欲望をすり替えるならば
ある日私は、綺麗な菖蒲を一つ、手折った。
それは、久しぶりに仕事の休みがとれた日曜日。趣味である登山をしていた時の出来事であった。
私は前々から登ろうと思っていた山に登頂を試みていた。大して辛い山道ではなく、朝に出発して昼頃には天辺に着くことが出来た。
登り切れた達成感と、少しばかりの物足りなさを感じながら、私は元来た道を戻る事にした。
その帰り道、ふと右手を見ると、小さいがしっかりとした獣道を見つけた。
私は、あまりにあっさりと出来た登頂に物足りなくなっていたため、このまま帰ってしまうのも勿体ないと思い、その獣道を進んでみる事にしたのだ。
しばらく木々が生い茂った草群が続く。鳥のさえずりが聞こえ、ざわざわと風の音を感じた。
それはそれで自然の風情があるものだが、私が期待したような何か面白い物は見えてこなかった。
これは行くだけ無駄かもしれない、と思い始めたその時、視界が突然開けたのだ。
大きな大きな湖が姿を現したのだ。
地図には載っていなかったが、こんなところがあったのか、と驚いた。
そして私はその湖の畔で、美しい一輪の菖蒲を見つけたのだ。
誰もいない、誰にも見られることがないような場所にひっそりと咲いているものだから、私はどうしてもその菖蒲を自分のものにしてしまいたくなった。
しかしその思いのまま手折ってしまった結果、菖蒲はあっという間にその美しさを散らしてしまった。
あんなに凛と佇んでいたのに、今では私の部屋の中で薄汚い色を残すのみ。
あの菖蒲はあそこにいたからこそ、美しさを保っていたのではないか。
あそこにいたからこそ、輝き続けられたのではないか。
そう思うと、菖蒲を手折ってしまったことが申し訳なくなってしまった。
私が見つけてしまったから、菖蒲は死んでしまったのだ。
それから私は、美しい物を見ても手に入れようとはしなくなった。
花も、衣服も、動物も。
あそこにあるからこその美しさを、私は手折る事が出来なくなったからだ。
例え手に入れたとして、その後どうなってしまうのだろう。
あの菖蒲のように無残に散らせてしまうかもしれない。
なら、美しい姿形のままで遠くにあってほしいと願うようになっていた。
それからしばらくしたある日。
仕事からの帰り道、工事中のためいつもと違う道を帰ることになり、普段通らない道を帰った。
そこは住宅街から少し外れた場所にあり、ポツポツと灯る明かりだけが周囲を照らしていた。
その道を突き当たるまで進むと、大きな洋館が立っていた。この道を右に曲がり真っ直ぐ行けばもう私の家は其処にある。それなのに、その圧倒的存在感を放つ洋館に足が動かなくなっていた。
私は、こんなものが家の近くにあったなんて知らなかった。
表札には名前は書かれておらず、洋館の庭を荒れ放題であったため、私はこの家が廃屋であると悟った。
周囲をぐるりと柵で囲まれているようで、庭への入り口である門は、頑丈な鎖でがんじがらめに括り付けられている。その鎖には南京錠で鍵まで掛けられており、酷い拒絶感を受けた。柵から覗き込んだ庭には、伸び放題荒れ放題の状況が見て取れた。が、その先に立派な洋館の入り口を見つけた。
その扉には特に鎖が有るわけではなく、もしかしたら鍵がしまっていないかもしれない。
他に何かないかと、二階の窓を見た時だった。
綺麗な二つの眼が私を見つめていたのだ。
窓際に佇む、人形が私を見ていたのだ。
その人形は、周囲の明かりの少なさと遠目からであるためはっきりとは見えないが、髪の長い少女の人形であるとわかった。
ガラス製の瞳なのだろうか、街灯の明かりのキラキラと煌めいて見え、私に何かを語り掛けているように感じられた。
ふと私は、あの菖蒲を思い出された。
『誰もいない、誰にも見られることがないような場所にひっそりと咲いているものだから、私はどうしてもその菖蒲を自分のものにしてしまいたくなった。』
あの時のように、彼女を自分のものにしてしまいたくなった。
彼女だって、あそこにあるからこその美しさであるのかもしれない。あそこにいるからこそ、あのガラス玉の瞳は輝くのかもしれない。
そう分かっていても、私は今までのように自分の欲望を抑える事が出来なかった。
彼女を、手に入れたい。
ただ、それだけになってしまったのだ。
それからの私の行動は素早いものだった。
柵を乗り越え庭に侵入した。洋館の扉に手を掛けたが、やはり鍵が掛けられており、ガチャガチャと音がしただけ。
どこか中に入れる場所はないかと洋館の壁に沿って歩くと、窓ガラスが割られている箇所を見つけた。子どもが誤って割ってしまったのだろうか、近くの野球のボールが落ちていた。
理由はどうあれ、私はその穴から手を伸ばし、内鍵を開け中に侵入した。
廊下には絨毯が敷き詰められており、廃墟になる前は素晴らしい屋敷であったのだろうと感じられた。
たくさんの部屋があり、ロビーらしき所には立派な螺旋階段が二階への道を造り上げていた。
彼女は二階にある部屋にいた。私はその螺旋階段を迷う事なく駆け上がった。
窓の方向と位置から、私は彼女のいた部屋を推測し、その扉を開けた。
彼女は窓際に向かって、優雅に座り込んでいた。
出窓になっているそこに少し俯き気味に佇む姿は、儚く美しいものであった。
私はついに彼女との対面を果たしたのだ。
私はゆっくりと彼女に近づいていく。
長い間人が住んでいなかったのであろう其処は、歩くたびにギシギシと悲鳴を上げ、埃が舞い上がる。
スーツに降り掛かる白いそれを気にする事なく、私は徐々に彼女との距離を詰めていった。
ついにあと一歩で手の届く位置に辿り着く。
この一歩さえ縮めてしまえば、彼女は私のものになるのだ。
そう思うと、私は何とも言えない幸福感に包まれた。
私はその気持ちのまま、勢い良く最期の一歩を踏み出した。
三ヶ月後、廃墟となった洋館の中で、一人の男の死体が発見される。
男は近所で行方不明となっていた会社員で、一階のある部屋で全身打撲で死んでいたらしい。近所の子どもたちがこっそり遊んでいた時に見付けたのだという。
警察が調べた結果、二階の部屋に忍び込んだ男は、たまたま腐っていた板を踏み外してしまい一階に転落してしまったのだという。すでに一部が白骨化していたが、辛うじて分かった男の表情はどこか恍惚としていたという。
そして、男の腕の中には、一体の人形が抱き締められていた。
私は、永遠に美しい物を手に入れたのだ。
(この狂おしい迄の愛さえ
貴方は滑稽だと笑うのだ)
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