悲鳴
悲鳴、嗚咽、怒号、怨嗟。いつも聞いていたもの。
悲鳴の元へ駆け付けたコナンが目にしたのは腕から血を流している女性と、そんな女性に馬乗りになっている男だった。男の手には凶器と思わしきナイフが握られている。
それを振り回しながらぶつぶつと意味のない言葉を呟いている男。その瞳は正気を失っており、余計に恐怖を煽られるのだろう。女性は体を震わせ小さく悲鳴を上げている。
「ああ、此処にも虫がいた」
「ひ、ひィ!」
緩慢な動きで男の目が女性を捉えた。と同時にナイフの切っ先が女性に向けられる。
虫、とは。男の目には彼女は虫に見えているのだろうか。それとも人間全てが虫に見えているのだろうか。どちらにせよ男は違法な薬物でも接種しているのだろうと想像できる。
早く女性を助けなければ。
しかし周囲の人間は男の手のナイフが恐ろしいのか、遠巻きに見ているだけ。女性が死んでしまえば男の凶刃は此方に向くというのに。
だが一般人である彼彼女らに男を捕まえろと言うのは酷な話である。それが判っているからこそコナンは声を上げた。
「こっち!こっちだよ!」
「……なんだ、其処にもいたのか」
正気を失った目がコナンに向けられた。コナンの隣にいた大人たちはぎょっとした顔をした後に足早に立ち去って行く。それでいい。
体躯の小さいコナンならば男が通れないような合間を縫って逃げることも出来る。こんな騒ぎになっているのだ、警備員も直に到着するだろう。それまで持ち堪えればいいだけの話だ。
男が立ち上がり、此方に向かってくる。よし、と内心男の気を上手く此方に向けられたことに喜んでいると予想外のことが起こった。
「ママぁ〜〜!!」
コナンよりも小さい子供が泣きながら女性へと駆け寄ろうとしているのだ。母親が怖い目に遭っているというのは幼いながらも理解していたのだろう。
それから母が解放され、安堵の気持ちで駆け寄っていくのはよく判る。しかし少女が走っていく方向が不味い。少女が足を向けている先には男が立っている。
泣きながら己がいる方へと走ってくる少女は男の目にもしっかりと映っているようで、構えていたナイフの切っ先が少女へと向けられた。
「待って!!
少女の動きを止めるように声を上げるが泣いている少女の耳には届いていない。ママ、と泣きながら母を求める少女は男の存在には気付いていないかのように走る。
何か蹴り飛ばすものは、と周囲を見渡すが残念なことに見当たらない。そうしている間にも少女が、男のナイフが届く位置に足を踏み入れた。
「待っ──!!」
手を伸ばす。到底届きはしない。このまま少女が傷つくのを指を咥えて見ているしかない。小さな体躯の己に歯痒さを感じていると男と少女の間に割って入る影が一つ。
「大丈夫?」
「う、うん…」
少女を庇うように立ちはだかっているのはいつの間にか来ていた千尋だった。
振り下ろされたナイフがそのまま彼女の頬を傷つけ、零れた血が肌を伝って落ちていく。僅かな傷だがそれでも痛みはあるだろうに千尋は顔色一つ変えない。普段と変わらない様子の彼女にほんの少しだけ不信感を抱いた。
しかし今はそれを追及しているような時ではない。恍惚とした表情を浮かべている間に慌てて千尋の傍へと駆け寄る。
「千尋さん、血が出てるよ!大丈夫?」
「うん、平気。この子を見てて、下がってて」
「う、うん…」
コナンを一瞥することもなく男の動きを凝視している千尋。そしてそのままファンティングポーズをとる。
ボクシングでもしているのだろうか、華奢な彼女からは想像できない。
何が起こっているのか判っていない少女を庇いつつ、コナンは一歩二歩と後ろに下がる。男が再び此方を向く。その顔は気持ち悪い笑みを浮かべており、目は千尋を捉えている。
大丈夫だろうか、と心配するコナンの視界の端で千尋の影が揺らめいた気がした。