エメラルドに殉ず(前編)




 彼女は美しかった。
 背に流れる豊かな闇色の髪、青白く光を吸い込む雪花石膏の肌、深い紅を濡らしたような艶めかしい唇。漆黒のドレスに入ったスリットから覗く脚は、完璧なラインを描く白さと謎めいた血の色の刺青で女の目さえ魅了した。
 そして何より凛然と前を見据えるエメラルドは、至上の宝石だった。
 隙間なく密集した長く濃い睫毛に囲まれる翠玉は、遠い地の温かな海と同じ色合いを持ちながら戦場において、火花より苛烈に輝き敵を射抜いた。
 彼女は美しかった。誰よりも。
 あの至高のエメラルドを越えるものには出逢わないと、そう思っていた。







 何処かから讃美歌が聞こえる。
 透明な声は真っ直ぐ空気に伝わって、無差別に許しの手を差し伸べる。少年はそれを軽蔑しようとは思わなかった。ただそんな歌に耳を傾けて、心を委ねている者を見れば胸中で神の無慈悲を論じるだけで、それを指摘して嘲笑ったりしてやろうとも考えなかった。柔らかい夢見心地の旋律が、人の中の残酷さを浮き彫りにしているのだと気付いている者はこの町にどれほどいるのだろう。少年は目を伏せてソファーに身を沈め、古びた羊皮紙のページをめくる。
「スティーヴィー」
 顔を上げる。穏やかに不躾に世界を犯す歌の中で、その声だけが少年の中で真実だった。
 揺れる黒髪、雪より白い肌、花より艶めかしい唇は今は口紅が落されて、静かに嫋やかな弧を描く。
 スティーブン・A・スターフェイズの師は、彼の知る他の誰より美しい。
 世界は彼女だ。
 彼女の持つ二つのマグからエスプレッソの香りが漂う。白く細い指に厚みのあるマグははたから見れば似合わなかったけれど、スティーブンはそのどことない雰囲気の丸みが好きだった。教会のシスターより凪いだ微笑みはいつも、少年にとって崇拝するところにある。
 囁くようにに名を呼ぶ、少し低めの甘い声。彼女は一つマグをテーブルに下ろすとシュガーポットの蓋に長い指を掛けた。マグに差し入れられた銀のスプーンが陶器の縁を半分回る。
 マグの中にはシルクより優しいベージュ。角砂糖三個、暖かな海に呑み込まれる。華奢なスプーンをくるくると動かす指が美しくて見惚れたと言ったら、彼女は笑うだろうか。



 彼女を魔女だと、ひとは言う。
 嗤って凍土に立ち、舞うように戦い、熱など知らない氷で敵を討つ。皆が彼女を魔女だと尊崇し、皆が彼女を魔女だと恐れた。
 スティーブンにとって、それらはすべて意味を成さなかった。夜の幻燈より妖艶に微笑する彼女が、本当は何処にもいない聖母より温かく悲しいひとだと知っているのは、自分だけ。氷河の底より暗く輝く翠が遠い海の色と同じ温度だと、自分以外は、父も母も一族の誰も知らない。それはスティーブンがこれまでの人生で初めて自覚した優越感で、幾度となく経験してきた罪悪感の残骸だった。
 空になったカップを置くと、まだ飲み終わっていない彼女の膝に頭を落とす。触れた膝から、少し驚いたような肌の強張りが伝わる。
 長い爪は甘皮にマニキュアが残っている。それが硝子細工に触れるように短い髪を梳いてくれるのは、ベルベットで頬を撫でられるように心地いい。蟀谷を優しく抑えて、耳の後ろまでなぞる。ひんやりとしたぬくもりはいつも恋しくて、低い熱の甘さはカフェオレと同じくらい、スティーブンにある隙間を埋めてくれる。
 彼女の膝に頭を預けて目を閉じれば、いつだってエメラルドの海が瞼の裏を染めていた。
 スティーブンの師は彼の母であり、姉であり、同胞であり、永遠に届かない恋人であり、すべてを許せる友人であり、たった一つの尊敬の場所を占める師で在った。
 エメラルドの双眸は、死んでも変わらない絶対だった。
 死んだのが自分であっても、師であっても。







