さよなら椿姫




 彼のことなんか何も知らない。ただ、あの男が――スティーブン・A・スターフェイズが、そうするように言ったから。ただそれだけ。
 自分が“そういうこと”をするようになった件については、あまりに自然な流れだったからそれほど感慨はない。私よりも明るくて笑顔の可愛い、本当はすごく寂しがり屋な姉が、惚れ込んでいたのがミスタ・スターフェイズだった。初めて彼を見たのは、私が働いているバーで二人が待ち合わせしていたとき。彼に熱を上げていた姉はとびきりの化粧とドレスで自分を彩って彼を迎えた。現れた彼はいい男を絵に描いたようで、姉の蕩けた瞳の理由がよく理解できた。けれど組んだ長い脚が姉の脚を掠める姿や、自然に腰に回される腕や甘やかな微笑み、そしてそれらに相反する冴えた瞳を見たとき、なるほどと思った。そのとき姉はあるマフィアの幹部に囲われていたから。彼が姉に愛を囁く訳を、幸か不幸か私は知ってしまった。
 最初、私は姉が窮地に追いやられるのではと恐怖した。元々姉はそういう仕事の女だったから、他の男と関係を持つくらいはそれほど心配しなかった。実際に今まで姉は何人かのひとと夜を過ごしたけれど、無事だったこともあって。まあ相手の男たちの姿は、見なくなったしきっと二度と見ることもないけれど。でも情報を流したことがばれれば、相手をどうこうすれば済むという話ではなくなる。姉に何らかの制裁が加わるのではと、気が気でなかった。
 しかしマフィアの組織はその根城ごと壊滅して、息を切らして行った現場には数々の死体とも言えないようなマフィアたちの残骸が撒き散らされていて、その中には姉を囲っていた男があられもない方向に関節を曲げて転がっていた。まだ生きてはいたけど。なんとなくあのひとの仕業なんだろうと思った。彼は自分の仕事を遂行したのだ。
 姉は、事務所内にいなくて巻き込まれずに済んだ。でも警察に保護されているという姉を迎えに行ったとき、そんな安堵は手から転がり落ちていくみたいに呆気なく消えた。
 元々囲った女で新しいクスリを実験していたのだと聞かされた。姉が情報を流していたから犠牲になったのではないということに、私は今度こそ絶望の中少しだけ安堵した。姉の嬉しそうな微笑が、瞼の裏に残っていたから。
 幸い一命は取り留めた。でもいつも輝いていた瞳は虚ろで、私にあの太陽みたいな笑みも向けてくれない。
 病室で彼と鉢合わせたのは、運命だったのかもしれないしあるいは彼の計算だったのかもしれない。今となってはもうすべてどうでもいいことだ。
 彼が姉を想って見舞いに来たというわけではない、まずそれだけはわかった。労るひとはああいう眼はしない。彼からすれば情報提供に役立ってくれた駒への労いだったのかもとは、後から気づいた。
 とっさに罵声か、もっと事務的な言葉を吐き捨てそうになった直前、姉の顔が浮かんだ。小さな女の子みたいに、この男からもらった香水を両手で握りしめる姉の嬉しそうな顔が。
 黙り込む私と彼の視線が合わさった。そのとき、その瞳の奥に見えたものが多分、私の運命の別れ道。
 姉をこんな風にした麻薬のルートはまだ生きているらしい。だったら、潰さなければ。彼は言わずもがなだが、私のその衝動も恐らく復讐と呼べるものではなかった。もっと別の、義務のような何かだった。
 彼は姉を利用した男だった。けれど不思議と、憎くはなかった。
 その日から私は、スティーブン・A・スターフェイズの駒になった。





