終幕
ずっと頭では判っていた。
彼女を幸福にしたいと思う自分では彼女を幸福にすることが出来ず、あの男の傍で囲われ愛を注がれることが彼女の幸福なのだと。
理解は、していた。
ポアロにて。他の客の接客をしながら、安室は園子たちと談笑している千尋の様子を窺っていた。楽しそうに言葉を交わしている彼女は今日も可愛らしい。
──キッドを追っていた先で見つけた千尋は可愛らしいというよりも美しかった。
顔を蕩けさせ、色を乗せた目であの男のことを見詰める彼女を思い出し、つい動きが止まった。
「安室さん?体調でも悪いんですか?」
「いえ……大丈夫です」
不自然に動きを止めた安室を梓が心配そうに見てきたので、安心させるように笑みを浮かべた。しかし梓は依然と心配そうな顔をしているので上手く笑えなかったのだろう。
何か言いたそうにしている梓には申し訳ないが其れを見なかったことにして安室は接客を続ける。
安室は──降谷は彼女のことが好きだ。
年の差はあるが幸せにしたいと思うし、自分の傍で笑っていてほしいと思っている。それは恋人というあの男が現れても変わらなかったが、キッドの一件から少し心が揺れていた。
幸せにしたい、笑っていてほしい。
けれどそれは自分の傍ではきっと叶わない。千尋が幸せだと思う場所はあの男の傍なのだろう。
「じゃあまた明日ね!」
「うん、また明日」
「千尋ちゃん、私も帰るけどどうする?」
「あ…もう少しだけ、」
「らーん。きっと彼氏さんが来るんだから聞いちゃ駄目よ!」
「あ、ご、ごめんね!」
「う、ううん。気にしないで」
ぽ、と頬を赤らめた千尋が蘭の謝罪に慌てたように首を横に振っている。
最初資料で見た時は本当に人形のようだと思っていたがこうして見てみれば実際の千尋はとても感情豊かだ。
ばいばい、と帰っていく園子たちに手を降ってカップに口をつけている。園子たちの会計を梓がしてくれているのを見て、安室はそっと千尋に近づいた。
あの男が迎えに来るのなら聞くチャンスは今しかない。
「千尋さん」
少しだけ声が震えていたことに、彼女は気付いただろうか。
真剣な目の安室が近づいてきて千尋は口をつけていたカップをそっと机の上に置いた。
カラン、と音を立てて園子と蘭がポアロから出ていく。「休憩に行ってきますね」、と梓もいなくなった。
店内はいつの間にか安室と千尋だけになっていた。
「僕は貴女のことが好きです。……例え貴女の目が太宰さんに向いていてもそれは変わりません。貴女のことを僕が幸せにしたい。だからどうか、僕のことを好きになってくれませんか?」
そっと手を握られる。安室は本気で云っているのだろう。ならば、と千尋も口を開いた。
「ありがとう、ございます」
でも、と言葉を続けながら握られている手をそっと引く。安室の手は簡単に解けた。
「私の一番は、何があっても治くんだから」
ごめんなさい。と謝罪を口にすれば、安室は少しだけ寂しそうに笑った。
「謝らないでください。…でも、そうですね。千尋さん、僕のことが嫌いではないのなら一つだけお願いがあるんです」
「お願い、ですか」
「難しいものではないですよ。……僕のことを、忘れないでほしんです」
『安室透』のことを忘れないでください、と云う安室に訳も判らず頷いた。
何処かに行ってしまうのだろうか、と思いながらも其れを安室に問うことはしない。きっと踏み入ってはいけない領域だ。
携帯がメッセージの受信を知らせる。確認してみれば太宰からで、「外にいるよ」とだけ書かれていた。
窓の外に目を向ければ見慣れた砂色の外套を見つけ、千尋は伝票を持って立ち上がった。
「それじゃあ、私も帰ります」
「ええ、気を付けてくださいね」
にっこりと笑みを向けてくる安室に先ほどまでの寂しそうな雰囲気は何処にもない。
一瞬演技だろうかと疑ってしまったが、あの目は嘘ではなく真っ直ぐに千尋のことを見ていた。きっと自分が気にしないようにと振る舞ってくれているのだろう。
