▼ 太宰/逃避行
とんとんとん。
玄関の、扉の向こうから音がする。
「こんばんは。今日も寒いね」
くぐもった声。いつもと変わらない、優し気な声。
とんとんとん。
「最近君の顔を見ていないから心配になってね。つい顔を見に来てしまったよ」
それもそうだ。ここ一週間ほど家の外に出ていないのだから。
とんとんとん。
「ねェ、そこにいるんだろう?君が心配なんだ、声を聞かせておくれ」
悲痛な声。きっと端正な顔立ちを悲し気に歪めてそこに立っているのだろう。
決して。決して、あの声には答えてはならない。明かりを消して息をひそめて物置ひとつ立てず、此処にはいないのだと彼に思ってもらわなければならない。
────名前も知らない彼にストーカー行為をされ始めたのはひと月ほど前。道端で突然声をかけられ、それから彼は私の日常の端々に現れる。
『君のことが好きなんだ。一緒に死んでおくれ』
頬を赤らめ、瞳を蕩かせて。甘い声を出しながら彼は私に包丁を突きつけた。いくら顔がいい男に告白されたって、死んでほしいと言われて頷く筈がない。
刺されないように気をつけながら彼を宥め、適当にその場を誤魔化して立ち去ったのだがそれが悪かったのかもしれない。
『こんにちは。今日は一緒に死んでくれるかい?』
にこやかに笑いながらされる心中の誘い。心から好いた人に誘われたのならば頷くかもしれないが、私は彼のことなど何も知らないのだ。
そんな状況で心中を迫られたって恐ろしい以外の感情を抱ける訳がない。だというのに彼は毎日毎日現れては繰り返し心中を迫ってくる。
先に心が折れたのは私の方だった。仕事を辞め、外出を控えたらきっと彼も諦めてくれると思っていたのだがそれは勘違いだったらしい。
とうとう家にまでやってきた彼に心臓が嫌な音を立てる。
どくどくと耳元で聞こえる心臓の音が彼にも聞こえてしまいそうでつい呼吸が荒くなってしまいそうだが、それでもぐっと堪え息を潜め彼が帰るのを只管願う。
彼が帰ったらこの家を引っ越そう。そして誰も自分を知らない土地に行くのだ。心穏やかに生活したい。
「……いないのかな。また来るね」
落胆したような声が聞こえ、扉を叩く音が止む。
諦めてくれたのか、早く帰ってくれ。必死に祈っていると足音が遠ざかっていき、ようやく胸を撫で下ろす。しかしそれでも安堵はできない。
太陽が昇る前にでもここから離れるのだ。最低限の荷物さえあれば何処でだって生きていける、だから早く
がしゃん
焦る思考を止めたのは、何かが割れる音だった。
「なんだァ、いるじゃないか。よかった、倒れたりはしていないのだね」
楽し気な声が背後から聞こえる。振り向きたくない。そうだと認識したくない。けれど現実は残酷に、目の前に事実を突きつけてくる。
硝子を踏みしめる音がしたかと思えばぬるりと後ろから回ってきた手に抱き締められて、身動きが取れなくなってしまった。嗚呼、嫌だ。
「大丈夫だとも。なにも怖がることはないよ、二人で逃げればいい。私が君を守ってあげるからね」
そんなことはいいのに、なんて声はあげられない。
────女の死体がひとつ、横濱の夜に転がった。
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