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入浴は夫婦揃って。

それが千尋が一野辺から太宰に変わった時に約束したことだった。勿論仕事の都合や体調の所為で叶わない時もあったが、極力入浴は二人でというのを結婚してからずっと守っている。

子供たちが産まれてからは特に、家族団欒のような時間になっていて二人では静かだった浴室もとても賑やかになっていた。

今日も今日とて仕事を終え、家族揃って入浴する。まだ子供たちは小さいので支障はないが、もっと大きくなったらこの浴室も狭くなるんたろうなァと一人考えながら子供たちの体を洗っていると、太宰が深いため息をついた。

「はァ…………」
「どうしたの、浮かない顔して」
「ぱぱ変なおかおー」
「変なおかおー!」
「こら」

子供たちがはしゃぎながら太宰を茶化すものだから、少し強めに注意する。悩んでいる人間を無闇に揶揄うものではない。

泡だらけの体を流し、子供たちと共に浴槽に入ると後ろから太宰に抱き締められる。そのまま肩口に額を押し付けてくるので濡れた髪が首筋に当たって少しばかり擽ったいけれど、随分と悩んでいるようなのでそれを口にすることはしない。

暫くそうしていると、太宰がようやく口を開いた。

「少し厄介、というより面倒な依頼人に当たってしまってね。実害はないと思うのだけど……」

厄介。面倒。

ある程度の事柄は飄々と躱す太宰が言うのだからその人物は余っ程の人間のようだ。あまり想像出来ないが矢張り女性だろうか。逆な立場であることも多いので太宰の気持ちも判るのだが、今回はいつもとは少しばかり違うらしい。

「他の誰かに何かを言われても、私の愛を疑わないでおくれ」
「……子供たちみたいな顔してる」
「君に捨てられたくないからね」

眉を下げて、今にも泣きそうな顔。子供たちを叱っているとよく見る表情だ。こういうところはそっくりだなァと一人感慨深く思いながら、千尋は太宰に向かって微笑む。

「大丈夫。治くんからの愛を疑ったことなんて、ない」

それは心からの言葉だった。言葉で、声で、表情で、態度で愛おしいと告げてくれる太宰の愛を疑ったことなんて一度もない。

だから安心して、と付け足すと太宰は漸くゆるりと笑った。



これは一体どういう状況だろうか。
仕事中、来客だと呼ばれ応接室に向かったのはいいものの其処で待っていたのは見知らぬ女だった。明るい茶髪を緩く巻き、ふわりとした服を着ている女性は千尋が見て笑みを浮かべた。

「初めまして、太宰がお世話になっています。私、太宰の恋人の」

そう言って自身の名を名乗る女。太宰の恋人の、と余計な装飾がついたが。

にこにこと笑いながら此方を見遣る女に昨晩言っていたのはこれか、と察する。太宰が誘惑しただとかそういうことは端から考えにない。一番愛情を注がれているという自信があるし、あの日互いの左薬指に嵌めた指輪を太宰が外すことはないと思っている。

だから千尋は平然と返事をした。

「ああ、主人が担当してる方ですね。お世話になっています」

千尋の返答が気に入らなかったのか、女は顔を憎々しげに歪めた。可愛らしく化粧をしているが表情の所為で台無しである。

態とらしく大袈裟なほどの舌打ちを零した女は鋭い視線を千尋に向けた。視線だけで人を殺してしまいそうな勢いである。

「……単刀直入に言います。彼に付き纏わないでください、太宰さんは私と結婚の約束をしてるんですから」
「失礼ですけど」

その言葉を聞いて頭に思い浮かんだ返答。
流石に伝えるのは可哀想なので、遠回しに伝えることにしよう。

「ご自分の顔を見て、出直されては」
「本当に失礼だな!?」

淡々と伝えた言葉に目の前にいる女ではなく珈琲を持ってきてくれた中也が反応した。
そんなことを言われたって、事実なのだから致し方ない。千尋は自分の顔が嫌いだが自分の顔が整っていることは自信がある。

千尋の言葉が癪に障ったのだろう、女の顔がみるみるうちに険しいものへの変わっていきまるで般若のようだ。

「この泥棒猫!ちょっと顔がいいからって調子に乗らないでくれる!?」

ばしゃり、と。顔に何か冷たいものがかかった。
前髪を伝って頬を流れていく、珈琲の匂い。どうやら中也が持ってきてくれた珈琲をぶっ掛けられたらしい。

なんとも短気な女だ。人の性格にあれやこれやと文句を言う心算はないが、流石にこれは如何なものかと思う。
そんなことを考えながら立ち上がり、女の頬を叩こうとした千尋の手を誰かが掴んだ。

「……離してよ、織田くん」
「待て。今手を出したら負けだ」
「…………チッ」

千尋の背後に立っていたのは織田だった。いつの間に背後に。振り上げている腕を掴んでいる手は力強く、そう簡単に離してもらえそうになさそうだ。嘗ての世であれば振り払うことも簡単だったが今はそうはいかない。

眉間に皺を寄せていると中也が女を応接室の外へ引き摺り出そうとしているのが視界に映った。あの様子ではそのままビルの外へと出されることだろう。これ以上怒りを持続させるのも面倒だ、と千尋が一つ息を吐くとそこで漸く織田の手が離れていった。

「お前の手は人を傷つける為にあるものじゃないだろう」
「そんなの、今更だよ」
「いいや。今はもうあの頃とは違うんだ」

諭すような言葉に思わず黙り込むと、遠くから「ママ」と子供たちが自分を呼ぶ声が聞こえてくる。
…………昔とは違う、今。その言葉に少しだけ考え込む。平穏に生きるということは中々難しいものだ。



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