一人と一匹、孤城にて
(捨てられた犬獣人みっちが社長たいじゅくんに拾われる寿武)
(※みっちが犬の獣人(犬耳、尻尾生えただけ))
(※みっちが前の主人に虐待を受けていた描写あります)
ずぶ濡れだった。その日は雨が降っていたから。
雨の中ぐっしょりと濡れそぼってベンチに座る武道の前に、一人の人間が現れた。その人は間違いなく人間の男に違いなかったが、武道を見下ろす鋭い瞳は、群れを離れ孤高に生きていく狼のそれのようだった。誇り高く、潔癖で、冷たい雨の中煌々と燃えている瞳だ。
「オレって大寿君のヒモなんすかね?」
上司である大寿を迎えにやって来た九井は、武道の言葉に眉を跳ね上げた。
「……いや、ヒモではねえだろ……未成年の獣人は引き取り手が養育すんのが義務だ」
「でもオレ、大寿君の息子って感じでもないっすよね?」
玄関で腕を組み、武道は頭にある垂れた犬耳をひくひくと動かした。
「息子……大寿に息子」
何かがツボに入ったらしい九井がぱしんと口を手で覆う。何がおかしいと言うのか。武道が眉根を寄せると、九井は取り繕うように「親子ではないわなあ」と頷いた。
ふさり。武道の黒い尾が緩く動いて、空気を掻き混ぜる。
武道は犬の獣人だ。
犬の獣人と言えば、鼻が効き、身体能力も高く、何より忠誠心が強い。主人と認めた人間を守り、身を削って尽くす生き物だ。しかしながら武道は、その特徴にまったくもって当てはまらない劣等種だった。本人がそう自覚している。
鼻は人間より多少利く程度で、むしろそれ以外の感覚は鈍い。身体能力に至っては、一般に運動神経がいい人間たちよりも遥かに劣る。端的に言ってドジだ。兎にも角にも使えない、穀潰しの役立たず、というのは、武道の前の主人の言である。
そう、“前”の主人だ。
武道を飼っていた男は、ある日武道を公園のベンチに置いたきり、何時間経っても迎えに来ることはなかった。家から自家用車で二時間離れたそこ連れて来られた時点で、自分は捨てられるのだと武道は分かっていたが、抵抗することなく車から降りた。去っていく背に縋ろうとも思えなかったので、自分は本当に犬の獣人なのだろうかと、自分で疑念を持ったほどだ。固有の忠誠心すら備わっていないとは、武道という犬は正真正銘の落ちこぼれらしい。
しかし追い縋らなかったからと言って、自由を求めていた訳でもなく。
ベンチに座り込んで、雨が降り始めてもずっとそこでぼうっとしていた武道を見つけたのが、柴大寿。今現在の武道の主人だった。
「もしかしてなんですけど」
武道が大寿のいるリビングの方をちらちら気にしながら声を潜めると、九井も合わせるように耳を寄せてくれる。
「オレと大寿君の関係って……パパ活では」
「パ……誰に吹きこまれた」
「この前テレビで……」
大寿はニュースの確認くらいしかしないため大きなテレビも以前は飾りでしかなかったが、武道がやって来てからは世情に疎い獣人のため、86インチのテレビはかなり働かされている。
「それ絶対大寿に言うなよ。実際パパ活じゃねえし」
「じゃあなんなんですか?」
武道が詰め寄ると、途端に九井は嫌いな食べ物を突き付けられたような顔をした。いつも口が回る彼らしくない反応に、武道もじりじりと不安になって耳が震える。
「あれだろ……アニマルセラピー的な……」
「オレ見た目とか毛並みいい方じゃないっす」
「ちげぇよ、そういう意味じゃなくて、……こういうのオレに聞かれても困るんだけど。とにかくさ、オマエと大寿はもっと、――家族とか、そういう、」
「何してやがる」
ピャッと、肩を跳ねさせた武道の尻尾が天井へびんと伸びた。振り返れば、きっちりと支度を整えた大寿が眉間に深い皺を刻んで自分たちを睥睨している。武道の尻尾は素直にへたりと垂れてしまった。
「世間話だよ、そうかっかすんなよ」
さっきとは打って変わって華麗に二枚舌を発揮する九井が肩を竦めた。大寿は不遜に部下を見下ろしたまま、無言で革靴へ足を入れる。
「あ、大寿君、いってらっしゃい。お仕事頑張ってください」
