リバーシブル・オペレッタ2-2




【裏】


(副社長Dは思い直す)

『マイキー君がまた脱走しました』
「…………おー、知ってる……」
 いるわ、目の前に。
 千冬からの電話を切って、またかよ、と溜め息をつく。電柱の陰にいる昔馴染みの肩を叩こうとすると、そいつは毛を逆立てた猫のようにふうふうと息をしていた。
「あいつタケミっちに触ってるんだけど」
「あいつならいいだろ、別に」
 橘直人。ヒナちゃんの弟で、かつてタケミっちの、千冬とはまた違う相棒だった男だ。今世で見るのは初めてだった。前世でも関わりはほぼなかったが。あの様子を見るに、あいつも前の記憶があるんだろう。
 今初めて会ったっぽいな。
「オマエな、商談どうした」
「ケンチンが代理してくれるからケンチンは気にしないで」
「勝手に分身さすな」
 すぱんと頭を叩く。文句の一つでも言ってくるかと思えば、電柱にかじりついたまま橘直人に怨念を飛ばしていた。
「今回は稀咲と九井がなんとかしてくれるそうだが、オマエ仮にも社長なんだからな」
「ずりぃじゃん、オレだけ直で顔見れなくて会社に缶詰とか。譲れよ」
「今月入って脱走十二回目だろうがブチ殺すぞ」
 オレがどんだけオマエの穴埋めやってやってると思ってんだ。
 千冬がタケミっちに会ったということを報告されたマイキーは、荒れに荒れた。自分はずっとらしくない我慢をしていたのに、千冬が名前まで呼ばれたのが余程精神的にキたらしい。それはもう社長室からオレたちのオフィスまで、暴風雨のように荒らし回った。最終的にオレが真一郎君とエマを呼んだ。兄のゲンコツを食らうまでマイキーは止まらなかったし、エマのホットケーキを食っている間ずっと顔をぐちゃぐちゃにして泣いていた。
 それ以降、マイキーは度々脱走を繰り返しタケミっちをストーキングしている。いやストーカーに関しちゃ他人のことは言えねえが(危険な目に遭いすぎるあいつを守るためなら泥も被ろうと手を染めたというのに、バジたちは犯罪の自覚がなかったと知って三ツ谷と引いた)。
 ともかくマイキーがタケミっちに一定距離を置いて貼りつくせいで、その日の見守り当番がやりづらいから回収してほしいとオレに連絡を寄越してくるのだ。通常業務をこなしていると入ってくる、「お母さんお宅の息子さんがオレたちにガン付けてきます」という報告。誰がお母さんだぶっ飛ばずぞ。
 しかし、うちのトップが大分精神的に限界を迎えているのもまた事実だ。タケミっちを見つけてから少しマシになった目の下のクマも、またうっすら出来はじめていた。だが今世ではタケミっちを陰から見守ろうと決めたのもマイキーだ。一度決めたことを、そう簡単に覆すやつじゃない。
「タケミっち怯えてる……子犬みたい……でももしオレの顔見た時もあんな不安そうな顔したら……無理……死ぬ……」
「戻って来い」
 そうこうしている内に、タケミっちは橘直人から走って逃げ出していた。ショックを受けているそいつに若干同情したが、今はあいつを追うのが先だ。
「なあ今日口座作りに行くって言ってたけどさあ、タケミっちがバイトとか無理なんだけど、不特定多数の人間に笑いかける訳じゃん……待って、客として行けばタケミっちに合法的に笑顔を向けてもらえるってこと?」
「接客じゃねえかもしんねえだろ」
 違法に向けてもらう笑顔ってなんだよ。
 しかし、マイキーに同意したくはないが、正直あいつがバイトすんのはオレも不安だった。さっきも老人の道案内をするあいつを下卑た目つきで見ていたリーマンをシメたばかりだ。接客なんかしたら変なのが釣れまくる未来が目に見えている。
 逆にこの辺の不審者とか痴漢が一掃されるかもしんねえな、と軽く気が遠くなりつつもマイキーの襟首を掴んだ。タケミっちにすり寄りやがってって、野良猫ぐらいは許してやれよ。