 夜は空に敷き詰められて、地球の淵より長く伸びる。
 夢の中はいつだって美しい。起きているときは醜い部分が表に現れるからかもしれない。眠りの中でようやく悲しみが麗らかに目を覚まして、世界を少しずつ侵蝕する。
 スティーブンは凍土に立っている。いつものスーツに身を包み、癖でポケットに手を突っ込んで、意識の限り続く夜空の下を眺めていた。スティーブンが一歩踏み出した先には絶壁がある。底も見えない深い谷が、凍土に横たわって微睡んでいる。この渓谷を越えることは一生出来ない。助走をつければ飛べる距離。けれどスティーブンは動こうと思わなかったし、深淵も変わらずそこにあるだけだった。
 深い亀裂を覗き込めば、そこには遠く置き忘れたエメラルドの欠片が瞬くように、ちかりちかりと光っている。助けを求めるように、ずっと、光っている。



 目を覚ませば目に入るのは二、三年前に買ったサイドボードの目覚まし時計、朝日が薄く差し込むカーテン、皺が寄ったベッドの端。重い身体を起こして首を回す。
 今日も一日が始まる。

 夢を見るのは何時からだっただろう。まだ他人のことも自分のことも何も知らなかった幼少期だと言われればそんな気もするし、たった一人の親友と混沌の中に腰を据えてからと聞かされても納得できる。その程度の軽さで、しかし確実にスティーブンの前に現れるそれは、とりわけ苦しいわけでもなかったしかといって楽しくもない。そこにある、それだけ。ただ目が覚めた時、自分の頭の下に黒いドレスの布地がないこと、すぐ傍のテーブルに甘いカフェオレがないことが、時折寂しく思えるだけ。それだけの夢はスティーブンに実質何の害も与えなかった。スティーブンは何も変わらないまま、今日もライブラの副官として業務をこなす。
「スティーブンさーん、僕らお昼出てきますけど、なんか買ってきましょうか?」
 デスクから頭を上げると、小柄な影と背筋が綺麗に伸びた長身の姿。空いた扉を掠めた影は、銀髪の彼だろう。
「じゃあ頼んだ。サブウェイの――」
「あーっ、待って待って、メモ書いてください、メモ」
「君が取ってくれよ」
「聞き返すよりスティーブンさんが書いたほうが確実だし早いでしょ」
 だったら面倒だからいらない、という風には言えなかったから、レオナルドが差し出してきた不要書類の切れ端か何かに万年筆を滑らせていく。最後の文字で紙の凹凸にペン先が引っ掛かって、小さな染みができた。
「はいこれ。よろしく」
 何枚かのチップと一緒に渡すと、その厚みにレオナルドが顔を顰めた。
「多いですよ」
「手間賃だよ、お使いの。そんなにじゃない、食後にデザートでも付けておいで」
 振り返らず、万年筆の柄で軽く額をこする。
「チェイン、そこにいるか? お前も行っておいで」
 斜め前に紙幣を差し出す。遠慮しようとする二人にメモを渡すついでのように紙幣を一旦押し付けてしまえば、それからは割と素直に頭を下げてきた。
「ごちになりまーす」
「ありがとうございます、いただきます」
「行ってらっしゃい」
 今のうちに書類を、出来るところまで進めておかねば。首を回せば今朝を思い出して、また万年筆の先に黒が広がった。