武道の主人は一言「ああ」と返しただけで、振り返りもしない。いつものことだ。九井は少し哀れむような目を向けて「じゃーな」と手を振ってくれたが、武道にはその視線の意図の方がよく分からない。大寿が武道を蔑ろにしている訳ではないと、言葉で言われたことはなくともなんとなく知っているのだ。それは獣人の感覚の鋭さと言うよりは、単に武道と大寿の波長の問題なのだろう。何せ武道は落ちこぼれなので。
暗くなるパソコンの画面に、ふうと息をつく。今日の授業もさっぱりだった。
武道が大寿と暮らしてみて分かったことは、前の主人は獣人の自分を、結構法に触れる形で飼っていたのだな、ということだった。
未成年の獣人を飼う場合は教育を受けさせなければならないとか、飼い主と同じ水準の暮らしをさせなければならないとか。法に規定されたそれらは、全く肌馴染みがなかった。食事は床で食べたし、風呂に入ったこともない。週に一度外でホースから水浴びしていた。
武道は十歳くらいの頃――自分の歳も曖昧だ、今恐らく十三か十四のはず――、前の主人に引き取られて以来、彼の身の回りの世話だけして過ごしてきた。料理を作ったり洗濯をしたり掃除をしたり。そしてたまに、機嫌が悪い彼のサンドバッグにもなった。
外出は近場のスーパー以外禁じられていたし、テレビも見せてもらえなかったので、武道はとにかく人間の常識と言うものに疎かった。武道が主人を「大寿君」と呼ぶのも、元を辿ればその辺りの元々の生活が原因だ。
大寿に拾われた当初、武道は彼のことを当然のように「ご主人様」と呼んだ。しかしそうすると彼が渋面を作ったので、次に「大寿様」と呼んだ。そうするとそれもまた拒まれ、武道は戸惑いながら「大寿君」と呼んだのだ。大寿は少し眉を動かしたものの、何も言わなかったので許されたのだと思った。
他人の呼び方に、「君」より先に「さん」を使うべきと知ったのは、大寿が通信教育の場を整えてくれてからだ。武道のまだら過ぎる知識では、男は「君」で、女の子は「ちゃん」。そのくらいの判別しかなかったのだ。過去の自分が働いた無礼に青褪めたりしたものだが、結局呼び方を変えるのも一度受け入れてくれた大寿に悪い気がして、そのままで通している。
今日は少し大寿の帰りが遅かった。玄関でそわそわと尾を揺らして待っていた武道は、聞こえてくる足音にほっと胸を撫で下ろす。
食事は基本、一緒に摂る。作ってくれるのは初老に差し掛かった家政婦だ。武道の独学の料理スキルなんて、彼女のそれと比べればままごとにもならない。しかし優しい彼女は自身の仕事中ちらちらキッチンを気にする武道に気付いて、料理を教えてくれるようになっていた。
「そのグラッセ、オレが味付けしたんです」
「……そうか」
黙々と咀嚼し続ける大寿に、武道は頬を緩ませる。味は及第点だったようだ。
こうして向かい合って食事を摂るのも、今ではもう慣れたものだ。ここへ来たばかりの頃、主人と同じ時間に同じ場所で食事は出来ない、後で床で食べると主張した時の大寿の顔は、一生忘れられないだろう。
人間に引き取られて以来、初めて椅子に座ってテーブルで、きちんとした食器を使って食事をした。初めての食事ではナイフやフォークをどう使えばいいのかも分からず――前の主人は箸やスプーン以外使うことがほとんどなかった――、固まる武道に、向かいに座っていた大寿は溜め息をついた。彼が椅子を引いて立ち上がったので、あ、殴られる、と武道もまかり間違って料理を無駄にしないよう、椅子から下りようとしたのだが。
「食器は外側に置いてあるものから使う」
武道の背後に回った大寿は、覆いかぶさるように武道の両手をその手で包んだ。大寿に動かされるまま、武道の指がカトラリーを辿る。
「スープを掬う時は手前から奥。飲む時は音を立てるな」
「パンは一口ずつちぎれ。手でだ、ナイフは使わねえ」
「ナイフとフォークは人差し指で背を支える。ナイフは引く時に力を込めろ」
「低くないテーブルではソーサーは持つな。持ち手は指を入れずに摘まむ」
一つ一つ、丁寧に。自分よりずっと大きい手が、武道の荒れているちっぽけな両手を上から柔く包んで、導いてくれる。申し訳ないことに、教えてもらったことの半分以上は耳を素通りした。頭の後ろに触れるシャツの感触が、ずっと気になっていた。獣人の鼻が拾う香水の残り香と、大寿自身の匂い。低く掠れた声が武道の垂れた耳を撫ぜた。
