記憶があろうと無かろうと構わなかった。彼女が彼女であるという事実に変わりはないのだから。けれど。

「すみません、僕の妻に何か?」

──他の男のものになっているという事実だけは、受け入れがたかった。



街中で不思議な青年に名前を呼ばれた。痛い程に千尋手首を握りしめ、「会いたかった」と泣きそうな顔で云うのだ。
然し千尋と青年に面識はない、筈だ。其れを云えば、更に泣きそうになりながらも千尋の体を抱き締めた。

「……私は、太宰というんだ。もう一度君のことを教えてくれる?」
「…………、」

震える声がそう云う青年。何だか突き放すことも出来ず、ただ青年にされるがままになっている。
青年にじっと見つめられ、何か云わなくてはと千尋が口を開いた時だった。

「すみません。僕の妻に何か?」
「…………つ、ま?」
「ええ、そうです。彼女は僕の妻で……千尋、知り合いかい?」
「ええっと……その、誰かと勘違いしているみたいで」

少し離れた場所にいた夫が青年を厳しい目で見ながら近づいてきたが、青年は意に介さず唖然としたまま千尋を見ている。「うそだ」、声にはならなかったが青年の口がそう動いたのを千尋は見た。

力が抜けたのか青年の手が千尋から離れていく。
漸く解放されたことにほっと安堵の息を吐いていると、夫が千尋を守るように一歩前に出てくれた。

この人はいつもこうやって守ってくれる──大きな背中を見る度に安心して、誰かの姿を重ねてしまう。それが誰なのか、千尋は思い出せない。

青年は人のよさそうな笑みを浮かべながら「すみません」、と謝罪してきた。

「彼女が私の想い人によく似ていて。つい先走ってしまいました、驚かせてすみません」
「……いえ。特に何も無いのなら構わないんですが」
「…………本当に、よく似ている」

千尋をじっと見ながら目を細める青年の声には何の感情も乗っていなかった。
人違いなら、と場を収めた夫に縋るようにその腕を掴むと青年の目が責めるように細められた。

行こう、と夫の腕を引いてその場を立ち去る。青年の姿が見えなくなる瞬間まで、ずっと背中に視線が突き刺さっていたような気がする。

夫と二人で暮らす家に来客があったのは青年と遭遇してから数日後のことであった。
家事を終え、一息ついていた千尋はチャイムの音に玄関へと向かう。誰か来る約束をしていただろうか、と考えていると「宅配便でーす」と軽快な声が聞こえてきた。

「はぁい。今開けますね」

──本当に宅配便であるか確認しなかったことが千尋の失敗だろう。
何の躊躇いもなく開けた扉の先にいたのは、見知った制服を纏う配達員ではなく砂色のコートを着た件の青年だった。

「こんにちは」
「え、あ、」
「駄目だよ、千尋。そう簡単に開けちゃあ。不用心だなぁ」

千尋が驚きで固まっている間に青年は玄関の中へと侵入し、そして後ろ手で鍵を閉める。がちゃり、という音が嫌に響いた。
混乱に陥っている千尋だが、この青年から逃げなければいけないことは判った。然し玄関は青年の後ろで鍵も閉められている。

如何しようかと考えながら後退る千尋に青年は近づいてきた。

「い、いや!」
「……私のことを忘れていてもよかったんだ、その可能性は考えていたからね」
「何を、云って、」
「──でも、駄目。他の男を愛することだけは許さない。君は、君の心も体も凡て私のものなのだから」

