終
少しだけ気合いを入れて制服を着る。鏡に映る自分は何処か緊張した顔立ちで、強張っていた体から力を抜く為に息を吐く。
学校に行けば友人である彼女たちにまた冷ややかな視線を向けられるのかと思うと少しだけ気が滅入ったけれど、それでも。
鞄の取っ手を握りしめて、教室の扉の前に立つ。ふう、と息を吐いて扉に手をかけた。
ガラリ、と予想以上に響いた音に教室にいた生徒たちの視線が集まり、どきりと心臓が音を立てる。何か云わなければ、と思うのだが声が出ない。うろ、と視線を彷徨わせる千尋を見つけた蘭が笑顔で声をかけてきた。
「おはよう、千尋ちゃん!」
「……、おはよう」
朗らかに挨拶をしてきた蘭に少しだけ困惑しつつ挨拶を返す。教室の中へと足を踏み入れる千尋に、クラスメイトたちが「いつも通り」の挨拶をしてくる。まるで何も無かったかのように。
つい先日まで皆本に暴力を振るったというデマを信じて冷ややかな視線を向けていたというのにどういうことだろうか。
ぐるりと教室を見渡して、気付く。皆本の姿がどこにもないのだ。皆本が座っていた席には別の生徒が座って談笑している。
誰も皆本がいないことを気にしていない。彼女はクラスの中心にいた筈なのに。
「あの、皆本さんは……?」
疑問を近くにいた園子に問いかける。屹度、休みか何かだろう。そうに決まっている。
そう予想をたてるが────
「皆本、さん…?誰のこと?あ、もしかして転入生でも来るの?」
園子はきょとんとした顔でそう云った。興味津々、といわんばかりの顔の園子に何でもないと曖昧に笑って誤魔化す。
人の存在が煙のように消えてしまうことなんてあるのだろうか。
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水蒸気で満たされている浴室。二人で入るには少々狭い浴槽に太宰と揃って浸かる。
太宰の膝の上に腰を下ろし、逞しい胸板を伝って落ちていく水滴と戯れつつ千尋は口を開いた。
「治くん。皆本さんに、何かした?」
消えてしまった彼女の行方を太宰に問う。太宰も皆本のことを覚えていなかったらどうしようもないけれど、太宰は覚えていると不思議とそう思っていた。
問い乍ら頭上に顔を向けると、太宰の薄ら笑いが目に入る。嗚呼、これは何かを知っているなと。確信を持って、千尋は手を伸ばしその厚い唇に触れた。
「教えて」
「……何やら夢を見ていたようだったから、その夢を覚ましてあげただけさ」
「それだけ?」
「それだけ」
これ以上問うても何も答えてくれないだろう。「そう」、とだけ答えて思考の海に沈む。
彼女は千尋のことを「同じ」だと云っていた。その言葉の意味を今も考えている。千尋は皆本は嘗ての生で太宰に恋焦がれて、それは今も続いているのだと思っていたけれど若しや別の意味があるのではないだろうか。
例えば彼女も同じように前世の記憶を持っているけれど────別の世界だった、とか。
なんて考えてみたけれど、そうである確証もないし本人が消えてしまった今確認する術もない。
「千尋?」
太宰の声に沈んでいた意識が浮上する。
のろのろと顔を上げれば、心配そうな顔が目に入った。なんだか気まずくて、うろ、と視線を彷徨わせた。
「逆上せたのかい?」
「…………ううん、平気。気にしないで」
「大丈夫さ」
その言葉に目を瞬かせる。一体何が大丈夫だというのだろうか。
彷徨わせていた視線を太宰に戻して、行きを飲む。
「あの女に何を云われたのか、私は判らないけれど」
千尋の大好きな、太宰の大きな手が頬を撫でた。
太宰はひどく優しい目で千尋を見下ろしていて、
「私は今も昔も────君にしか、恋してないよ」
「…………私もよ」
その優しい熱に、全てを溶かされてしまいそうだった。