会計を済ませポアロを出ていく。背中に感じる視線には気付いていないフリをした。
「やあ」
「お待たせ」
「今来たばかりだからね、大丈夫だよ」
店の外で待っていた太宰の傍に行けば手が差し出される。その手に自分の手を重ねれば強く握られた。
まるで先ほど安室に握られていたのを上書きするような力の強さに、見られていたのかと思いはしてもそれを口にすることはしない。
ただ黙って腕を引かれるままに足を動かす。
「ねェ、千尋。君にずっと聞きたかったことがあるのだけど、聞いてもいいかい?」
「別に、いいけど」
駅まで道のり。会話がなかったが、特に不安に思うこともなく太宰の体温を享受していたのだが不意に太宰が口を開いた。
安室といい太宰といい、今日は皆色々と云ってくるなぁと思いながらも頷く。
ちらり、と盗み見た太宰の横顔は彼らしくなく緊張しているようだった。
「君は一体いつから、私のことが好きなんだい?」
「……え?」
「ほら、私たち最初がアレだっただろう?……君に好いてもらえそうなことなんて、何も思いつかないんだ」
太宰らしくない不安げな声色に千尋は僅かに目を見開いて、それからくすりと笑みを浮かべた。
確かに最初は最悪だといってもいいかもしれない。
首領である森に云われ、互いに利害が一致したからこそ始まった「恋人」という役割。
きっとあの頃の太宰にとっては面倒なものだっただろう。実際に面倒だ、と呟いているのを聞いたことがある。ぞんざいな扱いを受けたこともあるし、心ない言葉を浴びせられたこともある。
もしかすると太宰はあの頃の自分を思い出して不安に思っているのかもしれない。いつも自信たっぷりな太宰の思いがけない姿につい可愛らしいと思ってしまった。
笑みを漏らす千尋に太宰が判りやすく拗ねたような顔をする。今日は太宰の珍しい姿が沢山見れる日だ、なんて思いながら握られている手を離して一歩二歩と太宰の先を歩く。
太宰は、止めない。
「最初に治くんに会ったその日から、ずっと好き」
「……なんだい、それ」
「初めて知った?」
「だって君、何も云わなかったじゃない……」
うわあと声を上げながらしゃがみ込んでしまった太宰の傍に駆け寄り、千尋も同じようにしゃがめば太宰と目が合った。
治くん、と名前を呼べばなぁにと返事が返ってくる。それだけのやり取りでも嬉しくなって、千尋は笑みを浮かべる。
「私ね。ずっと治くんに幸せになってほしかったの」
初めて出会った日のことを思い出す。
森の隣で此方を見てくる青年の目は真っ暗で何も映してはいなかった。好きなことは?と聞けば自殺と云われ、嫌いなことは?と聞けば生きることと云われ。
本当に仲良くなれるかどうか不安だったが打ち解ければある程度のことは話してくれた。
──この酸化していく世界の夢から醒めたいんだ。
いつだったか、太宰が零した言葉を今でも思い出すことが出来る。
この世界が酷く退屈だと云う太宰は今が夢だと云う。夢であるなら伝わる体温も溢れている血も偽物だと云うのだろうか。ひた隠しにしている想いさえも偽物だというのだろうか。
ならば、
「ソレが私でなくてもよかった。幸せになってくれるなら、笑ってくれるなら貴方の傍にいるのが自分じゃなくても構わないと思った」
ただ、幸せになってほしいと。
世界は夢ではなく、苦しいことばかりではなく、退屈なことばかりではなく。
世界は、幸せに満ちているのだと知ってほしかった。ほんの少しでもいい。幸せだと思ってくれるなら、想いも殺してしまえるとそう思った。
「でも、駄目。私、治くんと一緒に幸せになりたい」
腕を掴まれ、胸元まで引き寄せられる。力強く抱き締めてくる太宰を千尋も抱き締め返す。
周囲の人々の色めきだった声や好奇の視線など微塵も気にならなかった。
「ねェ、治くん。今、幸せ?」
顔を見ようとしたがそれは太宰に阻止される。見たいのに、とぼやけばふふふ、と笑い声が聞こえてきた。
「嗚呼、幸せだよ」
──良かった。