 あれから、ルートのいくつかを潰した。そうする度舞い上がった埃のように、いつの間にかどこかで同じような奴らが密集する。そして掃除の繰り返し。
 私はスターフェイズの命じる通りに動いた。単純に、姉の入院費も必要だったのだ。その名の通りのギブアンドテイク。冷血漢と言われる彼に、とてもお似合いの言葉だ。
 その冷酷な彼が次に私に指示したのは、平たく言うととある男を落とせということだった。
 いつもみたいに情報を引き出す訳でないことには、正直戸惑った。そもそもこれまでの相手だって私をいつでも切れる愛人だとか気のいい女ぐらいにしか思っていなかったし、そういう割り切った関係だったからこそ私も楽に振る舞えた。でもこれは違う。相手を自分に惚れさせるというのを目的にすると、元々娼婦でも何でもない私にはテクニックがない。
 今まで本気で熱を上げてくれた男もいた。でもその少年までそうとは限らない。
 そもそも何故その男を落とさなきゃならないのか、教えてくれないだろうとは思いながら遠回しに聞くと、どうやら彼の本業に関わりのある子らしい。少しの熱を持った端末から、掠れた男の声が少し割れて届く。
『裏切りだとか出奔だとか、そういうのがないように保険を掛けておきたいんだよ。彼はわりと使えるから、いなくなられても困る。もし彼が“そういうやつら”に流されそうになったり、この街を去るとき君がコントロール出来るように。彼はまあ比較的普通の感覚や良識のあるタイプだから、恋人なんかの言うことなら蔑ろに出来ないだろう』
「………そういう子なら、元から恋人でなくても貴方の言うことを聞くんじゃない?」
『念には念を、だよ。本当に信頼出来るとわかったら君には別れてもらって構わないんだから。それに彼の力を借りれば、今度こそ麻薬ルートを一網打尽に出来るかもしれない。上手くやってくれ』
 天気の話より中身が空っぽな声で上手に餌を撒いて、彼は通話を切った。

 後日、見せられた写真には平凡な男の子が映っていた。名前はレオナルド・ウォッチというらしい。







 彼との出逢いは、計算とは少し違った。
 どこで、どのタイミングで声を掛けるか悩み続けていたけれど、思わぬところにその機会はやってきた。私が働くカフェの路地裏で、彼が異界人に絡まれていたのだ。
 助けにはいかなかった。ただ彼が暴力を振るわれぐったりとコンクリートに倒れ伏しているところに、ごみ袋を抱えて近づいていく。ごみをバケツの中に放り込んでから、さも今彼の存在に気づきましたというように声を上げてやった。
「ねえ、大丈夫?」
 右頬を赤く腫らし、唇の端から血を流した彼は驚いたような表情をした。瞳の色はわからなかったけれど、全身を見るに聞いていた年齢より少し幼げで、どこにでもいるような平凡な男の子。
「だ……大丈夫」
 ハンカチを切り傷に当てようとすれば、汚れるからと慌てて身を引く。反応がロースクールの子供みたいで、少し笑ってしまった。
 それがレオナルド・ウォッチとの、ファーストコンタクトだった。



 カフェのスタッフルームで軽く手当をすると、彼は何度も謝罪とお礼を繰り返した。いかにも善良そうで、この町じゃあまりにも生きづらそうだ。これから私にまで騙される彼の不運を気の毒に思いながらも、心は正直痛まない。この街はそういう街で、私はそういう女だ。
 レオナルドは後日、カフェに手土産と共にやってきた。可愛らしくラッピングされたクッキーは、有名なブランドではなかったものの女子受けするだろう。そういうのを知っているタイプとは思えなかったので、知人の女性に頼んだとかそんな感じかもしれない。女らしい予想には触れずセンスがいいと褒めれば、彼は照れたように笑った。故郷に妹がいて、そういうものが好きなのだと。予想、はずれ。
 そこから、レオナルドとの付き合いは始まった。
 週に二度、たまに三度、レオナルドはこのカフェに足を運んでくれた。いつもコーヒーを頼んで、雑誌を読んだり何かをメモしたりしている。給料日後はよく厚切りベーコンとトマトののパニーニを注文した。
 不自然ではない程度の世間話から始めて、少しずつ距離を近くしていく。ある程度の仲までいったら彼の来店後、コーヒーを持って行ってから休憩を入れて同じテーブルに着くようになった。確実に友人という関係性を手に入れて、それからは店の外で見かけたときにも声を掛けるようになった。
 レオナルド・ウォッチという男は、いいひとだった。
 宗教家のように薄っぺらい博愛を撒いたり聖人のように何も聞かずにすべてを許すひとではなく、何処に行っても一人は見かけるような、親切でお人好しの青年。善人という定義が形式ばって見える程度には普通に悩んで普通に怒って普通に愚痴を言う、ありふれた人間だった。





