待って待ってまだ待って




彼女はへらへらと笑っている。

彼は眉間に皺を作る。

「痕が残ったらどうするんですか。君は女性なんですよ」

「あはは、そんなのいちいち気にしてられませんよ」

彼は渋面を解かない。

彼女はまだ笑っている。







ツェッドは別に特別なフェミニストなわけでもレイシストなわけでもないが、女性というのは丁重に扱うべき存在だと思っている。彼は一人で完全な個体であるため、人類の男性が一般に持つような下心はそこに含まれていない。ただレディーファーストは差別ではなく公然の敬意なのだと認識しているし、女性や子供は守らなければとも思う。ライブラの女性陣は一人を除いて戦場に立つ者であるという確固たる存在を築いていて、日常で優先することはあるがひとたび前線に出ればその立ち位置は同じだ。そんな彼女たちには争いごとにおいて自分の力など必要ないだろう。

あくまで、一人を除いてだ。

今日もレオナルドは怪我をしている。今回は道路で揉めていた異界人の投げたガードレールが野次を飛ばしていた別の異界人に粉砕され、脇をバイクで通り過ぎようとしていた彼女に降り注いだらしい。ソファーで痛い痛いと繰り返し零して顔を顰めている。ギルベルトの手によって包帯に覆われていく白い腕は、目を疑うほど細い。

白い頬には大きなガーゼが張り付いていた。

「……大丈夫ですか」

「あ、ツェッドさん。こんちはー」

ひょいと上げた片腕は、無事なのかと思えば既に包帯が巻かれた後だった。広い袖口から覗く肌とは違う白は、見ているだけで痛々しい。

ツェッドは溜め息をついた。

先日、異界人に殴られているレオナルドを自分が救出したばかりだ。そのときも目の端は青くなっていたし、唇も切れて血が流れていた。その惨状にツェッドが心配と非難が混ざり合った声を上げたときも、レオナルドはへらりと笑っていた。

レオナルド・ウォッチは自分の性別を理解していないのではないかと、ツェッドは常々考える。彼女はライブラの中でも異質なメンバーだった。神工品の瞳を持つだけの少女は、強くもないし戦士というわけでもない。なのになぜか戦場に立って、誰かを護ってぼろぼろになっている。

女性だから傷を作ってはいけないなんて思ったことは一度もないが、こうも頻繁になるとそういう言葉の一つや二つ容易に出てくる。彼女が弱いなりの生き方を見つけていることもその処世術を使いこなしていることも知っているが、どうにもいざというとき、躊躇わなさすぎる。

「災難でしたね」

今回はレオナルドの意思は関係がない。そのことを自分に言い聞かせながらツェッドが向かいのソファーに座ると、レオナルドは歯を見せて苦笑した。

「ツェッドさんはいつも心配してくれますね」

それは僕だけではないでしょう。ライブラの大抵の人間は君が怪我をすると心配していますし、K・Kさんなんか相当慌てるじゃないですか。

そう言おうとしたのだが、どうも口から出てこない。

「女の人が怪我だらけになっていたら、心配にもなります」

率直にだから危なっかしいことをしないでくれと伝えたかったのに、自分の台詞に自分が引っ掛かる。その違和感の原因がわかる前に、レオナルドがからからと笑った。

「そういうこと言ってくれんの、ツェッドさんぐらいですよ」

どっかの銀色の誰かさんとは大違いです。と、彼女はやはり笑っている。





「貴方はほんっ……………………とに、どうしてそう駄目人間なんですか」

「オウコラおろすぞ」

右頬と左頬を平等に腫らしたザップは、ソファーに寝転がりながらゲームをしている。また女の板挟みにあったのだろうことは、誰の目にも明らかだ。

「女性の家に無理やり上がり込むなんて最低ですよ」

「女性ぃいい? 俺は女の家に入るときは招かれて行ってるんですー。相手もいないどこかのクズモチ野郎とは違ってー」

「何言ってるんですか? レオ君が怒ってましたよ。また鍵壊されたって」

「はあああ?」

ザップが下唇を出しながらツェッドを気違いを見る目で眺めた。限りなく心外である。

「はあお前、はあ? 近眼やべえんじゃねえのメガネ作ってこいメガネ」

これはどういう新しい類の貶し方なのかとツェッドは黙考したが、ザップはさらに続ける。

「あいつのこと女扱いしてんのなんてお前くらいだわ」

自分が貶されていたのではなく、レオナルドが貶められていたらしい。若干申し訳ない。

「そんなことないでしょう。レオ君を女性として扱っていない低俗な人間が貴方だけなんですよ」

「いーや違うね、俺のが正しいね」

血法でゲーム機のボタンを連打するという果てしない無駄遣いを行いながら、ザップが上半身を起こした。

「番頭はあいつのことガキとしか思ってねーし、姐さんは娘みたいな感じだ。犬女は妹だな。ギルベルトさんは性別が生物学上は女に分類されてるからそういう風に扱うのが前提になってるだけだし、旦那もそんな感じだが何よりレオのことは仲間だと思ってる。そんで俺はあんなのが女とは認めねえ」

