▼ 君愛/こんにちは、世界
おめでたですね、と笑いながら言う医師の言葉を千尋はぼんやりと聞いていた。
おめでた。つまり、この腹に子供がいるということ。体調不良が続いており、与謝野女医の勧めで病院に来たもののまさか妊娠を告げられるとは思ってもいなかった。まだ薄い腹に手を当てる。ここに小さな命があると言われても実感が湧かない。
────それもそうだろう。だって子を授かる為の好意を千尋は久しくしていない。
医師の言葉を曖昧に笑って聞き流しつつ記憶を遡る。しかし幾ら考えても心当たりがない。異能生命体との争いで負傷して暫く寝たきり状態になる前だってしていない筈だ。そもそも誰の子なのだろう。知らない内に妊娠していたなんてちょっと恐ろしい。
明日与謝野女医に相談しよう、なんて考えながら病院を出ると見慣れた姿が立っているのを見つけ、千尋は首を傾げた。
「治くん」
名前を呼べば太宰はにこやかに笑う。千尋が昏睡状態にあった間窶れてぼろぼろだったが、今ではすっかり元に戻っている。
いいことだと思うが目覚めたあの日から少しだけ接触が増えたような。今だってさりげなく手を握られ歩き始めるものだから、千尋は躓かないように気を付けながら隣に立った。
「や。病院どうだった?」
「ん……」
太宰の問いに口ごもる。妊娠していたらしい、と素直に伝えてもいいものか。
なんと答えたら正解なのか考えて、それから千尋は小さな声で医師に伝えられたことを口にする。
「妊娠、してたみたい」
「本当かい!?君と私の子なら可愛らしいのだろうね」
「ん……?」
手を繋いだまま心底嬉しそうに笑う太宰。理解が追い付かず、思わず首を傾げるが太宰は何も言わない。
君と私の子。太宰の言葉をそのまま受け取るのであれば、この腹の子は太宰との子供である。しかし千尋には太宰と肌を重ねた覚えはない。たった一言で千尋を混乱の渦に叩き落した太宰は上機嫌に鼻歌を歌っている。
確認するなら今だろうか。
「治くん」
「なぁに」
「私たち、セックスしたことないと思うのだけど」
「千尋は知らないだろうね。だって君が眠ってる間の出来事だもの」
「ん……?」
千尋の問いに太宰はにんまりと笑った。眠っている間。益々疑問が深まった。
共に社員寮で暮らしているが部屋は別々であるし、太宰の希望で添い寝をすることもあったがそういった行為の形跡など見たこともない。黙り込んだ千尋に太宰は溌剌と言葉を重ねていく。
「千尋が昏睡している間だよ。何か刺激を与えたら起きてくれるかなと思って、でもいいでしょう?千尋は私のものなんだから」
「お、治くん?」
「なんだい」
「……私たちの関係、って」
「恋人だろう?ああでも子供が出来たから入籍しようか」
あっけらかんと答えた太宰になんと返事をすべきか悩んでしまう。確かに千尋は太宰のもので、恋人「役」ではあった。だが明確に「好き」と言葉にされたのは昏睡状態から目覚めたあの時だけ。
他の女よりは好かれているだろうな、程度の認識しかしていなかった千尋からしてみれば恋人だと言われても驚きしかない。
しかも刺激を与える為にとはいえ昏睡状態の人間を犯すとは。相手が千尋でなければただの強姦、犯罪である。そんなことが頭をよぎったが千尋は変わらず太宰のことが好きであるし、太宰も千尋のことを好いてくれているのは繋いでいる手の力強さから十分に伝わってくるので籍を入れることに不満はない。
ただ、ひとつ。望むのならば。
「プロポーズ。期待してる」
「……勿論だとも。とびっきりのを用意してあげるよ」
────探偵社の面々の前で、正装した太宰に薔薇の花束を差し出されるのはこのあとすぐの話である。
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