propose/sapphire




遠目に見えた夜の海は、霧を纏って星も月も映していなかったけれど代わりにネオンを吸い取って煌めいている。更にそれを霧が取り込んで散っていくから、あそこが別の世界への境目のような気がした。どうせあながち間違いではない。

磨かれた窓に手をつくのが憚られて中途半端に上げた腕をさ迷わせながら振り向くと、スティーブンは唇の端を小さく歪めてああ、と微笑んだ。その気のない様子がレオナルドの高揚から少しだけ熱を奪って、振り返りかけの半身のまま話題を探す。

久しぶりの休みだからデートしよう。そんならしいこと今まで一度だってしたことがない癖にそう告げられたとき、確かに喜んだ。同時に、レオナルドの冷静な部分はこういうときこそ緊急要請が掛かるのではと経験則からの予想を心の隅に打ち立てていた。だから「遠出はやめた方がいいんじゃないですか?」なんて素直でない台詞が滑り出たときには激しい自己嫌悪に陥ったが、それほど遠い場所ではないと微笑んだまま返されたときはほっとした。

お互いにはっきりした要望を持っていなかったから、大したプランも立てずスティーブンの車に乗って目についたところに入るという行き当たりばったりではあったが充分だった。二人とも一緒にいれたらそれでいいのだと、互いにわかっていたから気恥ずかしくてわざわざ口には出さないまま時間が過ぎた。

数少ない計画のうちにあったレストランで空腹を満たして、同じくスティーブンが取っていたホテルの一室に入るとレオナルドは真っ先に夜景にはしゃいだ。

感嘆は心の底から出たものが半分と、間を持たせたいのがもう半分。

朝からどこか、スティーブンの様子がおかしい気はしていた。ライブラが気になるなら戻るかと二回ほど訊いて、そのたび否定され謝られる。レストランに行ったあたりからより気もそぞろなようで、ワインも頼まなかった。レオナルド自身は値段の予想もつかないような場所でアルコールを摂る気にはなれなかったが、血よりも深くて品のある赤にスティーブンが口をつける様が実は結構好きで、密かに残念と思った感情は魚のマリネと共に咀嚼して呑み込んだ。

「……やっぱり、泊まらずに帰りますか?」

手持ち無沙汰に上がったままの腕を下ろした本日三回目の問いに、スティーブンはいや、と何度か首を横に振る。弱い口での否定を強めるような仕種に見えた。

息をついてベッドの端に腰を下ろしたスティーブンの骨ばった手が、隣のスペースをぽんぽんと何度か叩く。レオナルドは小走りで、しかしシーツに皺が寄るのを恐れるようにそっと腰を落ち着けた。

シーツを叩いていた手が、すぐ近くに来たレオナルドの右手に重なる。それからスティーブンはしばらく俯いていた。

少しのぞく旋毛をぼんやり見つめていたレオナルドは、ゆっくり左手をスティーブンの手に重ねる。少し低い体温に、自分の熱が溶け込めばいいと思いながら。

スティーブンの肩が小さく揺らぐ。レオナルドはそれでも黙ってスティーブンの手を温めていた。

「――……レオナルド」

「はい」

ここにいる、と告げる代わり、骨の浮いた手の甲を撫でる。

スティーブンがゆっくり顔を上げた。思い詰めたような、泣きそうなような困ったような顔で、じっと柔らかな熱を持つ恋人を見つめる。

空いた右手が上着のポケットに伸びて、そこで初めてレオナルドはジャケット脱ぎませんか、と声を掛けようとした。

しかし思ったことは音の形を取らなくて、じっと恋人に向いていた視線がポケットから出てきた小さな箱に移ったまま固まる。

スティーブンは片手で器用に、ベルベットの生地に覆われた蓋を長い指だけで開けた。中に入っていたのは予想を裏切らず指輪で、レオナルドは台に埋まった青い鉱物をぼんやり見つめていた。あれは何だ。指輪だ。指輪? そうか。自分にはあまりに縁遠いもので、確然としない頭の中本気でどうして指輪なんて出したんだろう、と素で思った。