赤銅色の瞳がツェッドを捉える。ツェッドは薄く身を強張らせた。

「レオナルドって個人を女って思ってんのは、お前くらいだろーよ」

これで話は終いだとばかりに再びソファーに沈んでゲームの続きをし始める。ツェッドはしばしそのままの姿勢で動かなかった。

レオナルドは女性だ。骨格は明らかに男のそれより華奢だし、声も特有の柔らかさがある。だから、彼女が傷つくのを見ると悲しみや加害者への怒りを覚えるし、子供に優しいところはとても微笑ましい。だから怪我をしても何でもないように振る舞っていることに苛立ちを覚える。だから護ってやりたい。

――だから?

ぶわっと全身から汗が噴き出す心地がして、ツェッドはライブラを飛び出した。





「前もあそこでしたよね」

「……あー、そうでしたっけ?」

「そうでしたよ」

「………すいませんでした……」

レオナルドの手首には、赤い指の痕がある。

ライブラを飛び出した矢先、懲りずに異界人に絡まれているレオナルドを発見したときツェッドは幻覚かと思った。どれだけ面倒事に巻き込まれれば済むのだろう。しかもあの路地は、以前ツェッドがリンチされかけている彼女を助け出したのと同じ場所だ。

強く掴まれたのか手首をひたすらさすって申し訳なそうに謝罪するレオナルドに、前回の再現のような形で異界人を追い払ったツェッドは溜め息だけは耐えた。俯いたせいで見えている項は白く、細い首の頼りなさはこちらを不安にさせる。

「もっと、気をつけなきゃだめですよ。君は――」

「ああー、はい、女の子なんだからって言うんでしょ?」

レオナルドがぐっと首を竦めて言葉を遮る。気まずげに唇を尖らせ、癖のある髪を掻き回した。
「ほんと、ツェッドさんぐらいですよ、俺を女の子扱いするの」

「…………」

レオナルドは顔を上げ、小さく笑った。上がった唇の端に、複雑な何かが刷かれている。

「俺にとってはね、女の子っていうのはミシェーラみたいな子のことなんですよ」

ツェッドは彼女の眼を見ようとしたが、生憎叶わなかった。彼女が横を向いていたからというのもあるし、瞼に覆われていたからというのもあるし、彼女の瞳が今は何処にもないからという意味でもある。

「細くて柔らかくて優しくて可愛くて、守ってあげたくなるような、そういう子のことです」

K・Kさんやチェインさんは女性、ってのが合ってますね、と苦笑する。

「別に俺、女の子として見られたいわけでもそういう子になりたいわけでもないんですよ。そういう役目は、ミシェーラみたいな子に任せてるんで」

笑顔に諦観や自嘲は見られない。今度はこちらの眼を見て告げたというのが本心だという何よりの証拠だったけれど、ツェッドは手を伸ばして彼女の手首に触れた。

触れた肌が驚いて一度震える。歪な指の痕の上を、上書きするように覆うとそこが熱を持っているのがわかった。

細い。脆そうで、やわい肌はなめらかだ。

「でも、やっぱり君は女のひとですよ」

あの水槽を、古びた屋敷を出てから、探したい言葉が見つからないということを何度も体験した。けれどこんな風に触れた白い肌に緊張したり、体温が心地よかったり、不思議そうにこちらを見上げるあどけないともいえる表情を、守りたいと思ったのは初めてだった。

「僕はやはり人類とは感覚が違うのかもしれません。もしかしたらこれまで『女性だから』なんて言ってきたことは、全部僕個人から君個人への、性別なんて何一つ関係がない心配だったのかもしれない。けれど、それでも僕にとって君は、とても素敵な女性です」

ツェッドは他人と番になることはない。そういう類の欲を持つ相手はいないのだ。しかしそんな彼にとってレオナルドというひとは、友人であり同僚であり仲間であり、一人の女性でありもっと特別な個人だった。