 足音に頭をもたげると、すぐに扉が開いてレオナルドが足を踏み入れてきた。同じタイミングでスティーブンの肩に掛かっていたブランケットが落ちて、来訪者はぎょっとした顔をする。
「すいません、起こしました?」
「いや、大丈夫」
 拾い上げたブランケットを軽く丸める。ソファーの方に投げればレオナルドの眉が上がった。確かにあまり自分らしくない行為なのかもしれない。彼からすれば。
「どうしたんだ、もうそろそろ生存確率が厳しくなってくるぞ」
「いや、ご飯の材料買っといたんですけど、事務所忘れちゃって」
 レオナルドの首元から同意するように音速猿が頭を出す。ソファーの下に置かれていた紙袋を引っ張り出したレオナルドは、デスクの置時計に少し眉間を険しくした。
「スティーブンさんこそ、ずっといたんですか?」
 言われると記憶が呼び起される。出社して、デスクワーク。レオナルドに昼食を頼み、デスクワーク。買ってきてもらった昼食を食べて、そしてまた。
「まあ、慣れだよ。ていうかソファーの下に隠してるのか」
「家に置いとくといつ家ごと消えるかわからないし、ザップさんに取られたら困るんで、一応ここに避難を」
「成程」
 必要のなくなった書類はゴミ箱へ。これは後で燃やすもの。
「スティーブンさん、ちゃんと家に帰ってます?」
「帰ってるし、仮に帰らなかったとしてもそれでいいんだよ、別に。血界の眷属と戦うときは嫌でも身体を動かすし、他は事務仕事をしてればいい。それでいいんだ」
 彼の口から出る心配だとか非難を回避するための先手だった。しかしそのとき、スティーブンは見てしまった。ほんの一瞬、驚きか呆れか、またはもっと別の感情で薄く押し上げられた瞼の下から、零れる青を。
 次の瞬間にはレオナルドはいつものように目を伏せて、少し不満げな顔をした。
「こんなこと言える立場でも聞いてもらえる立場でもないですけど、休むときはちゃんと休んでくださいよ」
 拗ねた唇から出る響きが、遠い異国の音楽のように耳馴れなく聞こえた。
「……じゃあ」
 スティーブンは立ち上がり、ダストボックスを行儀悪く足でよけてソファーの背に手を置く。
「少年」
「はい?」
「ちょっと、膝貸してくれないか」
 レオナルドは今度は目を開かなかった。代わりに薄く口を開けた。
 ああ、そんな子供っぽい顔するんだね。
 いつも子供っぽいから、知らなかったよ。

