拾̪肆


「ねェ。何をしているのか聞いているのだけど?」

にっこりと人の好さそうな笑みを浮かべながら距離を詰めてくる太宰。しかしその目は笑っておらず、声も冷ややかである。
自分に向けられている訳ではないと理解していても、向けられる殺気に千尋はそっと目を伏せた。

「そんなに怒らないでください。僕と太宰くんの仲じゃないですか」
「君とそんな関係になった覚えはないよ」

男が笑いを過分に含んだ声で云ったそれを太宰はばっさりと切り捨てる。今にも殺されてしまいそうな視線に射抜かれながらも笑っていられる男が異質だと思ってしまう。
いや、今はその異質さは気にしなくてもいい。男から離れなければ。男の意識が太宰に向いている今が好機だと離れようとして────男が手に力を込めたせいでそれは叶わずたたらを踏む。

「どうしました?何か気になることでも?」
「…離してください」
「そう警戒しなくたっていいじゃないですか。僕はただ貴女とお話がしたいだけなんですよ」

キスが出来てしまいそうなほど近くまで男の顔が寄せられる。
アメジスト色の瞳にじい、と見つめられ眩暈がしてきた。視界が揺れ、意識がぼんやりとしていく。何か、おかしな薬か異能力の所為か。
逃げなければ、そう思うのに体は動かない。

「一野辺千尋さん」

声が響く。
筋張った指先が頬に触れ、ゆっくりと上へと移動し髪を払う。千尋よりも低い体温が誰かを連想させる。

「僕と一緒に、来てくれませんか?」

囁くような声に頷いてしまいそうになって────後ろから誰かに抱き締められた。
目元は誰かの手に覆われ、アメジスト色が視界から消える。背中から伝わる体温に、鼻孔を擽る嗅ぎ慣れた匂いに体から力が抜けていった。それと同時に手首を掴んでいた手が離れていく。

「ドストエフスキー。君があの女を使って何を画策していたかは興味がないし、好きにしたらいいけれど」

千尋を抱き締めている腕に力がこもる。それに少しばかり息苦しくなったけれど、千尋は抵抗らしい抵抗などせずそっと胸板に体を預けた。

「この子だけは、何があろうと絶対にあげない」

ぎゅう、と強い力で抱き締められる。それに安堵するのはきっと。

くすくすと男が笑う声が聞こえた。何がそんなに面白いのだろうか、千尋には理解できない。
目元を覆っていた太宰の手が離れて、男の姿が再び千尋の瞳に映る。男はまっすぐに太宰と千尋を見ていた。

「…随分とご執心のようで。益々興味が沸いてきました。ですが今日はここまでにしておきましょうか」

にっこりと人の好さそうな笑みを浮かべる男。外の喧騒が何処か遠い。

「では、いずれまた」
「二度と来るな」

社交辞令のように男が口にしたそれを太宰が切り捨てる。それにまた男はくすくすと笑みを浮かべながら立ち去っていく。
その姿が暗闇に溶けて見えなくなっても、太宰は千尋を離そうとはしない。それどころか抱き締める力が段々と強くなっていくので千尋は声を上げた。

「…治くん」
「ごめんよ」

太宰が千尋の肩口に頭を埋める。顔は見えないけれど、その声は濡れていて。泣いているのかと、千尋はそっと自分を抱き締めている腕に触れた。

「私があの女を放っておいたから、千尋を危険な目に遭わせてしまった」

ぎゅう、とまた力が籠められる。

「本当に、ごめん」
「……ううん、いいの」

太宰の心からの謝罪に大丈夫だと笑う。
危険な目だと太宰は云うけれど、千尋に害があったのは学校でのことと今回のことくらいだ。だからいいと、気にしていないと云っても太宰は悲し気な顔をやめてくれない。そんな顔をされる方が千尋は悲しいというのに。

「ちゃんと迎えに来てくれたから」

そう云うと、太宰は目を見開いてそれから小さく「そう」とだけ呟いた。
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