沈丁花の海に溺れる
歳を重ねて、漸く気付くとこが出来るものもあるのだと、深く思うことがあった。
少し肌寒くなってきたこの頃。
私の顎にひとつ、ニキビが出来た。
ストレスか、食生活の乱れか。はたまた別の何かか、原因は分からないけれど。
ただ、少し泣きそうになってしまった。
こんなことで今を振り替えるだなんて、と。
ある日、ある人が居なくなった。それは、私より先に居なくなることも、またそれが近くにあることも分かりきっていたけれど。いざ、居なくなってしまうと、私はある人がずっと居てくれるのだと勘違いしていたのだと、まざまざと思い知らされることとなった。
否、勘違いしていたかったのだろう。迫り来る真実から目をそらして、毎日の流れのままに過ごしていけたらと思っていたのだ。
段々と細くなる枝にも、浅くなる底にも、気づいていたのに。時折開く世界に、私はキラキラとした未来を描こうとしていたのだ。
あぁ、良かったと。
そう思えるようになれれば、それが大人なのだとさえ思っていた。悲しむことは必要だけれど、涙を流すことを躊躇うこの心に戸惑う。
私なんかより悲しい人は沢山いるはずだから、私よりも辛い人は沢山いるのだから。そんな言葉が胸に詰まり、素直に吐き出すことも出来なくなった。
誰だって同じなら、私にだって泣く理由があるはずなのに。いつだって、平等なはずの天秤の片側に、勝手に傾きを与えている。それに気づいたとき、唐突に感情が伝った。
それがやがて来る確かなものであっても、目の前で弱り行く灯火に、必死になっていた。
まだいけると、認めたくないそれから逃げて逃げて。
伝わった電波と記号を見て、私は漸く足を向ける。私を置いて流れる風が、やけに頬だけを冷やして。機械音を響かせて向かえば、あの人はとても穏やかなものだった。
綺麗だ、と。
本当にそう思えたけれど、それが清められた結果であり、これからの旅路への支度だと思えば、視界が歪まぬ筈もなく。あの人の世界は永遠に閉じられ、そこにキラキラとした未来はない。
それでも。
あの人にとって、この数年が神様に愛されたものであるよう、私たちに大切に思われたものであることを感じてもらえていたのなら。
何もない焼け野原から立ち上がり、必死に生き抜いたあの人の旅立ちが少しでもキラキラとしたものであったのならば。
きっと私たちは、別れという目的地まで、時折目を背けながらも穏やかに過ごしていけるだろう。
(掻き抱く幻想、降り積もる帰心、
この場所だけはどうかあの日のままでと
願った愚かな自分)
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