▼ 君愛/獣が死んだ
いつも花を買いに来る男がいる。
「こんにちは。今日も花を一本くれるかい?」
包帯で隠されていない右目でにこりと笑う男はいつも此処に花を買いに来る。
少し離れた位置には帽子を被った夕焼け色の髪をした男が立っていて、何故だかそんな二人に既視感を抱く。
既視感といえば目の前に立っているこの男に違和感を抱いている。左目を隠すように巻かれている包帯。ねぇ、隠すのは其方じゃないでしょう、だなんて云ってしまいそうになるのをぐっと堪え千尋はいつものように口を開いた。
「……こんにちは。どんな花が?」
「そうだね……。愛を伝えるのにピッタリなものを」
「……どうぞ」
愛の花言葉を持つ花を買いに来るこの男。そんな遠回しに愛を伝えたい誰かがいるのだろうか。
何だかそれに胸がざわついて仕方がない。自分とこの男はしがない花屋の店員と客でしかないというのに。
──どこかのビルから人が飛び降りたと聞いた。
自分には関係のない筈なのに、嫌な予感がする。
ある日。
普段ならば一人で来ない帽子の男が一人でやって来た。その手には花束が握られている。季節外れの花もちらほらと見える花は、この店で買ったものだろうか。
千尋を見て帽子を深く被り直した男はおもむろに口を開いた。
「彼奴が、死んだ」
「……え、」
思わぬ言葉に息が止まる。彼奴、というのは。思い浮かべるのは左目に包帯を巻いたあの男。
違うと云ってくれと縋るように帽子の男を見るが凪いだ瞳が嘘ではないと教えてくれる。
死んだ──あの人が、?
ざわり、ざわりと胸の奥が騒がしい。
「此れは手前にだと。ズルズル引き摺るンなら手元に置いときゃよかったンだよあの野郎」
「……………、」
差し出された花束を、震える手で受け取る。吐息と共に口から出ていったのは、知らない筈の男の名だった。
ポートマフィア、双黒、中原中也、──太宰治。
花の匂いと共に湧き上がってくる記憶。ボロボロと涙を零す千尋を見て帽子の男──中也は、少しばかり目を見開いた。
「……ひとりに、してしまった……」
独りにはしないと約束していたのに。そう告げた時、太宰らしからぬ曖昧な笑みを浮かべていたことに気付けていたというのに。呆気なく記憶を奪われ、みすみすと死なせてしまった。
「…………」
「狡い、ずるい」
貴方の孤独を埋めたいとずっとずっと思っていたのに、それすらも許してくれないなんて。
贈られた花束を腕に抱き、千尋は子供のように泣いていた。
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