「レオは、写真が好きなの?」
 窓際、観葉植物の隣は彼の指定席。向かいの椅子を引きながら、テーブルに散らばっている写真を見下ろす。どれも風景画で、音速猿が持っているのは雪を被った山の写真だった。
「まあ……趣味? みたいな」
 彼は曖昧な返事が割と多い。私を蔑ろにしているんじゃなくむしろ逆で、下手に断言して嘘になってしまうことに注意を払っているようだった。私とは正反対だ。
「綺麗ね、これ」
「それはイタリア。こっちはスイス」
 音速猿の小さな足の下にある四角い花畑を指し、次に小さな前足に掲げられている写真を示す。
「こっちもイタリア。行った田舎の家の建築が綺麗で、たくさん撮ってたら枚数がすごいことになった」
「レオが撮ったの?」
 そこで彼が少し照れた、でも得意気な顔をした。
「ここに来る前は短期でちょくちょく、いろんな国に行ってたんだ」
 その言葉は、優しく背中を押すみたいに、私を突き飛ばした。
「すごいわね。私はこの街から出たことないもの」
 レオは少し意外そうな顔をしてから、口角を上げて笑う。
「じゃあ、いつか行けたらこの村に行ってみたらいいよ。本当にいいとこだから」
 彼は笑顔でそう言う。私と彼は別の生き物だとわからせるみたいに。そして連れて行くなんて、決して言わない。
「ねえ、レオ」
「うん?」
 貴方の故郷はどんなところ?
「貴方のお気に入りはどの写真?」
「お気に入り? お気に入りかあ……そうだなあ……」
 レオナルドは嬉しそうに写真を掻き回す。私も少し身を乗り出して写真を見下ろす。顔を見られないように。








