▼ 太宰/別れを切り出すのに最適な日
木漏れ日が漏れる道を彼女と二人歩く。今日は穏やかな天気で、時折吹く風が頬を撫でるのが気持ちいい。マフィアであった頃には考えられない穏やかな時間にそっと思を吐いた。
「あ、そうだ」
手を繋いで歩いていた彼女が声をあげて太宰よりも二、三歩前へと進む。ふわりと彼女お気に入りのワンピースの裾が舞って、一種の絵画のような美しさがあって太宰は思わず感嘆の声を上げてしまった。
「どうしたんだい、急に」
「ふふ、太宰くんに言いたいことがあったのを思い出したの」
太宰を見て彼女は笑う。柔らかな、太宰の好きな笑みで。
「私と別れてほしいの」
「…………は?」
「ほら、今日はいい天気だし。ちょうどいいと思うんだよね」
一体何がちょうどいいというのか。最愛の彼女に突然そんなことを言われた自分の心情を考えてほしい。彼女はこういうことが多々ある。
さて、彼女が突然どうしてそんなことを言うのか考えてみよう。しかし、彼女の気に障るようなことをしてしまったのかと記憶を遡るが思い至ることなど何もない。
もしや、飽きられた?じわりと冷や汗が頬を伝って落ちていく。
「……私、何かしてしまったのかな。悪いところは直すから、そんなこと言わないでおくれ」
「ううん、太宰くんに悪いところなんてないよ。ただね」
彼女が言葉を切る。少しばかり強い風が吹いて、靡いた髪が彼女の顔を隠した。
「もうそろそろ、私のこと忘れてもいいんじゃないかな」
「何を言って…………」
理解出来なくて、笑い飛ばそうとして。違和感に気付く。気付いてしまった。気付けば終わりだというのに。
─────どうして彼女の体温を思い出せないのだろう。先程まで手を繋いでいた筈なのに。
どくり、どくりと心臓が嫌な音を立てる。それを落ち着かせるように胸元を掴んでみたけれど、嫌なざわめきは止まらない。
「引き摺らなくていいよ。そんなことしたって私はもういないんだから」
彼女が、いない。この世のどこにも、存在しない。
笑いながら告げられた言葉はすとんと太宰の胸に落ちて、そうしてそれはとてもしっくりきた。
「ちゃんとご飯食べてね。お酒は飲み過ぎないように。それから、あんまり職場の人を揶揄い過ぎたら駄目だよ。やり過ぎちゃうのは太宰くんの悪いところ」
カラカラと笑う彼女。
そうだ、彼女はもう。太宰がマフィアを抜ける前よりずっと前に。
「…………君のことが好きなんだ」
「うん」
「どうしようもなく好きで、」
「うん、私も」
「君も忘れてしまうことが、怖い」
彼女の笑顔も声も、それは日々を重ねる度に掠れていく。忘れたくないのに。ずっと覚えていたいのに。太宰はもう、彼女の──────
「太宰くん、大丈夫だよ。私が忘れないから」
穏やかな声。
「太宰くんが沢山愛してくれたこと、私はずっと覚えてる。だからね、」
彼女の手が伸びてきて、そっと頬を撫でる。が、触れられているという感覚はない。いつの間にか流れていた涙を見て、彼女は小さく笑った。
「だから私、寂しくないよ」
本当は、寂しいくせに。
「うぅーん……」
朝。けたたましく鳴り響く目覚まし時計を雑に止めて、太宰は起き上がる。昨日浴びるように酒を飲んでしまったからか頭が痛い。
これは休むべきでは?そうだ、休もう!自問自答をして布団の中へと逆戻り。なんだかとてもいい夢を見ていた気がするので、今眠ったらきっともう一度見れるだろう。
「…………また、会いに来てよ」
枕元に置かれた一枚の写真に向かってそう呟く。
君が心配して会いに来てくれるのなら、声も体温も忘れてしまったって永遠に忘れてやらない。
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