彼女が種族も性別もすべて無いことのようにツェッドの腕を引いた、あの日からずっとそうだ。

「――だから……、だから」

何と言えばいいのか、と口元をまごつかせてちらりと彼女を窺い、そこでツェッドは言葉をなくした。

白い頬が、力の入った眦や猫っ毛から覗く耳まで真っ赤だった。驚愕か別の何かで薄く開いた唇は淡い桃色で、そんなところもやはり女性らしいと考えてしまう。

そして次の瞬間には、ツェッドの顔も赤く染まっていた。

びくりと痙攣した指が細い手首を捕らえたままであることを思い出し、ばっと手を引く。

「すっ、すみません! け、軽率に女性に触る、なんて」

言いながらさらに赤くなり、聞きながらレオナルドの顔にも赤みが増す。

「…………まっ、またそういうこと言う! だからそういうの、慣れてないんです、よ!」

怒ったように張り上げた声が少し潤んでいた気がして、ツェッドはさっきまで手首を包んでいた手を伸ばす。レオナルドに届く前に、彼女はさっと身を引いた。

その仕種に、ふわふわと揺れる髪の先に、噛み締めた小さな唇に、胸が絞られるように痛んだ。不快ではないが、むず痒い痛みだった。

「僕も別に、慣れているわけではないです」

「嘘だ」

「嘘じゃないです」

「うっ、嘘です!」

「え、ちょっと、レオ君!」

棒のような手足を思い切り振って、レオナルドが脱兎のごとく駆け出した。ぎょっとするが、追い掛ける間もなく雑踏の中に小さな陰は紛れてしまう。

追い掛けてもきっと撒かれてしまう。けれど戻るなんて出来なくて、異界人の隣をすり抜けた。





レオナルドは自分の頬を手で扇いだ。熱い。走ったせいだ。

彼は性別が女ならきっと誰に対してもああなのだ。いつも紳士で生真面目で、何処かの兄弟子とは真逆だから。だからこれはレオナルドに対してだけではない、はず。

クラウスだってギルベルトだって、女扱いしてくれる。仲間の自分を守ってくれる。けれど彼はいつも女のレオナルドを守ろうとしてくれて、それが恥ずかしくてもどかしい。

可愛い女の子でなんていられない。自分にはすることがあるのだ。

『お姉ちゃんは、女の子なのよ』

HLに来る前、そう言った最愛の女の子を思い出す。

けれど彼女とあのひとの言葉では、何か、何か違うのだ。

――素敵な、女性。

「………………うぐぅ…………」

しゃがみ込んで唸っても、頬の熱さは消えない。

女の子になるタイミングを逃してしまった少女は、しばらく染まった頬を膝に押し付けていた。

その後彼女は、追って来た男に見つからないよう慌ただしく逃げることになる。







ザップのせいだ。

レオナルドとツェッドの間には人一人分の空間が空いている。いつものメンバーで昼食を終えた帰り、ザップが修羅場の連絡を受け青い顔で走って行った。本当に最低のクズだ、とレオナルドは吐き捨てる。彼がいた間はいつもの“同僚”でいられたのに、いなくなった途端“レオナルドとツェッド”になってしまった。目を合わさないまま気まずく、会話すら交わさず帰り道を歩く。特にレオナルドはツェッドに気づかれていないとはいえ昨日逃げまくった手前、居たたまれなさも一入だった。

「――あ」

ふ、と固い手がレオナルドの肩に回り、引き寄せられた。ツェッドの胸元に側頭部が当たったことを認識した瞬間、ぐわっと血液が頭へ昇る。しかし直後レオナルドのいた場所が何処かからの流れ弾らしい散弾で蜂の巣になり、近くにいて巻き添えを食らった異界人の血が飛び散るのを見て集まった血液は急降下した。

さすがは混沌の街。

「あっ…ありがとうございマス……」

「いえ……危ないですね。ちょっと離れましょうか」

離れましょうか。言われて、レオナルドは慌ててツェッドの傍から飛び退いた。

沈黙が落ちる。

「…………こ、この場を離れようという意味だったんですが……」

「すっ、スイマセン!!」

レオナルドは泣きそうになる。ツェッドは指で頬を掻いた。

「いえ、その、僕も考えなしに、すみません。嫌ですよね」

「いっ、嫌ではないです!」

微妙な距離の間を、不思議な空気が流れる。レオナルドはまた真っ赤になった。

ツェッドが声を掛けようとしたら、さらにサブマシンガンの音と血飛沫がすぐ側の道路に散った。

「……ば、場所を移動しましょう」

「そっ、すね!」

がくがく頷くレオナルドに、すっと手が差し出された。

顔を見上げる。俯いた表情の目元に、赤みが差していた。

「……手を繋ぐくらいなら、いいですか?」

レオナルドの肩が強張る。ふと遠目に、男に抱き寄せられている人類の女性が見えた。長い髪に赤い唇、蠱惑的なラインを描く肢体。理想的な女性の姿。どきりと、心臓が揺れる。

――お姉ちゃんは、女の子なのよ。

レオナルドの知る最も素敵な女の子が、頭の中でそう告げた。

出された掌へ目を落とす。

そっと、指を乗せた。握手にすらならない、指を絡ませるとも言えない程度、そっとその指先を握った。

握り返される。見た目より固い指だと、前から知っていた。

ほとんど同時に歩き出す。肩も触れないくらいに間を開けて、お互い目も合わさずに歩を進める。

それでも決して離れない指の熱が、昔胸の内に仕舞い込んでしまった何か脆く柔らかいものを、密やかに揺さぶった。



















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