▼ 黒髪の君
さらりとした黒髪が肩から落ちる度に、胸の奥がざわつく。普段は簡単に纏めているだけの黒は美しく整えられ、柔らかな灯りに照らされる。
太宰の視線に気が付いた千尋が此方を向いて、小さく微笑んだ。
「どう、かな」
今日の仕事はとあるパーティーに参加すること。太宰のパートナーには勿論”恋人役”である千尋が選ばれた。
故に普段では着ないようなドレスを纏って太宰の目の前に立っている。その姿は万人から見れば美しいのだろう。現に今も会場中の目が彼女に集められている。
「……別に。私がどう思うかなんて、仕事には関係ないでしょ」
「…………うん、ごめん」
しかしそれがどうにと気に入らなくって、太宰はいつも通り素っ気ない態度を千尋に向ける。普段よりも長い沈黙のあと、小さな声で謝られた理由は太宰にもわからない。
□
いらいらいら、いらいらいら。
腹の底から湧き上がってくる怒りを隠して、太宰は目の前の貴婦人に笑いかける。森の知り合いだという彼女に挨拶をする為に千尋を置いてきたのだが、彼女越しに見える姿にどうしても腹が立ってくる。
「とても美しい黒髪ですね。いつまでも見つめていたい……」
「ありがとうございます」
千尋につけた通信機から聞こえてくる男の声。それはぽったりとした熱を持っていて、彼女を欲で塗れた目で見ていることは容易く想像がついた。
太宰が気が付いているそれに千尋が気付いていない訳もないだろうに丁寧に対応しているのを聞いていると、浮かべている笑顔が引き攣ってしまう。色仕掛けの仕事をしているのだから、ああいう手あいを躱す術くらい仕込まれているだろうに。
「あら、どうやらパートナーさんが気になるようね?」
「……すみません、つい」
「いいのよ。可愛らしい方だもの」
貴婦人がころころと鈴の音が転がるように笑った。上品な笑みに腹は立たないが、年を重ねたが故の余裕を見せつけられてなんだか悔しい。
ちらり、と未だに見知らぬ男と談笑をしている千尋を見ると、丁寧に纏められている髪に男が触れていた。瞬間、カッと目の前が赤くなる。今すぐにでも怒鳴り散らして彼女の手を引いて会場を出て行きたいがまだ仕事が残っている為それは出来ない。
──否、そもそも彼女が誰と何をしていよう自分には関係ない筈だ。だって自分たちは仮初の恋人なのだから。ふつふつと湧き上がる怒りを飲み込んで太宰は目の前の貴婦人に笑いかけた。
□
ホテルの一室。恋人なのだから、と貴婦人の余計な気遣いで千尋と同室になってしまったことを太宰は内心頭を抱える。
少し遠くに聞こえるシャワーの音。彼女の裸を見たってなんの反応もしないと自信を持って言えるが、なんだか妙に胸の奥がざわつく。どきどきと胸の奥が脈打って、これではまるで自分が千尋を意識しているようではないか。そう考えると少しだけ腹が立ってきた。
ガチャリと音がして、髪をしっとりとさせた千尋が部屋の中に入ってくる。白いバスローブに身を包んだ彼女の頬は薄紅色に染まっていて太宰はそっと目を逸らした。どうして自分がこんな反応をしなければならないのか。理不尽とも言えるような感情を抱いていると、千尋は備え付けのドライヤーを手に取って髪を乾かし始めた。長さがあると乾かすのも大変そうだ、と温風に靡く髪を見ているとあの黒髪に男が触れていた事を思い出す。
気づけば、近くにあったナイフを手に取っていた。
「ねぇ」
「どうしたの、治く」
湿っている髪がぼとりと床に落ちる。
「え」
千尋の、気の抜けたような声が聞こえてきたが太宰の手は止まらない。中途半端に短くなった髪を掴み、更に切り落としていく。
「ま、待って、治くん、待っ」
「待たない」
ざくり、ざくり。制止の声をあげても抵抗しないのをいいことに太宰は黒髪を切り落とす。
手を止めたのは腰まであった髪が項が見えるほどに短くなってから。呆然としているのか千尋は何も言わない。俯いて、震えているようにも見える姿を見ていると少しだけ罪悪感が湧いて、太宰は取り繕うように慰めの言葉を吐いた。
「短い方が君に似合うんじゃない?」
そうしたら、他の男に触れられることも無くなるだろう。
□
いつもの喫茶店。カップを手に取ってカフェオレを少しずつ飲んでいる千尋をじいっと観察する。くるり、と少しだけ伸びてきた毛先に指を絡めた。太宰が無理矢理髪を切り落としたあの日から、千尋の髪は短いままだ。
必要な時は鬘をつけているようだったが、二度目の生ではそんな時も訪れないのか使っている姿は見ない。
「髪、伸ばさないのかい?」
「……急にどうしたの?」
「いや、少し気になって。あの頃からずっと短いままじゃないか、また伸ばさないのかなと思ってね」
あの日。今ならわかる、あの日の太宰は嫉妬に狂っていたのだ。
自分のものである彼女が他の男に触れられたのが堪らなく嫌で、いくら洗ったとしてもその手垢がついているような気がして、ならばいっそ触れられないように切り落としてやろうと思ったのだ。他の男に触れてほしくないのは今も同じだが。しかしあの頃と違うのは、千尋は絶対に自分が好きだという自信。
例え言い寄られたとしてもその誘いに乗ることはないだろう。そう考えると、過去の自分はなんと狭量だったというか。若気の至りと言うには些か過激なそれを少しだけ反省していると、千尋がさっと頬を薄桃色に染めた。
「……治くんが、短い方が似合うって」
「────」
照れ臭そうに小さく笑みを浮かべる姿に言葉を奪われる。ああそういえば、そんなことも言った気がする。短い方が似合うなんて取り繕うような慰めの言葉だったが、それはずっと千尋の心に残っていたらしい。
「千尋ちゃんってほんと健気よね……」
「聞いてるこっちが照れちゃう」
近くに座っていた千尋の友人たちの声にそっと天を仰ぐ。彼女がどれほど自分のことが好きなのか理解している心算ではあったが、そんな、自分も薄らとしか覚えていないことをいつまでも思っているなんて考えもしなかった。
黙り込んだ太宰に、千尋が心配そうな顔をする。
「大丈夫?」
「罪悪感が凄い」
過去の「僕」へ。そんな嫉妬心を燻らせなくても、彼女は「僕」のことが大好きだよ。
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