 花を買った。姉への見舞いの花。黄色いダリアが姉の笑顔に重なったから、それを大きな花束にしてもらった。
 抱えた花の、花弁の間。雑踏の中に彼が見えた。
 レオ。声を掛けようとして、その名前が喉の奥に留まる。二メートルはある異界人が私とすれ違って、そのおかげで隠れていた彼の隣が見えた。
 すらりとした長身。品の良いスーツ。磨かれた革靴。
 とても、不釣り合いな二人だった。
 レオナルドが何事か話しかける。頬が少し紅潮していた。楽しげに、片手に荷物を抱えて開いた片手を胸の前でばたばたと動かす。スターフェイズがそれに苦笑した。距離が離れているのに、なぜか目尻の皺が見えた気がした。
 二人はコンパスの差が大きくて、けれど離れたりしない。スティーブンの半歩後ろを、レオナルドが軽快に歩いている。
 不意にスターフェイズの手が、レオナルドの髪に伸びた。蟀谷よりも少し上。何かを摘まむ仕種。糸屑でも付いていたのかもしれない。
 離れる指に、レオナルドが襟元へ顎を埋めるように笑った。
 それを見てスターフェイズが薄く口元を緩ませ、目を伏せた。
 それから二人は立ち止まって、何事かを話して、スターフェイズが手を振って右の交差点へ逸れていった。レオは手を上げたまましばしそれを見送って、それからゆっくりと歩き始める。
 俯きがちな顔が上がる。何かに気づいたような顔で、私に微笑みかけた。
 はっとした。固まっていた身体が溶けて、両腕で花束を抱え直す。
「レオ。こんにちは」
「やあ」
 レオナルドはいつもの彼だった。私は詰まっていた息を不自然ではないように吐き出して、唇を綺麗な弧にしてみせる。
「買い物してたの?」
「え? ああ、そうそう。安いもん買いだめしてたんだ」
 抱えている紙袋見下ろして、少し恥ずかしそうに苦笑いする。
「そっちは、デートか何か?」
 完全に不意打ちで、私は一秒にも満たない間固まった。白く染まった脳裏に浮かんだのは仕事のことで、脊髄反射で首を振る。
「まさか。そんな相手いないわよ。どうして?」
 相手に質問の矛先を向けて、自分から注意を逸らした。いつの間にか上手くなった会話法だ。レオナルドは少し首を傾げて、不躾ではない程度に私の全身を見た。
「私服だし、花束持ってたから。プレゼントされたのかなって」
 言われてみれば、彼と会うときはいつも黒いワンピースに白いエプロンドレスの制服姿だ。対して今は、簡素な水色のブラウスに麻のスカート。髪も巻かずに流れるに任せている。こんなことならもう少し、気を遣った格好にすればよかった。
「違うわ、知り合いが入院してるからそのお見舞い。デートならもっと可愛い服着るもの」
 レオナルドはきょとんとした。
「今より?」
「え?」
 素で動揺して、見つめ合う。レオナルドが少し頬を赤くして、慌てたように手を振り回した。
「いやっ、違う、いや違わなくて、その、今の服装もすごい可愛いなって、ああああ……」
 大げさな動きで俯くレオナルドの旋毛が見えた。私は少し後ずさりする。
 頬が熱い。
 レオナルドは誤魔化すように、髪を掻き回して笑った。
「それに、その花束も、君のイメージに合ってるから。プレゼントされたのかなって、思ったんだ」
 今度は意味が分からなくて固まった。手の内にある大輪の黄色い花と彼を見比べる。
「……これ、私のイメージ?」
 ピンクの薔薇が似合うと言ってくれたひとはいる。白い胡蝶蘭の鉢を店に贈られたことも。けれどこんな、太陽みたいな花は私にとって、姉の花だった。
 レオナルドは顔の熱を覚ますために手で煽ぎながら、視線を逸らして頷く。
「いや、君はいっつも大人びてるから、薔薇とか似合うなーって思うんだけど。でもたまにぱって、ほんと、ダリアの花が咲くみたいに笑うから。ぴったりだなって」
 レオナルドはちらりと私を見て、それから驚いたように眉を上げ、少し首を竦ませた。
「ごめん、ダリア、そんなに好きじゃなかったかな」
 強張っていた表情筋が笑顔の邪魔をする。必死に首を横に振った。
「違うの、嬉しいの。ただ、あまり言われないから、びっくりしちゃっただけで。……ありがとう、レオ」
 レオナルドはあからさまにほっと胸を撫で下ろしていた。お互いに微笑みを交わして、それが生まれてしまった気まずさをすべてリセットした合図になる。
「これから病院なら、途中まで一緒に行ってもいい? 俺もこっちなんだ」
 それが彼の気遣いなのか本当なのかはわからなかったが、こちらとしてはその方がいい。勿論とまた笑って、すぐそこのビルの角を曲がる。
「……レオに会うんだったら、もっとちゃんとメイクしてくればよかった」
 しばらく歩いて、気持ちを落ち着けて思わせぶりに言ってみる。隣の気配が大きく狼狽して、微笑ましかった。
「いや、さっきも言った通り、ほんと、可愛いから」
「……ありがと」
 やはりこちらもいたたまれなくなって、話題探しのために目を彷徨わせる。
「あ、あのブランド、今流行りなのよ」
 ビルの側面にある大きな広告では、人型の異界人が蠱惑的に微笑んでいる。一押しのルージュが塗られた唇が強調されていたが、色に透明感があるからかいやらしさはあまりない。
 ルージュの色は、マゼンタとチェリーレッドとロータスピンク。ピンクの発色が良くて可愛いと思ったけれど、私に合うのはあの純粋なレッドだろう。今度買ってみたらいいかもしれない。目を伏せてドレッサーの前を想像する。今使っているのが残り少なかったはずだ。
 レオナルドもあの異界人女優を見た。ああ、と声が漏れる。
「ピンク、可愛いね」
 似合いそうだ。
 広告を見たままのレオナルドの言葉に、顔を上げられなくなった。唇を噛む。
 恐る恐る顔を上げる。優しい微笑があった。
「髪、ほんとはストレートなの?」
「……う、ん」
「そっか」
 彼が正面を向いても、私は目を離せないでいた。
 レオナルドは、遠くを見つめるように少し顔を上げて辺りを見はるかした。
「俺の妹もストレートなんだよ。兄妹で似てなくってさあ」
 ぎしり。
 心臓の近くで、何かが軋んだ。
「――そっか」
 さっきより上手に作った笑みに、レオナルドも笑い返した。







