二話
台所に駆け込んで大きく息を吐く。
顔が、身体が、
先程掴まれた手首が、熱い。
「人の気も知らないで…」
この屋敷の一人息子の健吾さんは"若様"と呼ばれることを好まない。
確かにこの明治の世にもう武士という身分はないわけだが、家臣にとって若様はいつまでも若様なのだ。
だからと言って私は爺様たちのようにもう一度幕府の時代を、武士の時代を、だなんて思ってはいない。なんというか…私にとって"若様"は愛称のようなものだ。
幼い頃から呼び続けていたから今更やめるにやめられない。
そして何より、恥ずかしいのだ。
想い人の名を呼ぶなど。
未だにどきどきと大きな鼓動を繰り返す心臓を無視して朝食の配膳を始める。
全員分が揃ったとき、頃合いを図ったように若様が入ってこられた。
「若さ…け、んご、さん。…只今旦那様を呼んで参ります。」
「ああ、よろしく。…お、今日はめざしか。」
また若様と言おうとしたら少し拗ねたような顔をされたので慌てて言い直す。
旦那様を呼んで来て朝食が始まる。
私はまだ食べない。
旦那様達が食べ終え、片付けも終わってから頂くのだ。
しばらくして食事が終わり、食器を水に浸けている間に旦那様のお着替えの手伝いに行く。
そこで最近気になったことがある
「旦那様…お痩せになられました?」
「そうか?変わらないと思うが…」
「最近食事の量も減っている気がして…もしかして、お口に合いませんか?」
「いやいや、繊の料理は好きだよ。」
「なら体調が優れないですとか」
「特に変わりはないよ。心配いらないさ。」
ぽん、と私の頭に手を乗せる旦那様。
そうですか…と返してはみたがやはり心配だ。親を亡くし爺様しかいない私を父親同然のように育ててくれた方。
仕事は心身ともに大変だろう。
何があるかわからない、少しいつも以上に気を配っておこう。
「それじゃあ、行こうかな。」
「はい。」
荷物を持って玄関まで行く。
「じゃあ行ってくるよ。」
「行ってらっしゃいませ。お気をつけて。」
旦那様が角を曲がるまでお見送りする。
本当ならあんなに辛そうな仕事になど行ってほしくない。けど、やはり生活があるから…
ご自分だけでなく若様や私、元家臣のもの達も養わなければいけないのだ。
何だか申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
そろそろ、決めようかな。
いつまでも長瀬家に頼ってはいられない。
まあ、まずはご飯を食べて片付けをしてから考えよう。
決めなきゃ、
(そろそろ巣立ちの時なのかも)
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