▼ 君愛/紛い物
此方を見ていなくてもいい。
あなたが傍にいて、触れてくれるだけで幸せなの。
□
女には不思議な記憶があった。
それは前世の記憶というもので、女は今の自分が生まれる前のことを覚えている。魔都と呼ばれていた横濱の街のこと。異能力、ポートマフィア、軍警、武装探偵社。
全てのことを詳細に覚えている訳ではないが、愛しい人のことは脳裏にこびりついている。
優しい声で、瞳で、愛していると言ってくれたらあの人。自分がこうして生きているということはきっと彼も。
また出会える筈だと女は期待して、最愛の人を探す日々を送っていた、のだが。
「治くんッ!!」
漸く出会えた彼に嬉しくなって、人目も気にせずその胸に飛び込んだ。
人でごった返しているデパートで出会えるなんて思いもしなかった。矢張り自分たちは運命なのだと、逞しい胸の中でうっとりとしていると肩を掴まれ勢いよく引き剥がされる。
「誰だい、君。覚えがないのだけど」
「やだなあ、恋人のこと忘れちゃったの?」
「………………ああ、君か」
冷ややかな目を向けられても尚ころころと笑う女に彼の眉間に皺が寄る。一瞬忘れられていたようだったが、恋人を強調すると彼は思い出してくれたようだ。
よかった、とひとり頷く。忘れられたままだったら怒りで何をするか判らなかった。
彼が好きだと言ってくれた顔のまま女はにっこりと笑って彼の腕に絡みつく。豊満な胸を押し付けながら甘えるように上目遣いをしながら媚びた声を出す。
「ずっと治くんのこと探してたんだよ。代わりでもいいの、また私のこと恋人にしてくれるよね?」
前世で恋人だった彼にはずっと愛している女がいた。つまり女は、その誰かの代わりだったのだ。
彼の心を独占する何処かの女に嫉妬しなかったと言えば嘘になるが、死んでしまった女など取るに足らない。そこから漬け込んで自分だけのものにしようと思っていたのに、気がついたら生まれ変わっていた。
──その、「何処かの女」も同じように生まれ変わっているとは知らず、女は笑う。きっと嘗てのように「そうだね」と笑いかけて優しくキスをしてくれると信じてやまない。
「生憎と、それはもう事足りてるんだ」
「え」
肩を掴まれ、無理矢理引き剥がされる。
なんで、どうして。思っていた反応とは違って困惑してしまう。代わりでもいいと言っているのに、と考える女はどうして自分が用無しになってしまったのか、その可能性に辿り着くことは出来ない。
女が混乱している姿を見て、彼は嘲笑う。
「本物がいるのに、紛い物なんて必要ないでしょう?」
心底幸せだと、そんな顔をしながら彼は言った。それは絶望の言葉で、思わず膝から崩れ落ちた女を横目に男は人混みに消えていく。
どして、なんで。呟いた問いに答えてくれる人間は誰もいない。
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