「もう構わないよ」
 照明が小さなバーカウンター。彼は私を見ずに言った。
「……どういうことかしら」
「彼に近づくのは切り上げていいと言ったんだ」
 頑なにこちらを見ない男の横顔に、射抜くように視線を注ぎ続けた。彼の手元には青いカクテルがあって、中身はあまり減っていない。
「保険が欲しいんじゃなかったの?」
「もう必要なくなったんだ。彼からは離れてもらって構わない。報酬はさっき振り込んでおいたから、確認はよろしく」
 寂れた曲が流れている。私は視線を戻し足をゆっくり組んで、生身の脹脛を晒した。
「来週の月曜日。例の麻薬を扱っている商団を潰す」
 また、彼の横顔を見た。冷たい表情をしていた。
「前にも話した通り、どんなに潰してもきりがないのは、異界人の体内で栽培されているからだ。契約した地域に株を分けるから、その地域に蔓延していることが判明してルートを断つ頃には、原因はまったく別の場所へ逃げ果せてる。ずっと探し回っていたが、その種族特有の幻術がなかなか難解でね。しかし、ようやくそれを打破する糸口が掴めた。栽培してるやつは何人か確認されてるが、幸い巨体の異界人だから数は少ない。全体の質を一定に保つために、それぞれの体内で最も出来のいいものを交換して接ぎ木するらしい。腕の良い医者の手によってね。そいつは今この付近に拠点を構えてる。『手術』が行われるのが来週、日曜日の真夜中だ――一網打尽にできる」
 君の復讐は、これで終わるよ。
 何の温かみもないそれは私から現実を奪う。復讐。姉さんの。姉さんをあんな風にした。
 すべて、終わる。
「……でも、姉さんは治らない」
 彼は無言で懐に長い指を入れると、一枚のメモを取り出した。磨かれたオークのカウンターを滑らせて、私の前に置く。
「以前HLにもいたことのある名医が、ここでカウンセリングや麻薬中毒者の社会復帰支援を行っている。話は既につけておいた」
 飲み込むのに、少し時間を要した。
「…………HLを、出ろって?」
「君には十分貢献してもらった。――してもらい過ぎて、いい加減に僕の駒だとばれるのも時間の問題だ」
 忘れてなんかいない。彼は最初から、冷血な男だった。
「君はとても優秀だったよ。しかしお互いにとってここが潮時だ。君もお姉さんを失いたくはないだろう」
 一瞬、この男が姉を殺すのかと思った。
 私が彼の駒とばれたら、姉が人質にされたり危害を加えられると、そう言いたいのだろう。今更、どの口がそんなことを言うのかと見上げる。彼は相変わらず彫刻のような横顔だけをさらして、静かにカクテルを呷っていた。
 目を閉じる。瞼の裏には、明るい姉の笑顔。この男に寄り添って心底幸せそうだった、私の家族。
「一ついいかしら、ミスタ」
 席から立ち上がる。錆びついたジャズは私たちの周りだけを避けたりしてくれない。
「ルートを潰せるようになったのは、最初に言っていた通り彼のおかげなの?」
 彼は青色を飲み乾した。
「それは君には関係のない話だよ。レディ」
 喉の奥で嗤ってしまった。
「随分ぬるくなったのね、冷血漢」
 スカートの裾を翻す。引き止める声はなかった。