 ソファーから脚が余るのはたいして気にならなかった。レオナルドは気に掛かっていたようだけれど、自分には何の問題もない。頬に当たる厚い生地の感触と、その奥にある穏やかな体温。
「思ったより硬いね、太腿」
「当たり前じゃないっすか……」
 レオナルドはずっとそわそわと落ち着かない様子で竦ませた肩を小刻みに揺らしていた。最初は不快だったその振動が、いつの間にか何かのリズムを刻んでいるように感じられてきてスティーブンは身を預けたままだ。
 視界にはソファー前のデスクが目に入る。レオナルドが忘れた紙袋が無造作に置かれていて、袋の開け口が何か油のようなもので汚れていた。その生活感がふと唐突に、スティーブンの思考を明瞭に浮かび上がらせる。
 自分は何をしているのか。よりにもよってこんな年下の男を捕まえて。
 それをきっかけにぼやけていた感性が急速に覚醒し、服の生地に頬を引っ掻かれる心地がした。起きなければ。そう頭は主張するのに、置いていかれた肉体が意思を汲み取ってくれない。
 もどかしい。ひくりと眉を顰めると同時に、側頭部に感触があった。
 乾いた指先。地肌ではなく髪を抑えるように触れて、蟀谷から耳の後ろへゆっくりと動く。触る、という動詞よりふわふわと、頼りなく、慈しむように繰り返される。
 自分からではなく他人から接触されている。その事実に肩甲骨が緊張し肩が上がった。それはレオナルドの太腿へそのまま伝わる。
「あっ、す、すいません!」
 飛び退くように離れた指。その指がたった今まで触れていた部分を、髪の隙間を縫うように冷たい空気が通った。
「あの、妹に! ときどきやってたんで、だから、その癖でですね、えーと、」
 仲の良い兄妹だな、と胸の内だけで呟いて、布の向こう側にある温度を求めるように頬を押し付けた。
「もっと、やってくれ、それ」
「え、え? いや、でも」
「頼む」
 目を閉じれば、恐る恐る近づく気配。先ほどよりも遠慮がちに、少し掌を浮かせて髪を撫でていく手と、緩くたわむ髪の一筋まで鮮明に感じられて、全身の触覚がそこに集まる。
 不思議なリズムはもうなかった。眼球を覆う瞼に、鮮やかな青がちらつく。
「………、なあ」
「何ですか?」
「スティーヴィーって、呼んでくれないか」
 手が止まる。離れはしなかったが、強張ってスティーブンの髪を抑える。
 沈黙は二秒か、五秒以上あったかもしれない。永遠が一瞬のような気がした。
「……す、スティーヴィー、さん?」
「違う、ミスタなんていちいちつけるな。スティーヴィーって、呼び捨ててくれ」
 妙に手足が冷えて、手近な温もりがたまらなく恋しい。さむい、と唇だけで縋った。
「えっと、あの、スティーブンさん?」
「はやく。よんでよ」
 どうして聞いてくれないんだと、苛つきが胃の奥に積もる。手を伸ばして彼の膝の辺りを掴んだ。指先の感覚が遠い。
「……、…スティーヴィー」
 は、と呼吸が楽になる。肺に直線で酸素が入る。懐かしい音の形がしんしんと積もる。
「………もういっかい」
「……スティーヴィー」
 ――ああ、ねえ。
 そこにいたの。
 瞼のキャンバスは、静かな翠に染められた。







 電話を切って書類を探す。今更終わった話を蒸し返してくるなんて、まったく面倒な奴だ。口には出来ないパトロンへの不満を胸中で殺し、舌打ちを耐えて万年筆を握った。
「……少年、悪いけどコーヒー淹れてくれないか」
「あ、ハイっす」
 今日はクラウスの付き添いでギルベルトもいない。普段ならあの執事が何も言わずとも絶妙のタイミングで適当な濃さのコーヒーを出してくれるが、いないものは仕方がない。ソファーでバイトのシフトを確認していた彼の顔は見ずに、声だけ投げた。ただ返事をする前に一拍、間があったのはわかった。
 あの日、二時間ほど仮眠を取ってからレオナルドを自宅まで送った。彼は始終落ち着かない様子でシートベルトを締めるときももたついていたが、スティーブンに何も訊いてこなかった。訊かなかったし、言わなかった。
 今もあの幻のような二時間と少しを無かったことのように振る舞って、給湯室の向こうにいる。
「ブラックでいいですかー?」
 ああ、とそのまま返そうとした声が喉で動きを止める。一度唇を閉じて沈黙を続けていると、焦れたレオナルドが頭だけを給湯室から覗かせた。
「砂糖とミルク入れましょうか?」
「カフェオレがいい」
「は?」
「カフェオレが飲みたいんだ。角砂糖三個」
 レオナルドは特別驚いたような顔はしなかった。少しだけ意外そうに黙り込んで、わかりましたとまた部屋の奥へ引っ込む。
 少しして愛用のマグが差し出されると、中でベージュがゆっくり渦を巻きながら湯気を立ち上らせていた。
「どうぞー」
「ありがとう」
 一口分より少なく口に含めば、久しぶりの味が味蕾を包む。こんな味だったか、古過ぎるささやかな記憶はもう目を覚まさなかった。
「なあ、少年」
「何ですか?」
「今日も夜、残る?」
 今度は彼を見ながら言ったから、顔を上げた彼の表情を捉えられた。戸惑いと驚きと、少しの不信感。わかりやすく見て取れたのはそれくらい。
「……。別に僕じゃなくっても……」
 察しがいいような、悪いような。身動ぎしながら顔を逸らすレオナルドが、スティーブンは何となく面白くなかった。
「君じゃなきゃ駄目だ。多分」
「多分って」
「別におかしなことはしないよ。昨日以上のことは。僕は別にペドフィリアじゃないしね」
「そんな子供じゃないんですけど」
 怒ったかな。誰かの顔色を窺うというのは、仕事を抜きにすれば久しぶりにやった。それこそ恐らく、少年だった頃以来だ。
「懐かしいだけなんだよ、ただ」
 彼のような相手に効く交渉術は誠実さだ。こういうのを嗅ぎ分ける感覚は社会で身につけたわけではなく、生まれついてのものだと思っている。
 案の定レオナルドは拒絶の手立てを絶たれて挙動不審になった。ばかだなあ、とその愚かさが慕わしく、呪わしく見えた。



