▼ 太宰(黒)/かなわない恋をしたの
叶わない恋をした。
相手は自分よりもうんと年下の、うんと上の上司。顔も名前も知っているのに自分は彼には認知されていない。それくらい遠い上司である。
想いを告げるなんて烏滸がましい、でも恋心を捨てきれない。そんな自分を神様が憐れんだのか、少しだけ関わることが出来た。
「お疲れ様です、太宰幹部」
「ああうん」
自分が運転する車に乗ってきた太宰の、簡素な返事。然しそれでも彼が自分の言葉に返事をしてくれたという事実が嬉しい。
今の自分の立ち位置は太宰の補佐代理。次が見つかるまでの繋ぎである。だとしても名前くらい覚えてもらえたら、なんて浮かれていると──彼の左手に指輪を見た。
「…………、」
呼吸が止まってしまったと錯覚する程の衝撃。見間違いかと思い、ちらちらと確認するが彼の左薬指には鈍く光る指輪が鎮座している。
「……太宰幹部は、結婚されているのですか?」
「あ、これかい?違うよ、恋人からの贈物でね」
「そう、なんですか」
あまりにも優しい声に、甘い眼差しに顔も知らぬ女への嫉妬が湧き上がってきた。
そういえば、以前の太宰は女に奔放だと聞いていたが最近はそういう話も聞かない。他の女だと必要ないと感じる程にその恋人に愛情を注いでいるのか。
ぎり、と唇を噛む。
このまま彼を自宅まで送り届けたら恋人やらを見れるのではないか。見てみたい、という気持ちが湧いてきた。
自分よりも劣る女ならば彼を奪えると確信できるかもしれない。自分よりも勝る女ならば諦めもつくかもしれない。
そんなことを考えながら横浜の街を車で走っていると後ろから「止めて」と声が掛かった。
「此処でいいよ。降ろして」
「は……しかし、」
「いいから早く。私の言葉が聞けないっていうのかい」
「す、すみません!」
ドスの効いた、低い声に慌てて道端に停車する。車が静止したと同時に扉を開けて走り去っていった彼の後ろ姿を見つめていると、彼が一人の女に駆け寄るのが目に入った。
立っていたのは何処にでもいそうな女である。買い物でもしていたのか食材が入った袋を持って、服装だって地味。所帯染みているという言葉が似合いそうな女だった。
あんな女なら彼を奪えるかも、と夢を見たのも束の間。見たことがない優しい顔で笑う太宰の顔が目に入ってひぐりと喉が変な音を立てた。
「────……ああ」
あんな顔を見てしまったら判ってしまう。理解してしまう。どうやったって敵わない。
私は、敵わない恋をしていた。
prev / next