親愛なるレオナルド

次の月曜日明朝、カフェの屋上まで来て

貴方の友人より







 時間にすれば午前四時過ぎ。空は曇ったままだ。
 風にワンピースの裾が煽られる。
 背後で、きい、と扉の蝶番が叫んだ。屋上のむき出しのアスファルトと靴が擦れる音。振り向けば、小柄な影がそこに立っていた。
「……おはよう、レオ」
 微笑む。レオナルドも、少し口元を緩めた。いつも一緒だった音速猿も誰もいない、私と彼の二人きり。
 今日は、髪を巻かなかった。梳ってシンプルなバレッタで一部を留めた。白い膝丈までのワンピースは、初めての給料で買ったものだ。パンプスも飾りが可愛い白で、今流行りのデザイン。項に、抱き合えばわかるくらいにごく少量、香水をつけた。化粧は薄く、唇には最初で最後のピンクのルージュ。
 対してレオナルドは、全身ぼろぼろだった。遠目にも埃が見て取れるほどで、服はところどころほつれている。頬に掠り傷があった。
 出会いを、思い出した。
 手摺に手を置く私と、一人分の間を開けてレオナルドも両腕を手摺に乗せた。彼の癖のある髪が風に揺れて、少し横顔を邪魔する。
「朝早くから、呼び出してごめんね。――大丈夫? 怪我してる」
「いや、全然大丈夫。ごめんこんな恰好で。ちょっと、いざこざに巻き込まれちゃってさ。前みたいに。でも、ほんと何ともないから」
「嘘。目の下、隈も出来てる。寝てないの?」
 レオナルドは苦笑する。ちらりと白い歯を見せて、猫っ毛を掻き回した。
「ちょっと仕事だったんだ。でも大丈夫だよ」
 気安い笑みと共に小さく頷いた彼は、何かを続けようとしてやめた。俯いたまま、沈黙が流れる。お互いに話題を探しながら、けれどこの沈黙を保っていたかった。
「ねえ、レオ」
 均衡を崩したのは私だった。
「私、HLを出るわ」
 顔を上げたレオは私を見ていた。瞳の色は相変わらずわからなくて、それでも彼の視界には私だけで、なんだか泣きそうになった。
「お姉ちゃんが、入院してるの。外へ治しに行くわ。技術ならここに勝る場所なんてないけれど、本人の心の問題だから。――麻薬でね、中毒になってたの」
 レオナルドは一瞬だけ、泣き出しそうな顔をした。私の願望から来た見間違いかもしれないけれど、それでもいい。
 彼はいつから気づいていたのだろう。いつから気づいて、それでも私の友人でいてくれたのだろう。
 いつから彼は、あの男を。
 私は多分人生で初めて、優しい笑みを象ろうとした。
「お別れね、レオ」
 レオは笑い返してはくれなかった。伏せられた睫毛が、少しだけ震える。
「外へ出たら、イタリアに行ってみるわ。スイスにも。写真も撮ってみたい。たくさん、たくさん。――レオみたいに、いろんな国を飛び回りたいの」
 張り上げた声は、彼には響かなかった。
「――…俺のせいかな」
「違うわ」
 彼ならこう言うかもしれないと、なんとなくわかっていたから淀みなく言えた。彼から眼を逸らさずに済んだ。
「レオ、ありがとう」
 気配が強張る。思ったより、苦しくなかった。
「貴方のおかげよ。――ありがとう」
 ずっと伝えたかった。それを形に出来た。それだけでこの身についた枷が一つ、外れた気がした。
 身を乗り出す。驚いた顔をする彼を視界に収めて瞼を下ろす。その頬に一つ、キスをした。
 一秒にも満たない触れ合いを終えて、おもむろに伸ばした手でその頬に触れる。親指で無理矢理、付いたルージュを拭い取った。
 レオナルドは呆然としていた。私はそのことに満足しながら、枯れ木に一枚残った葉のような寂しさを覚える。本当は唇にしたい、なんて死んでも声には出せないから、ただ少し乱れたルージュもそのままに、彼を見つめ返すだけだ。
 ――許してね、レオ。
 そう告げようとした途端ふと彼の頭が近づいて、何かと思ったときには頬に呼気が当たる。そのままそこへ、柔らかなものが触れた。押しつけるより軽く、掠めるより確かな感触を刻んで、離れた。
 レオは私がこれまでに出逢った誰より真っ直ぐに、私と向き合った。不器用な笑顔だった。
「俺に、祈る神様はいないけど。優しい君に、祝福がありますように」
 ――涙が零れなかったのが、奇跡に思えた。
 私は手を伸ばし、彼を抱き締めた。彼の掌が私の背に添えられる。温かな抱擁だった。それだけだった。
「レオ。――ねえ、レオ。私ね。この世には、伝えてはいけない愛と、伝えなければならない愛が在ると思うの」
 幸福なことに、私のこれは後者ではなかった。優しすぎる彼に、何も残さず済んで良かった。
 レオの肩が凍る。柔らかな髪に頬を寄せた。
「ごめんね。見ちゃったの」
「………、そっか」
 諦めと共にその身体から力が抜ける。ただ無防備に、好きにさせてくれる嬉しさと喜びを、初めて知った。
「うん。だから、レオ。選ばなきゃ駄目よ」
 意識しなければわからないくらい微弱に、背に触れる手に力が入る。
「……でも、だったら、俺のは後者だ」
 私は逆にすぐわかるように、首へ回した腕に力を込めた。
「残念ながらね。それを決めるのは本人ではないの。けれど伝えるか伝えないか、それを決めるのは、貴方だわ」
 そっと抱擁を解く。私と彼の隙間が埋まっていた場所へ、ぬるい風が吹き込む。
「だから、後悔しない方を選ぶべきよ」
 時間だった。私が笑えば、彼も応じて笑ってくれる。
 瞳の色が、最後まで見えなかったことに安堵した。見てしまったらきっと、忘れてしまうから。この痛くて愛しい感情が、美化されてただの思い出になるから。
 別れは甘く、優しかった。
「さようなら、レオナルド」
 どうかお元気で、最愛の友よ。











 奇しくも、そこはカフェの裏だった。彼と初めて、出会った場所。
「ご機嫌よう。こんな時間にどうしたのかしら」
 息が切れていて、髪も乱れている。仕立てのいいスーツは埃を被っていて、こんな姿を見たのは初めてだ。いつだって僅かな隙も見せない男で、完璧が作り物の笑みを張り付けた人間だった。
 それが今は強い瞳で私を見ている。睨むとまでいかないのは、彼の意地か矜恃か。どちらだろうと些細な差だ。
「麻薬ルートは壊滅したみたいね。おめでとう、ミスタ・スターフェイズ」
 空の賞賛を送りながら、私はポケットから香水を取り出した。手首に多量に付ける。甘い柑橘の香りが、薄暗い路地に漂った。ここに来る前に付けておいたのと同じものだ。この香水が何なのか、男は覚えていないだろう。気にも留めていないはずだ。
 ――ごめんね、お姉ちゃん。勝手に使って。
「彼なら上にいるわ」
 ひくり、綺麗な眉が引き攣る。私は温厚な顔を崩さず、一歩一歩ゆっくりと、彼に近づく。
 距離がほとんどゼロになって、ワンピースの布地とスーツが擦れても彼は動かなかった。私は手を伸ばして心臓の下、鳩尾の辺りにネクタイの上から手を添える。こんな風に急所を捉えても、彼には一瞬と掛からず私を殺せてしまうのだ。
 恐るるに足りないちっぽけな駒の一つに、こんな笑みを向けられるなんて。思いもしていなかっただろう。
「ねえ、私やっぱり、男って馬鹿だと思うのよ」
 身を乗り出すようにして、彼の心臓の真上に囁く。
「……あいつに何か言ったのか」
 空気を揺らす低い声に殺されそうだ。くらりとした。
 ネクタイと唇が、キスとも言えないくらいに触れ合う。
「さあ? 何かしらね。――ただ」
 ゆっくりと身を離す。彼の冷え切った瞳の奥で、私と同じものが燃えていた。
「嘘は一つも言わなかったわ。――貴方とは違って」
 私はこの男のことを、嫌いではなかった。一時でも、偽りであっても姉を心の底から幸せにしてくれた彼を、私は嫌いではなかったのだ。絶対に信じてはもらえない、一つの真実だった。
 けれど、こればかりは別だ。
 優しくて温かな彼への、小さな恩返しに。そしてこの大事なスカートの裾が綻んだような、淡い失恋の意趣返しに。
「せいぜい苦しんでね、ミスタ」
 私と同じ、愚かな恋のために。
 華やかに笑って、私は歩き出した。