「可愛い女の子とか、綺麗なお姉さんの方がいいと思うんですけど」
「だから、君じゃなきゃ意味ないって。しつこいなあ」
 手を伸ばせば、陰になった顔が情けなく緊張したのがわかる。重い腕を半端に上げて、爪の先で下された瞼をなぞった。
 瞳を見せてくれ、と言ったら悲しませるのだろうか。
「ほら、名前呼んでよ」
 腕をソファーの縁に投げ出して急かす。酔ったときのように頭が重かった。
「……スティーヴィー」
「うん、もっと」
「スティーヴィー」
 固い掌が髪を撫でる。鼓動よりずっと遅く、呼吸より少し早く。
 目を閉じる。神々しい燐光が暗闇の邪魔をした。
 見たいなと思った。
 許せないあの青を。







 スティーブンは走っていた。背後に迫っているであろう敵の手から逃れるために、ただただ足を動かす。既に家主たちが逃げた民家の間、瓦礫を蹴散らすようにして、とにかく走る。
 なのに。
 角を曲がった瞬間、目の前に広がる赤い羽根。白く尖ったエナメル質。絶望は異形の姿をして、ぎりぎりの精神で逃げ続けていたスティーブンを嘲笑うようにその身をさらした。
 赤い咥内が見える。牙が迫る。動けない。
 動けない――のに。スティーブンは、瓦礫の上に身体を打ち付けていた。
 身を起こす。乱れた前髪の隙間から、師の背中が見えた。彼女が誰かと寄り添っていた。
 声を出すことが出来なかった。二の腕に残っている感覚に、自分が突き飛ばされたのだということだけ理解する。
 彼女が振り向いた。男に――血界の眷属に、抱き締められながら。
 今度こそ、スティーブンは動けなくなった。
 彼が何より愛したエメラルド。この世に二つしかない至高の宝石。
 その翠が、じわり、じわりと、だが確実に鮮烈な赤に、染め上げられていた。
 眼球を少し動かす。血界の眷属は、女の白い首筋に顔を埋めて、牙を立てて、いた。
 彼女の黒いドレスの光沢は赤黒く鈍って、しなやかな白い手足も土埃に塗れ、暗い赤がこびりついている。乱れた黒髪が一房、肩から滑り落ちた。
 艶めく唇が、ルージュ以外の赤で汚れていた。
 男の腕を掴んでいた手が、その背中に回る。逃がすまいと、折れた爪を突き立ててしがみつくように。
 その間にも、赤は蠢くようにエメラルドを侵していく。
 いつも優しくスティーブンを呼ぶ唇が、震えた。
「………スティー、ヴィー………」
 掠れた声に全身が震えた。
 違う。だって、こんな、彼女は、こんな――。
 ぱきん、と悲鳴に似た音が満ちる。
 師と、眷属の脚が、一緒くたに氷に覆われていく。氷は徐々に音を大きくしながら、二人の身体を駆け上った。眷属が逃れようと暴れ出す。彼女は更に強く化け物を抱き締めた。血濡れた首筋から、ぶしゅりとまた鮮血が溢れ出す。それでも彼女は拘束を緩めなかった。二人の皮膚を這う氷は彼女諸共、眷属の自由を確実に奪う。
 スティーブンは何も言えなかった。ただ、見ていた。
 師の最後を見ていた。
 師もまた、たった一人の弟子を見つめていた。
