propose/jade
チェイン・皇がそのことに気づいたのは偶然である。
彼女は職場の人間とあまり深く関わることはないが、興味がないという訳ではない。観察に徹していた視線は、随分とこの街に慣れてきたライブラの新人に留まった。
彼の首から銀の鎖が下がっていて、そこに通った小さなリングが、彼が動くたびその胸で踊る。
簡素な輪が揺れるたび、そこについた淡い緑の石がチェインの視界から隠れたり現れたりを繰り返した。
こんな男でも貴金属を身につけるのかと意外さばかりが際立つ。彼に限らずライブラにいる男は皆余計な装飾品を着けるイメージがないが、特にツェッドは最低限の持ち物もシンプルだ。
心境の変化かもしれなければ、誰かからのプレゼントという可能性もある。どちらにしろ自分には関係のないことだと、チェインは自身を空気へ融かした。
後日、チェインが事務所に音も無く存在を現したとき、レオナルドがソニックとじゃれていた。一人と一匹はまだ自分の存在に気付いてはいない。眺めていればやがて素早くだぼついた服を掠めるように動いていたソニックは、そこが自分の居場所であるかのようにレオナルドの緩い首元へ飛び込んだ。男にしては小さい肩がぴんっと跳ねる。
「ちょっ、ソニック、擽った……あ、待っ、いだだだだ」
喧騒の街の中、めずらしく微笑ましい空気を傍らに感じていたチェインは微かな驚きにレオナルドを見遣る。音速猿が、彼の襟の中でじたばたと暴れていた。
「ソニック、引っ掛かってる、引っ掛かってるから! 首締まる!」
飛び出そうとするソニックの大きな耳に、銀の鎖が掛かっていた。金属の連なりはレオナルドの首を一周していて、彼は喉を手で守りながらソニックを捕まえる。
そのときぴんと張った鎖が傾いて、するりとそこに通されたリングがソニックの耳へ滑り落ちていくのが見えた。
小さな輪には、確かに見覚えのある緑が光っていた。
ソニックの耳から鎖の絡まりを解いて、ほっと息をついたレオナルドは緑の煌めきを優しく、真綿に触れるように手で包んで衣服の下へと戻す。
――ああ、なるほど。
チェインは一つ頷いた。いつもと変わらない、昼下がりのことだった。
夜、水底は深みを増し、揺蕩う光の粒がツェッドを取り巻いた。その眼には、ガラス越しの彼が淡い輝きを振り撒いているように映る。水槽を挟んで笑う彼は、抱えた膝にまろい輪郭を預けた。
「ツェッドさん、光ってるみたいです」
緩む口元をむず痒く感じて、ツェッドは水中で身動ぎした。
「……僕にはレオ君の方が光って見えます」
「そうですか? 俺から見たら、泡が光ってツェッドさんに纏わりついてるみたいです。きらきらしてる」
綺麗だ、という声が届かなかった代わり、唇の動きは甘く水槽の水を震わせていくようだ。伝播したぬくもりが、ツェッドの冷えた肌に届く。
「レオ君は……」
どんな風にこの眼に彼が見えているか、口に出そうとしてツェッドは口を開いたまま押し黙る。頭の中にあるどの語彙を駆使しても、うまく表現出来ない確信が密やかに喉に根を張っていた。
「――…レオ君、ちょっと水槽の縁まで来てもらえませんか」
人類にはない尖った爪が水面を指す。レオナルドもつられて高い天井を見上げた。
縁までやってきてくれたレオナルドに、ツェッドはするりと穏やかな波を連れて近づいた。首を傾げる彼の左手を取ると、ひんやりとした指先に首を小さく竦ませるレオナルドを可愛いなんて思ってしまって、ツェッドの首も同じように縮こまる。
「……ツェッドさん?」
濡れた手、その中心の薄い窪み。そこに小さな輪を落とし、指を一本一本柔らかく折り曲げて握らせる。ぽかんとこちらを見つめるレオナルドの長い睫毛が、時間を掛けて震えた。
「これ……」
「貰ってくれますか」
緩い拳を水槽に浸し、上に向けてゆっくり開く。ゆらゆらと不規則に入り込む光が指輪の石に纏わりついた。
「ジェードです。東国ではこの石、緑色の鳥と同じ名前なんだそうですよ」
あのひとから教わった。
レオナルドは、日に透かす代わり水面から掌を引き上げた。漣にも満たない動きで、水がツェッドの胸元に当たる。
「……僕は、生憎こんな手なので嵌められませんが。でも同じものを持ってます。レオ君も持っててくれませんか」
ポケットから出されたチェーンはベルトに繋がっていて、浮力を負かし揺らがず落ちる。そこに通った小さなリングは、屈折で歪な楕円に見えた。ただ、遠い星のような緑が薄暗い水の中瞬いている。
チェーンから離れた手がレオの手を指輪ごと包んだ。濡れてぴたりと張りつく冷たい体温との間に、確かにある硬く冷たい感触。飴をのばしたような水掻きが、絡めたい指を拒むから。ツェッドはいつも壊れ物のように、レオナルドの手をくるむ。
「君に持っていてほしいんです。つけなくていいから」
レオナルドの手に触れる部分だけ、指輪は泡沫の熱を溜めた。
町を歩けば隣の小柄な影の方が異質だ。彼はあまりにも巫山戯た神々の勝手に巻き込まれて一時的にこんな、混沌を秩序とした街に突き落とされただけで、此処にいるべきひとではない。
ツェッドは己の幸運を知っている。師が自身をこんな場所へ置いていったのは、きっと別れの餞だったのだ。世界は地獄と言ったあのひとからの餞別。此処にいる。それだけで、ツェッドにとってきっと幸運だった。
なら、彼にとってはどうだろう。
ツェッドと彼は違う。だからツェッドにとっての幸運は、彼にとって。
そんなことを考えるたび首を横に振る。事実から逃げる自分は浅ましい。情けない。けれど受け容れ難いことは確かにある。
ツェッドの手に彼が触れるたび、熱の無い肌は淡く緩む。そのぬくもりが消えてももう一度、もう一度。その繰り返し。まだこの手に残る体温が、永遠に重ならなくなるのは、一体いつだろう。
そのいずれ訪れる時の名前を別れというのだと、彼に逢って、初めて知った。
ツェッドは他人を必要としない。彼は単体で完結した個体だ。他の種族のように誰かと交わることを必要としない唯一の種だ。
ただ。それでも。
指輪はツェッドの勝手な誓いだ。いずれ訪れるそのときまで、彼の隣にいるという誓い。だから自分の指が彼と同じ形をしていたとしても、きっと最初から嵌めたりはしなかった。
見たこともない鳥の色だという石。彼に持っていてほしかった。いずれ自分の傍から、鳥籠から飛び立つように消えていく彼に。飛んでいかないでなんて言いたくなくて、わざとその未来を祝福出来るようにと祈りを込めた。
所詮ツェッドの押し付けだ。羽ばたいていく彼を自分は引き留められないから、せめて共にいたという今を夢にしないための印で、永遠に届かない空への憧れの象徴。水槽からはどうしたって離れられない自分への戒め。
だから嵌めてくれなくてよかったのだ。彼の指を通るものは、最後の瞬間まで彼が寄り添えるひとと同じものでいい。
彼があの指輪を手放すときを、自分が一生気づかなければいい。
水槽越しの会話はいつも楽しく寂しい。こんなにも近くにいて、触れそうなくらい想いは傍にあるのに、永遠に崩せない壁が目の前に広がっている。
レオナルドはいろいろなことを話す。今日の出来事から始まり、周りの人々の話に移り、最後は必ず故郷と彼の最愛の妹の話に落ち着く。それがツェッドには嬉しく悲しい。壁がまた出来上がる。
ここは鳥籠だ。だから中にいる青い眼をした鳥には自由に羽ばたいてほしい。それと同じくらい、籠の中の鳥を見つめていたい。水槽の中の魚は、皆届かない空に焦がれるものなのだろうか。
今日も彼は彼の妹のことを話す。前は彼女の頑なさを思い知って、今度は彼女がいかに寂しがり屋かが語られる。ツェッドの心臓はゆっくり真綿で圧迫されるように痛んだ。相槌に開いた口から入り込む水が、喉に引っ掛かる熱を流していく。
話の最後はいつも通り、照れたような世界で一番幸せそうな苦笑で締められる。それを微笑んで受け止めるツェッドを、レオナルドもまた静かに笑って見つめていた。
「そっちに行ってもいいですか?」
立ち上がったレオナルドが脇の階段に足を掛ける。ツェッドは首を傾げ、いいですよ、と自分も水面を目指す。
「ツェッドさん、ちょっと指輪貸してもらえませんか」
どきりとした。脳裏に現れた嫌な想像に胸が引き攣る。これは駄目だ。相手を信頼していない証拠だと自身を糾弾しながら、打ち消すように慌ててチェーンから指輪を外そうとする。指がどうも強張って時間が掛かった。
「……――どうぞ」
「どうも」
彼の掌に雫が二滴落ちた。そのまま隠すように背を丸めて何か作業をするレオナルドに落ち着きのなさを悟られないよう、ツェッドはじっと水の中を動かずにいた。
あの小さな金属を渡してしまった瞬間から、身体の中にある大事な臓器に穴が開いたような気がする。
すっとレオナルドが顔を上げた。言われるであろう台詞を待って見上げるツェッドの視界に、影が掛かる。
「――え」
どぼん、と何処か遠くで、くぐもった音が聞こえた。
気泡が天井を目指してツェッドの前を通り過ぎる。大小無数の泡が眩しい青に染まり、歪んだ球体が踊る。
薄く開いた彼の唇から、こぽりと泡が立ち上った。
染められる水槽の中。海藻のように揺らめく髪。青い睫毛に気泡が絡む。
ツェッドの頬を手が滑って、少し遅れて華奢な青い鎖が目の前を落ちていく。
――今、きっと、世界に二人きり。
彼の瞼が下りて、そんな幸福の時間は終わりを告げた。
ぷはっ、と水面から顔を出したレオナルドが酸素を求め大きく口を開く。ツェッドもその隣に顔を出し、彼が息を整うのを待った。
胸元に目を落とす。首に掛けられた鎖は、青ではなくくすみのない銀色だった。彼の瞳に照らされたときは、見たこともない人魚の鱗を思わせる艶やかな青をしていたのに。その色でなかったことが、少しだけ惜しい。
レオナルドが浮力を保とうと水中で手を動かすと、波に鎖が煽られ通された指輪が一瞬、水面に顔を出す。
新たに指輪の通された鎖は今までベルトに付けていたものより細く、装飾的な意味合いが強く見えた。
「パトリックさんの知り合いに頼んだやつなんで、かなり丈夫ですよ」
指輪から目を離すと、レオナルドが楽しそうに笑っている。癖のある髪が額や頬にはりついて、いつもとかなり印象が変わっていた。
「レオ君、これは……」
「お揃いです」
レオナルドが得意気に服の首元から鎖を引っ張り出す。斜めに引き上げられた鎖を、一つの指輪が滑り落ちた。
彼が、あの指輪を身につけている。それを目で見て、叫び出したいようなこの水槽の水深より深く潜りたいような、不可解な衝動に駆られた。
「……いいんですか?」
レオナルドが首を傾げる。髪の先から滴る雫が、幾つも小さな波紋を作る。
「何がです」
「一緒で、いいんですか?」
それは罪深いことのように思えた。
ツェッドはその手に指輪を包む。冷えきった金属は掌に馴染もうとするように、体温を求めてくる。
レオナルドはきょとんとしていた。
「ツェッドさんがくれたのに?」
「それは……」
ずい、とレオナルドがツェッドの目の前に迫る。
「俺、嬉しかったんですよ」
うれしかった。その言葉の意味を理解し損ねて、ツェッドは戸惑ったままレオナルドを見返す。
「……レオ君」
一対の指輪は、ツェッドのエゴイズムなのだ。正直に言えば、喜ばせようと思ったわけでもなく喜んでもらえるとも思っていなかった。
それにもしこのエゴが、彼を一時的にでも楽しませたとしても。
「でも、いつか僕は、君の手を」
放さなければならなくなる。
レオナルドは少し驚いた風に眉を上げて、それから唇をまごつかせる。
「……ツェッドさんは、いつか俺から離れようって思ってますか」
今度はツェッドが呆然とする番だった。
そんなわけがない。だって離れるのは。
離れるのは。
「レオ君、は」
その先はもう口に出来なかった。
黙り込むツェッドの手に、レオナルドの指が触れる。指輪を握った拳が包み込まれた。
「いつか」
その言葉はツェッドにとって怖いものだ。いつからそうなったかと言われれば。
「いつか、俺が貴方と別れなきゃいけなくなったら」
そうだ。
その時が、ツェッドはたまらなく恐ろしい。
「そのときは、この指輪、捨ててくださいね。俺は持っていきますから」
レオナルドの顔を見る。瞼は伏せられて、表情は穏やかだ。ツェッドは信じられない現実に愕然と固まる。この瞬間、目の前にいる彼以外に残酷なひとを、ツェッドは他に一人しか知らない。
かつて自分を創ったひとも、そうだった。形あるものはこの身体以外、何一つ残してくれなかった。
「何で……」
「だって、貴方を縛ってしまうくらいなら」
ひとりで思い出にしてしまった方がいい。
ツェッドはレオナルドを責めようとして、出来なかった。
ずるいと、思う。
彼も、自分も。
彼とは違う種族だから、幸福の中ずっと迷っていた。それが彼も同じだと、気づかなかったのは自分だけだ。
やはり、人間はすごいと、月並みな真実を思った。
「レオ君」
ゆらめく衣服を押し潰すように抱き締める。柔らかな体温の中にあるしっかりした骨格は、彼という生命そのものだった。
「いつか、離れなければならなくなっても。僕は、この誓いを手放せないから」
あれがエゴだなんて笑ってしまう。あんなただの自分への憐れみよりも今抱いている願望の方が余程勝手で、彼への想いの証だった。
「君も、持っていってください。忘れないで」
はなさない、なんて言えるほど子供にはなりきれなくて、それはたまらない絶望だったけれど。
でも彼がそうしてくれるなら、その絶望を胸に、地獄を歩いていける。
レオナルドの腕がツェッドの背に回る。布を隔てたぬくもりに、愛しいという感情を知った。
「受け取ったときから、そのつもりですもん」
笑う彼の肩に額を預ける。身体の芯に灯る熱を、教えてくれたのは彼だ。
君のために悩んで、迷って、打ちひしがれて、絶望を手にした。
この想いを恋と呼ぶ、人類はなんて凄絶で強かなんだろう。
ねえ、君に、恋をしています。