「レオナルド、俺と、結婚してくれ」

だから恋人の色素が薄い瞳に映る青が、指輪の煌めきではなく自分の眼の色だと理解するのにも数秒かかった。







スティーブン・A・スターフェイズは、自身が結婚やそれに準ずるものに不向きであると自覚している。

恋も愛も素晴らしいと人並みには思っている。しかし手を伸ばすという意思が芽生えるより先に、自分が持つべきではないと理性と打算が姿を現す。懐に入れた者の立場がどうなるか、どのような危険に晒されるかもスティーブンはよくわかっていた。

スティーブンは無二の親友のようにすべてを護ろうとするより、最初から必要なもの、愛するものは最小限に絞ろうと考える。譲れないもの以外は仕方ないと切り捨て、なるべく隙を消して自身のテリトリーに入った最低限のものを確実に護ろうとする。

そのやり方を間違っていると思ったことはないしこれからも違える気はない。だからこそ自分は結婚だとか、そういった縛りには向いていないと思っていた。そして今でも、そう思っている。



「レオナルド、俺と、結婚してくれ」

小さな恋人は鮮烈に輝く義眼を晒して、自分を見ていた。

スティーブンは合わせた視線がぶれそうになる自分を叱咤する。一回り小さな手を握ると無意識でもそれ以上の力で握り返してくれる指が、たまらなく愛しいと思った。

仕種一つに胸の奥が柔く痺れるような恋を、自分はこれから彼以外とすることができるだろうか。

かつてそう考えたとき、スティーブンの内を占めたのは確かに絶望だった。

「………レオナルド」

的確にこの心を形にする言葉が、この世にあると思えない。

「レオナルド、俺は、君を幸せにできないかもしれない」

プロポーズの台詞はいくらでも考えた。デートの前も、その最中にも。けれどどんな音の羅列もいざ舌の上に乗せようとするとしっくり来なくて、結果氾濫する感情に任せてこんなことを口にしている。最低の告白だ。

「君を傷つけるって確信すらある。必要に迫られたらきっと君のことを切り捨てる。たくさん悲しませる、それもきっと毎回違う理由で。一番に君を大事に出来ない」

密やかな懺悔だった。神は信じていない癖に、許してほしいなんて思ったこともない癖に、目の前の少年はそういう覚悟も諦めも、すべて剥がしていってしまうから。

「それでも、レオナルド」

こんな格好悪いプロポーズをするなんて、未だに自分が信じられない。あるいはそれが本当の自分なのかもしれなかった。だから唇は勝手に真実を語り出す。

「それでも傍にいてほしい。怒っていいから、軽蔑していいから離れないで、どうか許して俺を抱きしめてほしい。いつか君を諦めなきゃいけないときが来ても、ぎりぎりまで君のために戦って、すべてが終わったらすぐにでも君の元へゆくから、だからどうか、俺の腕の中にいてくれ。何処かへ行ってしまわないでくれ」

渇いた喉が罅割れそうだ。何処もかしこも熱いのに、指先だけが熱を失う。

恋人という括りに安心があった。いざとなれば何も残さず手放せる関係だと認識していたから。けれどスティーブンの絶望は、現実をまざまざと見せつけた。

「誰より君を愛すると誓うから、俺が捧げられる愛のすべては君に捧ぐから、だから」

熱の奔流が少しずつ勢いを失って、強張っていた身体から力が消えていく。

どうしようもなくなって、その肩に額を預けた。

手放すなんて出来ない。だって、こんなにも。


「だから、俺を、――愛してくれ」

愛しているんだ。


レオ、レオナルド。

君じゃなきゃ駄目なのに、君ばかりを傷つける。

それでも。

「レオ、すまない……すまない、レオ、ごめん」

離してやれなくて、ごめん。

この絶望が、俺のすべてだったんだ。







レオナルド・ウォッチは、自分が幸せに浸りきってはいけないと考える。

幸せになってはならないとは、思ってはいけないとふとした瞬間自分に言い聞かせている。ともすればそういう思考に流されかけても踏み留まろうとする。そんなことを自分に課せば愛しいレオナルドのプリンセスが怒って、そして悲しむに決まっているからだ。

優しく強いお姫様はそんなことを望んでいない。兄はそれを正しくわかっているから、自己犠牲なんてものは広い視界の隅に押しやった。怒られるならまだしも、泣かれるのは御免だ。

だがただ幸せなままでいいとは、どうしても思えなかった。

お姫様が胸を痛めても、そのことだけは聞けなかった。



指輪の石は透き通る深い青で、白い照明を受け取り折り曲げて空中に逃がす。きらきらと震える呆気ない万華鏡が夢のようで、ただぼんやりと見惚れていた。

もし自分が女性だったなら、あの箱が出てきた時点でこの展開を予測出来ただろう。けれど自分と、ついでに彼ともそれはひどくかけ離れたものだった。ただの装飾品というだけでないから、尚更。

きっと最初で最後のプロポーズだと、頭の奥へ驚愕によって吹っ飛ばされた理性が告げる。なのに彼の告白は、とても結婚の申し込みには聞こえなかった。

肩に乗った額の熱が、じんわりとドレスコードのシャツを透過する。柔らかい髪が首筋を撫でた。

普段触れ合うときより強く感じる熱さに、無性に目の奥が鈍く痛む気がした。

「………ばかだなぁ」

喉の奥に絡まる音をほどくのに、随分時間が掛かった。

「何で、謝るんすか。ばかだなぁ」

小さな恋だった。実るなんて思っていない淡さで、付き合ってからも確かに愛し合いながら何処かで諦め続けた恋だった。

「俺、あんたが思ってるようなやつじゃないのに。自分の幸せも決めらんないようなやつなのに」

義眼なんてあっても何もわからない。手探りばかりで、覚束ない爪の先で貴方を傷つける。

「でも、ごめんなさい。許してください」

神さまは信じていないから、自分の愛する人達に祈った。

「ごめんなさい。傍に、いさせてください」

ちゃんと戦うから。弱くても、立ち止まっても、前に進むと誓うから、この想いを足枷にはしないから、どうか許して。

たったこれだけ、手放せない恋なんだ。

スティーブンの手が両手の間からするりと抜ける。そのまま背に回った腕が、恐がっている癖に逃がさない強さでレオナルドの身体を引き寄せた。

「スティーブンさん」

「ああ」

「――愛してます」

「………、ああ」

結局僕らには、それしか残っていないんだ。

スティーブンの腕が音もなく解かれ、前髪が重なるほどの距離を取る。節の目立つ食指と親指が箱の中の小さな輪を摘まんで、箱を手放した指がレオナルドの手を救い上げた。

左手の薬指に吐息を掠めるようなキスをして、プラチナの輪を通してゆく。透明な青にレオナルドの瞳の色が混ざって深みを増し、その中で燻るような薄い赤が燃え尽きる星屑のように散る。

付け根の手前で、ここが居場所だというように止まる。その瞬間までの動作すべてが、誰にも汚せない神聖な誓いだった。

「迷ったんだ」

乾いた指先が、リングと肌の境目をなぞる。

「サファイアは君は嫌がるかもしれないと思った。もしかしたら悲しませるかもって。でも、結局これ以外は選べなかった」

レオナルドの手が自分より理知的な長い指を捕まえて、そのまま左手の薬指、まだ何も嵌まっていない場所に彼と同じように口づけた。

「おんなじ石、嵌めてください。ここに」

それなら、何も怖くない。

貴方がくれたものを嫌がる訳がないという台詞はすべてキスの吐息に変えて、それだけ告げた。

「――…レオナルド」

絡めた指を引いて、どちらかからともなく笑い合って、世界のすべてから隠れるように一秒、触れるだけのキスをした。

そうして抱きしめ合うだけで涙が零れそうになるひとには、きっともう出逢えない。

絶望的な人生だと思うと同時に、離れなければいいとレオナルドは嘆く自分を打ち消した。

プロポーズで謝り倒すなんてお互い馬鹿だとか、自分が死んだって貴方は生きてほしいだとか、言いたいことはこの恋に迷った数だけあるけれど、今は傍にある命だけをすべてにしていたかった。

どうせ離れられないのだから、そのときに伝えればいい。レオナルドは寄り添ったまま、気づかれないようにジャケットの生地にキスをした。何処でもいいからこっそりと口づけたくて。

確かに絶望かもしれないけれど、それは確かに譲れない愛の証だったから。

だからいつか胸を張って幸せになれる日まで、待っていて。貴方にその日が来なくても、必ず迎えに行くから。

言い訳でもいい。それまで傍にいることに、許しが欲しいんだ。

いつかその日が来たら、悲しみも苦しみも捨てて、只の愛だけで隣に並ぶから。


この指にある誓いは、そういう未来への約束でしょう?



夜の帳は静かに降りて、恋人たちを世界から覆い隠した。



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