 唇が薄く持ち上がる。彼女は戦場で笑うひとだった。艶麗に、凄絶に。普段の彼女の慈愛に満ちた微笑は、そのとき何処にもなくなる。いつもそう。
 なのに、このときの彼女の微笑みに、そんな迫力は欠片もなかった。
 ただ彼女は、遺していくまだ幼い弟子のために、笑っていた。
「スティーヴィー、―――、―――。―――――――」
 唇が動く。いくつかの単語。確かに、言った。
 その瞳が染まりきるのと、彼女と眷属が氷に包まれるのは同時だった。
 戦場に在る抱き合う男女の氷像。
 それは美しかった。どうしよもなく。悪寒がひどい。身体ががくがくと震えて、目の奥が焼けるように熱い。息が出来ない。
 ばたばたと大勢の足音。氷像を見て誰かが息を飲む音だけが、冷たい戦場でスティーブンの耳に聞こえていた。
 援軍。その文字に縋り付きたかった。
 ねえ、僕の、僕のあのひとが。
 ――僕のせいで。
 関節を失ってしまったように動かない首を回す。それと同時に二の腕を掴まれ、ぐいと彼女から引き離された。彼女が突き飛ばした箇所だった。嫌だ、離せ、そう叫んだはずなのに、なにも聞こえない。
 彼らの判断は早かった。
 スティーブンが、身につけたその技術を行使する間もなかった。
 氷の二人を囲むように、一斉に構えられるガトリングガンやショットガン。十字架の装飾が死の象徴に見えた。
 銃口の先には、彼の。
 待って、ねえ、何を、待って、待って。
 氷に、黒光りする重火器と、武装した男たちと、呆然としている少年が映っていた。
 少年と目が合った。自分の瞳だった。
 瞬間、轟音が響く。ばちばちと目の前を散った火花は、本物か錯覚かわからない。閃光が瞳を焦がし、硝煙が肺に侵入する。身体が震える。目の前が白く光って、鼓膜が弾ける。
 絶叫が聞こえた気がした。







 何一つ残らなかった。何一つ。
 彼女が強かったからだ。彼女がいたから斃せた。最大の好機だった。たった一人の牙狩りの命と引き換えに――どころか、転化してしまった者と血界の眷属を、同時に葬れる。
 利益の方が大きかった。どう見ても。
 けれど、残らなかった。
 宵闇の髪、白い手足、光沢のあるドレスの布、全て欠片も残らず粉々に砕かれた。
 そしてあのエメラルドは、永遠に失われた。





 髪を梳く指は爪が短い。皮膚が固くて、奥にじわりと熱がある。
 瞼を下ろす。凍土の夢を見るだろうなと思った。あの終わりなき虚無をまた覗き込むだろう。そして起きたら、今度は本部へ提出する書類を書く。
 さむい。背骨を薄い冷気が舐め上げる。あそこは、さむい。
 スティーヴィー。
 名前が聞こえた。自分の名前だ。
 もう懐かしい名前ではない。つい最近呼ばれた、自分が呼ばせたから。
 渓谷を見下ろせば、奥底でときどき呻くようにちかちかと光る翠。
 髪に、何かが一定のリズムで触れる。子守唄の速度で。そして名を呼ばれる。
 口を薄く開けば、白い吐息がはらはらと落ちた。
 今夜も、凍土に、一人。



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