痛いほどの力で手首を掴む青年の手を振り払おうとするがびくともしない。
青年は仄暗い瞳で足掻く千尋を見つめている。嗚呼、あの時の目だ。

凡てを飲み込んでしまいそうな瞳をしているのに口角は上がっており、何とも歪な表情をする青年が恐ろしくて仕方ない。

「離してぇっ!た、助けて、」

この場にはいない夫に助けを求める。然し当然のことながら返事はなく──代わりに手首を掴む力が強まっただけだった。

「目の前に私がいるのに他の男を求めるなんて酷いなぁ。君はいつもそうやって私の心を乱すんだ」

意味が判らない。いつも、と云われても青年と顔を合わせたのは先日が初めてである。何処かで会ったのかと記憶やアルバムを辿っても青年の姿はなかった。

ならばストーカーか。
先日は人違いだと云っていたが、こうして夫の不在を狙って押し掛けられるとそんな考えしか浮かばない。

「君はいつもうっかりで中也を怒らせていたし、あんな男と結婚してしまったのもうっかりかい?ふふふ、可愛いなぁ。でも私が来たのだから私しか見てはいけないよ」

にこにこと何故だか嬉しそうに笑う青年。掴まれている手首を引っ張られ、青年に抱き締められる。
ぎゅうぎゅうと抱き締められ、千尋は──恐怖もあるが夫を「あんな男」と称されたことに怒っていた。

口下手な千尋の言葉を辛抱強く待ってくれて、外見の所為で冷たく見られがちな千尋の味方をしてくれる。
傍にいてくれる大切な人を、心の底から愛している人を侮辱されて黙っていられる程千尋は大人しくなかった。

「あの人のこと、あんな男って云わないで……!貴方より、何倍も素敵な……」
「千尋」

それ以上は何も云えなかった・
無理矢理重ねられた唇。口の中へと入り込んできた舌を噛み切ってやろうかと思ったが、凡てを奪うような荒々しい接吻に息を乱すことしか出来ない。

漸く解放された頃には酸素不足で青年に凭れ掛かることしか出来なかった。
悔しくて悔しくて、夫以外に容易く許してしまった自分が許せなくて、唇を噛み締め涙を零す千尋を青年はそっと抱き締めた。

「大丈夫。君の間違いは私が正してあげる──代わりに、決めてほしいことがあるんだ」

其れはまるで悪魔のような囁きだった。





足早に家に帰る。何だか厭な予感がするのだ。
玄関の鍵を開け、家の中に入るが明かりはついておらず薄暗い。

「千尋、いないのか?」

最愛の妻の名を呼ぶが反応はない。
寝ているのだろうか、リビングへ向かい明かりをつけ──机の上に二枚の神が置いてあることに気が付いた。

嫌な予感がする。見たくはない、が、見なければいけない。
意味もなく唾液を飲み込み、震える手で紙を手に取った。
『好きな人が出来ました。別れてください』。短く、それだけが掛かれた手紙。もう一枚は署名済みの離婚届だった。





「矢張り君の指にはこの指輪が似合うなぁ!此れを見たときにね、君に贈るしかないと思って順次していたのだよ。嬉しいだろう?私も君が喜んでくれて嬉しいよ!」

千尋の手を握り、一人はしゃぐ青年の言葉には何も答えず千尋は曖昧に笑った。

『私のものになるか、それともあの男の無惨な死体を見るか好きな方を選んで』

そんなことを云われたら、どちらを選ぶかなんて決まっている。
──千尋は愛する夫の為に、青年の手を取った。

酷い女だと、ろくでもない女だと思ってほしい。そしてどうか、自分のことは忘れて幸せになってほしい。
ぼろぼろと涙を零す千尋を見て、青年は困ったように眉を下げた。

「嗚呼、泣かないでおくれ。何も怖いことなど無いからね。君はずうっと此処で私に守られているのだから」

ぎゅうぎゅうと窒息してしまいそうな程力強く千尋を抱き締めながら青年が云う。身じろげば、足元から聞こえてくる鎖の音。きっとこの部屋から出られることはもう無いのだろう。

泣き喚いて、帰りたいと叫んでしまいそうになるのを無理矢理抑えこんで、千尋は吐息と共に「治くん」と、教えられた名前を呼んだ。

「うん?如何したんだい?」
「あいしてる、あいしてるわ」

空っぽの愛の言葉を幾度も囁く。
青年はにんまりと笑って、千尋の耳元に口を寄せ甘く甘く囁いた。

「そうだよ。私を此処まで壊して、置いて逝ったのは千尋なのだから──きちんと最期まで私を愛して」

嗚呼、如何して覚えのないことの責任を取らねばいけないのか。

空っぽの愛

prev | next
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -