん?」
「あ、ああ、いや…せやから実はやなぁ…」


平次くんが苦し紛れな言い訳をした直後、小五郎ちゃんの大きい声が山に響き渡った。


「電車に乗って先に帰っただとぉ!?」
「ひ、1人で!?」
「あ、ああ…村役場に行く前に、あの坊主がそない言うてたのすっかり忘れとったわ!風邪こじらせたらアカンから、やっぱり帰るってのぉ…」
「でもさっき、メガネの少年が森に入って行くのを村の人が見たって優月ちゃん言うてたけど…」
「あ、そ、それは…」
「電車の時間まで暇潰しに森ん中探検してたんやろ!あの坊主、好奇心旺盛やし…」
「…」


平次くんのフォロー、今までで1番しっくりきたかも…。


「だけど、事務所に帰ったって誰もいねぇぞ?蘭は大会が近ぇから学校に泊まり込むって言ってたし…」
「え…?」


蘭は園子の家のパーティーに行くんじゃなかったっけ…?


「た、確か阿笠っちゅうジイさんの家に泊めてもらうんやとか何とか…」
「アンタ、何でそれはよ言わへんのん?」
「せやから忘れとったっちゅーとるやろ!」
「とにかく、ここは携帯電話の圏外だ。あのガキの所在を確かめるんなら、電話が置いてある旅館に戻るしかねぇぞ!何もかも忘れちまった、この厄介な探偵坊主を連れてな…」
「…」


みんなが一斉に新一へ視線を送った。
ただ茫然と座っている新一は、確かに私がよく知ってる工藤新一の顔をしている。
だけど、なんだろう…。
何だかいつもと雰囲気が違う様な気がしてならなかった。
うまく言い表す事が出来ないけど、そんな気がしてならない。


「…はぁ」


ダメだなぁ、私…。
こんなのただの現実逃避じゃない。
大好きな人が記憶を失ったという事実から逃げたくて、こんな考えになってるんだよねきっと…。


「ふん!そいつを正気に戻すのは諦めな…」
「え?」
「きっと、森のアイツに会っちまったんだよ!くわばら、くわばら…」
「お、おい!ちょー待ってくれ!」


森のアイツ…?
それって一体…。


「…さて、日が暮れへんうちに旅館に戻った方がええな。立てるか工藤?」


ヨロヨロしながらも立ち上がった新一を何となく観察していた時、ふっ、と何かを感じた。


「…あれ?」


何故だか分からないけど、正体不明の違和感が私を襲う。
顔をしかめずにはいられないぐらいの、この妙に居心地の悪い違和感は一体…?


「おーい優月!何ボサッとしてんねん!置いてくでー!」
「あ…ごめん!今行く!」


平次くんに支えられてフラフラと歩く新一。
その後ろ姿は、何だか別人の様に感じられた。
この人は、本当に新一なの…?
ううん、確かに新一だとは思う。
でももし仮に、だけど。
この人が、本当は新一じゃないとしたら…?
そうだとしたら、本物の新一は、どこにいるの?
この男は、一体誰なの…?
何とも言えない疑念を抱えながら、みんなと共に旅館へと急いだ。


bkm?

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