こんな風に人間に触れられたのは初めてだった。前の主人は、汚らわしい獣人に暴力以外では触れて来なかった。
あの男はよく背中を蹴って来るから、人間に背後を取られるのは緊張する。しかし大寿の気配に包まれるようなそれは、緊張とはまた別に、妙に背筋がむず痒く感じた。
その日、何を食べたのか覚えていない。大寿の乾いた手の感触はまだ手の甲にある。
食器を食洗器にセットしつつ、ちらとソファーに座っている大寿をうかがう。仕事の資料に目を通す真剣な横顔が、武道は好きだった。
今朝九井が言っていたことを思い出す。家族。物心ついた時には獣人の孤児院にいた武道には、まったく耳慣れない語感だ。ただ馴染みがないだけに、そわそわと浮き足立つような響きがある。
だからそんな落ち着きのなさを必死にひた隠して、なんでもないことのように食洗器のスイッチを入れながら口を開いた。
「あの、オレって、大寿君の家族なんすかね?」
ぴた。タブレットに触れようとしていた指先が、宙で止まる。大寿がキッチンの武道を振り向く。その瞳を見返したとたん、武道は尻尾の毛が逆立つ気がした。
――あ、間違えた。
ぶわっと汗が吹き出すが、それを拭えるほど手が自由にならない。全身針金でも仕込まれたみたいにぎしぎしと動かしづらくなっていた。なんとか目だけをあらぬ方へ逸らす。「オレ、お風呂入れてきますね」からからの喉でようやくそれだけ言って、逃げるようにその場を後にした。実際、逃げた。スリッパでぱたぱたと床を鳴らす間、じんわりと目の縁から滲みそうになる涙を必死に瞬きで誤魔化していた。
へちゃりと尾は力なく下がり、元から垂れている耳もさらにぺったりと萎れている。大寿の寝室の前で、武道はくぅん、と吐息程度にささやかに鳴いた。
結局夕飯以降、ほとんど言葉を交わさなかった。出来るのなら、今すぐにでもあの発言を取り消したい。いつもの自分と大寿に戻りたかったが、謝るのもなんだか違う気がして、結局なかったことにするという最悪の手を取り続けてしまっている。
もうすぐ時刻も零時を回る。大寿はもう寝ているだろう。ぴるぴると耳を動かすが、何も物音は聞こえなかった。
あれ以降、風呂に入っている間も歯を磨いている間も、心細くて仕方なかった。飼い主の逆鱗に触れてしまったという、本能的な焦燥がずっと消えないのだ。落ちこぼれでも、武道だって一応は犬の獣人だから。それを差し引いても、大寿の中の、踏み込まれたくない部分を自分が土足で荒らしたのだと思うと、罪悪感に今にも押し潰されそうだ。
彼の睡眠を邪魔するなんて出来ないが、扉の前で眠るくらいは許されるだろう。今夜はどうしても離れがたい。床で眠るのは前にいた家では当たり前だったのだから、どうということはない。
ぺたんとその場に座り込み、丸くなろうとした時だった。唐突に扉が開いた。
大寿が目を見開いて見下ろしてくる。
「……オマエ……」
「あ……ごめ、」
反射で出た謝罪が形になる前に、大きな手に腕を掴まれて立たされる。乱暴ではない、武道の身体に負荷が掛からないよう、配慮された支え方だった。今はワックスで固められていない髪を、大寿が軽く掻き上げる。
はあ、と落ちた溜め息に武道はびくりと震えた。
「……入れ」
「えっ」
「そこで寝られちゃかなわねえ」
ぴんと尻尾が立つが、続けられたそれにまたしゅんと項垂れた。
与えられた自室に戻った方がいいのは百も承知だったが、犬の本能が飼い主の傍がいいと訴える。恐る恐る、まだ灯りのついている部屋の中へ足を踏み入れた。
ここへ入るのは初めてではないが、頻度は多くない。物の少ない部屋だ。ベッドとワークデスクにキャスター付きの椅子。壁際のキャビネットの上には十字架と、写真立てが置かれている。
「お……起きてたん、すね」
何か喋らなければと話しかけるが、完全に声が上擦っていた。大寿は武道を振り返らない。
「祈りの時間だった」
尻尾が力なく垂れた。邪魔してしまった、と青褪める武道に見向きもせず、大寿がベッドに腰を下ろす。
「来い」
布団に入って隣を叩く大寿に、武道はしばしその場で固まった。胡坐に肘をついた大寿は、少し目を細めて自分を見つめている。数秒の間を置いて、武道はようやく意味を理解した。
後ずさる武道に、大寿の眉がひくりと動く。
「オレ、床で」
「来い」
咎めるように強まった語気に、完全に委縮しきってそろそろと近づく。ベッドの傍で足を止めると、大寿に手を引かれそのままベッド上に乗り上げた。
大きな手に押されると、武道の身体はあっさりさらさらとしたシーツの上に転がってしまう。大寿がリモコンで照明を落とせば、灯りはサイドチェストに置かれたベッドサイドランプの、ぼやけた頼りない物のみになった。
武道は大寿の方を向くことが出来ず、じっと横を向いたまま部屋の開いた空間を見つめた。丁度正面に十字架と、写真立ての写真が見える。
そこに写真があることは認識していたのに、なぜかそれに何が写っているか、武道はこれまで気にしたことがなかった。写真を撮ったことなんてなかったから、何を、どんな場面を人間が写真に収めようとするのか、それを気にする概念もなかったのだ。
しかしこのベッドに横たわると、その写真は意識しなくても目に飛び込んで来た。
横長の写真立てなのに、入っている写真はなぜかほぼ正方形。写っていたのは大寿ではなかった。
椅子に座っている、美しい女性だ。穏やかに目を細めて武道を見返している。彼女の右手は、一人の女の子と繋がれていた。彼女にそっくりの、吊り目がちな瞳の可愛らしい女の子。じっとこちらを見つめるその眼差しは、意志が強そうに見えた。
女性の左手は、小さな男の子の背に添えられている。こちらの男の子はおっとりとした雰囲気で、どことなく甘え上手に見えた。垂れた目元が愛らしい。大寿ではない、と思った。
正面に女性、向かって左に女の子、右に男の子。写っているのはその三人だけ。しかしじっと見つめていると、すぐそうではないと気づいた。
恐らく母親である女性と手を繋いでいる女の子の肩には、誰かの手が乗っていた。大きな、大人の手だ。しかしその手を辿っても、写真の左側には何もない。画角の外の空白だけだ。それはたぶん、右側も同じだった。両端の切り取られた、歪な、しかし幸せそのもののような家族写真だった。
「左に父親が、右にオレがいた」
後頭部と旋毛の中間あたりに囁きが落ちて、武道は身を捩って背後の大寿を振り返ろうとした。しかし大きな手が、布団の上から武道の二の腕に触れる。それだけで武道は身じろぐのをやめた。
武道がやって来るまで、この家に大寿は一人暮らしだった。武道は大寿に家族はいないのか、訊いたことがない。武道にいないから、思考の外だった。写真と同じ。
布団越しに、大寿の掌を感じる。なんでも掴めてしまいそうな大きな手だ。あの日雨が降りしきる公園で、汚れたずぶ濡れの犬を抱き上げた手。
群れを離れた狼のように、何者も受け入れない目をして武道を拾った。
静かに燃える眼差しが真四角の写真に注がれている。
「あいつらにとっては、一番この形がよかったんだろうな」
祈りを唱えるときのように、とうとうと凪いだ声音だった。
大寿の腕が伸びて、ランプを消す。すると今まで形を潜めていた月光が、カーテンの隙間からそっと武道の頬を撫でた。
月明かりに晒されて、写真を見つめる。
このベッドの上では、身体を横に向ければすぐに目に入る。十字架と家族写真が。
写真を切ったのは、誰なのだろう。幸せを写したそれを見て、このひとは何を祈っていたのだろうか。
武道はもぞもぞと動いて身体を反転させた。月光が大寿の肌の白さを際立たせている。流れる前髪の隙間から、鋭い瞳が武道を見つめる。自分を拾った時もその後も、変わることのない孤高の狼の瞳。
武道は伸び上がるように首を反らして、大寿の頬をぺろりと舐めた。
舌先が月光と一緒に、一瞬の肌の震えを掬う。
首筋にぐりぐりと額を押し付ける。しばらくの静寂の後、二の腕に触れていた大寿の手が、武道の背に回る衣擦れだけが響く。
広いベッドに窮屈に身を寄せ合う。孤独だ。確かに体温は互いに移るのに、寒々しく、触れる皮膚は決して融け合うことはない。息を殺すように訪れる眠りを待っている。
自分が大寿の家族になることはないのだろう。このだだっ広い空間で、自分たちは二人ではなく一人と一匹。武道はこの人が同族の群れを得るのなら、自分がそのために噛み殺されても構わないと思った。なんだ自分にも、意外と犬の忠誠心は残っていたらしい。