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苗字が太宰になったからと何かが劇的に変わった訳ではない。籍を入れる前から一緒に暮らしていたので生活リズムが変わる訳でもないし、社内では変わらず旧姓のままだ。
恋人から夫婦になったことで変わるとすれば、それは自分の心の余裕かなと思っていたのに──そんなことは全くなかった。
「おはよう」
「お、おはよ」
朝。目が覚めてすぐに太宰に声を掛けられる。同じベッドで寝ているのでそれはわかるが、先に起きている太宰がどうして千尋の目覚めを待っているのかその理由は判らない。
寝顔でも見ていたのか突き刺さる視線に、寝起きだというのに目が泳ぐ。うろうろと視線をさ迷わせつつなんとか返事をしたものの、太宰が向けてくる甘ったるい空気に心臓が爆発寸前だ。
なんで、どうして、そんな目で私を見るの。
恋人であった頃よりも過分に甘さが含まれた瞳に気恥ずかしくなって、柔らかな枕に顔を埋める。もしも視線に物量があるならば千尋はとっくに穴だらけだろう。
「どうしたんだい、私に可愛い顔を見せておくれ」
千尋が何を思ってそうしているのか理解しているだろうに、わざわざ顔を見ようとしてくるところが本当に狡い。どうして太宰はそんなにも余裕なのか。
──太宰と夫婦になって大きく変わった部分といえば甘やかしが以前よりも酷くなったこと…その甘さは生クリームたっぷりの洋菓子に砂糖をまぶして、更に蜂蜜とチョコレートを追加したようだ、とは太宰の甘やかしっぷりを目撃した中也談である。
「千尋。君がいつまでもそうして私を見てくれないと、寂しくて泣いてしまいそうだよ」
「……嘘つき」
「本当さ。君に構ってもらえないと胸が張り裂けてしまいそうな程苦しい」
「…………」
その言葉に漸く枕から顔を上げると、太宰が嬉しそうに抱き着いてきた。ぎゅうぎゅうと力いっぱいに抱き締めてくるものだからなんともいえない気分になってしまう。
いいのだろうか、こんなに愛されてしまって。なんの迷いもなく注がれる愛情を焦がれていたというのに、いざ受け取る立場になると心の奥に潜んでいた不安が少しだけ顔を覗かせた。
不安。そう、不安なのだ。この幸せが夢ではないかと、偽りではないかと考えてしまう自分がいる。そして千尋はそんな自分を、太宰が注いでくれる愛情を疑ってしまう自分を許せない。
抱き締めてくれる太宰に抱き着いて、千尋もぎゅうぎゅうと抱き締め返していると太宰が「愛してるよ」とそっと囁いてきた。
「君以外何も見えないくらい君を愛して、君に溺れてるんだ」
目と目が合う。甘さと熱を含んだ瞳が真っ直ぐに此方を見つめている。
「だから君も安心して私に溺れてくれ」
「そんなの、とっくに」
ゆるゆると不安が溶けていく。また不安になってしまうこともあるだろうけれど、太宰がこうして抱き締めてくれるのなら疑う必要なんて何もない。