醜悪


醜い醜い私の化け物。
「どうしてお前は私から離れないの」
揺らめく影を見て、呟いた。




『初めて』は冷たい地面に襤褸布を敷いただけだった。気持ち良くもない、ただ痛みだけが伴う行為。

『初めて』を奪った男のことを千尋は覚えていない。
突然襲われて必死に逃げたが大人の足に子供が勝てる訳がない。腕を掴まれ、無理矢理押し倒され、服を破かれた。
幼い体に無理矢理男のモノを捻じ込まれ、痛みに声を上げると黙るまで幾度も幾度も頬を殴られた。

事が終わった後に千尋が得たものは幾何かのお金と食べ物と、『己の体の利用価値』だった。

──何故今そんなことを思い出しているのかと云うと、似たような状況に陥っているからだ。

あの時と違うことと云えば自分は幼くなく、更に追いかけられている場所がじめじめとした貧民街ではなくごく普通の住民街ということだろうか。

走る、走る、走る、走る。
かなりの距離を走っているが追いかけてくる誰かとの距離は離れない。体力やスピードには其れなりに自信があったが何だか打ち砕かれたような気分である。

「……しつこい」

とうとう追い詰められた。目の前には壁、追ってきている誰かの気配はすぐ近くに感じる。何となくこの袋小路に誘導されたような気がしてつい吐き捨てるように呟いた。

足を止めた千尋に誰かはゆっくりと近づいてくる。逃げられないと判っているからこその余裕だろうか、純粋に腹が立つ。

足音が聞こえて後ろを振り向けばニット帽を被った黒髪の男が立っていた。ゴルフバッグか何かを背負っている。

「此処じゃ落ち着いて話も出来ないし、お茶でもどうだ?」
「お断りします」

男の言葉に即座に言い返す。まるでストーカーのように追いかけてきた男とお茶が出来る程千尋は心が広くない。只でさえ男の行動の所為で思い出したくないことを思い出してしまい、気が立っているのだ。いっそのこと異能力で殴って気絶させようか、と少々危険な考えも出てきている。

キ、と男を睨む千尋がそう簡単について来てくれないことを悟ったのだろう。男は仕方ない、といわんばかりに口を開いた。

「……なら此処で聞こう。芥川龍之介を知っているな?」
「知ってますが、其れが何か?」
「彼のアレは一体なんだ?」
「アレ、とは」
「それは君の方が詳しいだろう」

探るような目を向けてくる男。外国の血でも入っているのだろうか、緑色のそれが千尋を射抜く。

ただ者じゃない。

男の立ち振る舞いがそう教えてくれる。何か武道でもしているのだろうか、何処にも隙が見当たらない。

ポートマフィアであった自分ならばこの場を切り抜ける方法など幾らでも思いつく。然し今の千尋はただの女子高生なのだ、そんなことをすれば何故かかけられている疑いの目がもっとひどくなることは目に見えている。

其れに男の目的は何だろうか。一体何処で芥川の異能力のことを知ったのだろう。東都でいうのなら先日の件だが、横浜では普通に使っているし其方で見られたという可能性もある。

男は何も云わず千尋を見詰めている。どうにか此処を切り抜けなければ。異能力のことは隠し通さなければいけない。男を真っ直ぐ見据えて千尋は口を開いた。

「知りません。私は、何も」
「……やはり此処ではじっくり話が出来ないな。一緒に来てもらおう」
「ッいや!」

男の手が千尋の腕を掴もうと伸びる。拒絶の言葉を吐けばざわりと千尋の影が揺らめき黒い手が影から現れ男の手を弾いた。

千尋にだけ付き従う異形の『それ』は威嚇するように鋭い爪先を男に向けている。千尋の意思など関係なく現れてしまった『手』につい唇を噛んだ。

──千尋の異能力『夾竹桃』は自立型の異形とでも云えばいいのだろうか。
千尋の云うことにだけ従うし、千尋の意思の通りに動くことが殆どだが時折こうして彼女に這い寄る危険を祓おうと勝手に動き出すこともある。

突如影から現れた黒い手を男は驚いたように見ていた。

「、君。それは…」
「──私は呼んではいないよ。帰りなさい」

男が唖然としている間に影に向かってそう云う。声色から滲む怒りに「手」は幾度か揺れた後に静かに影へと返っていった。

男は唖然としたまま動きを止めている。今しかないと千尋は男の横を駆け抜けた。
待て!と男が叫んだような気がしたけれど聞こえないフリをした。



夕方のポアロ。食事を終わらせた客たちが会計を終わらせ出ていくのを見送って、安室は一人の青年に目を向けた。

砂色の外套を羽織ったままの青年は観察するように此方を眺めている。過去男から言い寄られた経験もあるので、ついそんな趣味かと思ったが店内に残る客が少なくなったのを確認した青年は安室に向かって口を開いた。

「ねェ、君探偵なんだって?少しお願いしたいことがあるのだけど」
「えぇっと構いませんが…どちら様ですか?」
「嗚呼、名乗ってなかったね。私の名は太宰、探偵だという君に依頼があって来たんだ」

太宰と名乗る青年はにこりと笑みを浮かべた。
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