 いつからだろう。
 一段一段階段を上がる。先程まで振り回していた脚は、ひどく重い。
 事が終わってから、埃まみれの彼が慌てて走っていくその後ろ姿が見えた。言いようのない不安を殺しながらザップにそれとなく話を振れば、「女でしょ、オンナ」と拗ねた口調で言われ、氷塊を喉に流し込まれた心地がした。居ても立ってもいられず、走り出していた。
 彼女だ、と、直感した。
 それを指示したのは自分なのに、いつからか胸が軋んでいた。カフェに向かうのだろう彼の背を見るたびに冷えた心臓の奥に火が灯って。無視しても彼を見ればそれだけで、その軋みは大きくスティーブンを苛んできた。
 見えた扉の先に、彼がいる。その事実が身体に鉛を流し込んで、しかし立ち止まれなかった。
 いつからかは知らない。考えても答えは出なかった。ただ、駒だったのだ。さっきまで自分の目の前にいた女と同じように、彼もただの駒だった。それがいつから人間になって男になって、個人になってレオナルド・ウォッチになったのか。スティーブンにはわからない。
 扉を開ける。錆びたそれを押すと、ぬるい風が髪の先を擽る。
 薄い光の中で、影が振り返った。
 呟いた名前は、音にならない。
 影が、小さく笑う。
「おはようございます、スティーブンさん」
 ――彼はどうしていつも、日常の中に立っているのだろう。この混沌の街で。
 スティーブンは歩いて、彼の隣に一人分、空間を開けて立つ。手摺に手を添えると、レオナルドが複雑な顔をした。苦しそうに唇を動かし、手摺を強く握る。
「すいません、いきなり現場放ってきちゃって。えっと、お疲れ様でした」
 気まずそうに俯く。何も返せなかった。
「……スティーブンさん」
「――……ああ、なんだ?」
 レオナルドはええと、と話題を考えるように少し迷って、世間話をするように気安く口を開いた。
「彼女は、どうなるんですか?」
 息を止める。
「……、彼女って?」
 嘘はついていない、なんて、自分に言い訳をした。
「君の言う彼女が俺の知り合いだっていう、確信があるのか?」
 子供みたいだ。自分で言っていて滑稽だったが、スティーブンの口は意思そのままに動く。長年の、便利な癖だった。もう治らない社交術。
 レオナルドは首を竦めて、悪戯っぽく微笑した。
「スティーブンさん、爽やかな香りがしますね。いつもとは、違う香水ですか?」
 茶化したそれに、気づくのにしばし時間が掛かった。自分の香りは自分ではわからない。彼女が自然な仕種で付けていたそれの、四角い瓶の形を思い出す。
「それと」
 レオナルドが腕を持ち上げて、こちらを指さす。心臓の位置。
「ちょっとだけど、光ってます。――ピンクかは、わからないですけど」
 目を落とせば、ネクタイが光の加減できらきらと光った。
 ――あの時か。
 笑う気すら起きない。普段なら絶対にしない、ミスとも言い難い失態だ。無意識のうちに、出し抜かれたという言い訳が欲しかったのだろうか。彼と向き合うための免罪符として。
 スティーブンは大した高さもないそこから、霧に覆われた街並みを見渡した。随分長い間、此処で生きてきた。これからも、此処を出ることはないだろう。彼女のようにはいかない。
「彼女は、無事だよ」
 朝の風が、声の形を散らす。
「これからは外で普通に、ただの女性として、平凡な人生を歩んでいくだろう。家族と共に」
「……そうですか」
 吐息交じりの声は安堵ばかりが込められている。胸の奥の歯車が軋む。
 痛い、と久しぶりに思った。
 助けを求めるように、視線を投げる。彼はこちらを見つめていた。
 まろい頬を、薄明かりが照らす。
「俺は、君に謝らない。間違ったことをしたなんて、思ってない」
 語尾がほんの僅か掠れたのが、伝わってしまっただろうか。レオナルドはおどけて首を傾げるだけだ。
「謝られることなんて、ありましたっけ」
 唇を噛む。
 怒鳴られて、罵られて、軽蔑された方がましだった。
 彼はそういうひとだった。納得出来ないことには歯向かってくるのに、他のことは受け止めてしまう。すべて当たり前のように。
 霧に煙るこの街も、霧に肌を濡らす自分も。
 ――一体、いつから。
「――…レオナルド」
 認めたくなかった。自分には不釣り合いな甘い感情も、稚い黒く燃える嫉妬も、叫び出したくなるような欲求も。
 泣きたくなって歯を食いしばる。レオナルドの頬が震えて、それを視界に収めながらスティーブンは長く息を吐き出した。
 滲みそうな視界に映る、こんなちっぽけな、たった一人が。
「レオ。君が、好きだ」
 ――そのときの彼の、くしゃりと泣きそうに笑ったその表情を。
 一生忘れないだろうと、そう、思った。



「#オメガバース」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -