幸福


「幸せになってね」。
彼女を連れて行こうと思った理由も、断られたことに腹が立った理由も全て理解している。けれど、最後に彼女が贈ってきた言葉の意味だけは理解出来ていない。




株式会社PDA。

横浜で何でも屋を営み、住民からは警察に相談するよりも確実に解決すると云われている。だからといって警察との仲が悪いということもなく、全幅の信頼を寄せられており事件の解決に協力することも少なくない。

そんなPDAの特筆すべき点は社員全員が横浜という街を愛しており、異能力と呼ばれる力を持つ者たちがいることだろうか。

勿論其れの情報は社外には漏れないようにと厳重に管理されている。そして更に目を引くのは、その社屋の大きさだ。聳え立つビルの大きさは周囲のビルよりも大きく、その三分の二程は社員寮として活用されている。

単身者用やファミリー用と多種多様の部屋が並んでいる階にある、一野辺と表札が掲げられた部屋の中に人影が一つ。
人影は中に誰もいないことを確認すると溜息を一つついて部屋から出ていく。次の目的地は隣にある太宰の表札がある部屋だ。




──触られている。
まるで壊れ物に触れるかのような手付きに、千尋の意識はゆっくりと浮上していく。けれども疲れている体は休息を求めていて起きることを体が拒否している。

「千尋。ねェ、起きてよ」

厭だ。まだ眠いの。
頭を撫でていた手がゆっくりと降下していく。耳に触れ、頬に触れ、唇に触れ。首筋に降りた手が、そのまま下半身へ向かっていくのを感じて体が跳ねた。
頭上からくすりと笑う声が落ちてくる。

「起きないならこのまま食べてしまおうか」

胸焼けをしてしまいそうな程甘い声が吐息混じりに囁く。
嗚呼、此れは起きないと本当に食べられてしまうかもしれない。それは勘弁してほしいところだ。朝から疲れることはしたくないし、何より養母である尾崎に爛れていると怒られそうだ。

目を開ければ案の定目の前には恋人である太宰が笑みを浮かべながら此方を見下ろしていた。朝の挨拶をしようとすれば掠れた声が喉から出てきた。

「水でも飲むかい?」
「…のむ」

千尋の言葉に太宰はベッドから降りて寝室を出ていく。その姿を見送って、千尋はそっとシーツを捲った。シーツの下にあった己の裸体には夥しい数の鬱血痕と噛み痕が残されている。此れは暫く消えそうにはない。

ベッドから降りようと起き上がったが義足が外されていることに気付く。ベッドの周りにでも落ちているのだろうかと見渡すが何処にも見当たらない。
また隠されたのか、千尋は深く溜息をついた。

足が無ければ何処にも行かないと太宰は思っているのだろう。そんなことしなくとも何処かに行く気なんてないのに。
太宰にしては稚拙な行動につい頬を膨らましていると水の入ったコップを持って張本人が戻ってきた。

「どうしたんだい?そんなに可愛い顔をして」

ぷす、と膨らんだ頬を突かれて空気が抜けていく。笑っている太宰だが千尋が何に対して拗ねているのは判っていることだろう。
楽し気な様子の太宰からコップを受け取って水を飲む。冷たい水が気持ちいい。ほ、と息を吐く千尋の隣に太宰が座った。

「足、返して」
「やだ。返したら何処かに行ってしまうだろう?行かなければ強盗に巻き込まれることもないし安全だよ?」
「織田くん!」

此処にはいない織田の名前を不満を込めて呼ぶ。妙に太宰に甘い織田のことだ、東都で強盗に遭遇したことを懇切丁寧に報告したのだろう。

秒で解決したと云っても過言ではないので心配することはないのだが、過保護な太宰はそうは思わないのか縛られていた手首をそっと撫でてきた。

「君が私の知らない場所で、知らない人間と関わるだけで心配でたまらないんだ。君の心は私だけのものなのに、他の人間で埋まっていくなんて不安と嫉妬で気が狂ってしまいそうだ」
「…ごめんね。大丈夫、私の心には治くんしかいないよ」

心の中の一等柔い場所には太宰しかいない。千尋の愛が他の誰かに向けられることなど有り得ないのに、有り得ない未来に太宰は嫉妬し不安に駆られている。

どうしたら判ってくれるかな、安心してくれるかな。

手首を撫でていた太宰に抱き締められる。どうしてこんなにも自分に執着しているのか、千尋には判らない。判らないけれど、今太宰が向けてくれる愛は確かに本物だ。其れを疑ったことはない。故に太宰も千尋の愛を疑わないでほしいと思う。

片方しかない足を切り落としてしまえば信じてくれるだろうか。少々物騒なことを考えていると玄関の方から破壊音。そして怒号が聞こえてきた。

「ンの鉄仮面女ァ!手前、いつまで人のこと待たせる気だ!!」

声の主は中也、だが云っていることに覚えはない。はて、何か約束をしていただろうか。其れとも自分が忘れているだけだろうか。
首を傾げていると太宰の纏う空気が冷ややかなものに変わっていることに気が付いた。あ、此れは。

「ちょっと!私と千尋の時間を邪魔しないでくれる!?」
「知るか!いいからとっとと出てこい!!」

扉越しに喧嘩をする二人に千尋はそっと息を吐いた。
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