「手を上げろぉ!!」
 ここまで来ると逆に感動するわ。
 まさかこの現代で銀行強盗に遭遇するとは。最近フィクションでもあんま見ねえぞ。宝くじの確率じゃねえか。
「オレ奥行くわ。上手く誘導して」
「おう、インカムオンにしとけよ」
 強盗が足を踏み入れた瞬間から、すぐさま状況判断したマイキーがオレの陰で銀行の奥へと姿を消す。上手く強盗を奥へ誘い込めば、後はマイキーがなんとかするだろう。オレは阿鼻叫喚の中さりげなくタケミっちの近くへ移動した。いざという時守れるように。
 表向き大人しく縛られつつ、「二人行ったぞ」とぼそりと呟く。誘導しなくて済んだのはラッキーだった。
 タケミっちの後つける時は一応身につけている、超小型インカム。スマホは取られたが、幸いこっちは気付かれなかった。普段使うことはない代物だが、こういう時があるから外せない。
 しばらくしてインカムから短い悲鳴と、人を殴る音が聞こえた。順調にシメてるらしい。
 人質がいる以上、全員が金庫へ向かうことはないだろうがなるべく分散させたい。タケミっちの近くに、銃を持った人間はいてほしくなかった。
 目の前で座り込んでいるタケミっちの肩が、微かに震えている。
 ここまで近づくのは今世で初だな、と黒い旋毛を見下ろした。さっきちらりと振り返られて、らしくなく緊張したがなんの反応もなかった。
 大方、でけえやつが背後にいて落ち着かないとか思ってんだろうな。
 ふ、とこんな状況で笑みが漏れる。しかし斜め前の子どもがわあわあと大声で泣き出して、オレも唇を引き結んだ。
「うるせぇぞ!」
 強盗が血走った目で銃を子どもに向け、人質全体から悲鳴が上がる。クズヤロウが。
 強盗はずっと息が荒いし、構えている銃の照準もさっきからぶれまくりだ。連携もあまり取れていない、少しの計画の手違いで自滅してくれるだろう。今世では犯罪にほとんど縁はないのに、こんなに冷静に分析できるってのもおかしな話だな、と小さく自嘲する。
 やがて、先に行った二人が戻らないことに痺れを切らした強盗がもう一人奥へ向かう。
「もう一人行ったぞ」
『ん、了解』
 返事と同時にガッガッと骨と骨がぶつかる音が微かに聞こえ続けている。
 ……まさかずっと殴ってんじゃねえだろうな。
『ギャアアアアア!!』
 ――ギャアアアアア……。
 インカムの悲鳴と反響する悲鳴がだぶった。
 しん……とその場は静かになるが、オレの耳には人を殴る音が聞こえ続けている。
 やるならもっと静かに、上手くやれや……頭痛がして俯くと、隣に座っていた従業員らしい男が少しびくついた。眉間に皺が寄ってたらしい。ビビらせてわりぃな。
 強盗たちは仲間の悲鳴に明らかに動揺し、ぼそぼそと早口で会話している。銃を持つ手はガタガタ震えていた。
 予想通り、二人は怒鳴り合いを始める。仲間割れもすぐだな、と冷めた目で見ていたが。
 しかしオレの予想より、更に肝が小さく更に更に根性の捻じ曲がったやつらだったらしい。強盗二人はやがてその銃口をこちらに――さっき泣いていたガキに向けた。
「……おい、オマエ……様子見て来い」
 その場がざわつく。「うるせぇ!!」ともう一人が怒鳴って天井へ向けて発砲した。蛍光灯が弾け飛び、オレは咄嗟にタケミっちに膝で近寄る。
「早く行け、ガキ!!」
 もういっそここで奇襲しかけてノすかと目を走らせる。人質がいて相手は銃を所持していて、タケミっちがいるこの状況で無茶はしたくなかったが、ガキにそんな真似はさせられない。
 膝を立てようとした時だった。

「お――オレが行きます」

 すっと膝立ちになったタケミっちに、ばっと銃口が向けられる。瞬間目の前がかっと赤くなった。こいつにそれを向けるな、というケダモノみたいな殺意と。
 オマエタイムリープだってしてねえはずなのに、変わんねえなって胸が引き絞られるような痛みと、懐かしさに。
「こ、子どもなんか、行かせてもなんも意味ないでしょ……オレだったら、か、金も運んで来れるし」
 説得しようとする声は震えている。それでも、後ろ頭だけで分かる。視線が一切ぶれてないのが。
 提案に揺らいだらしい強盗どもは、少しの間ぐずぐずしていたが、やがてタケミっちの胸ぐらを掴んで無理やり立たせた。思わず犬歯を剥き出しにして睨むと、強盗はぎょっとしたように手を放す。そのせいでタケミっちがたたらを踏んだ。
「に……二十分以内に戻らなかったら、人質一人ずつ殺していくからな」
 人質の悲鳴にオレの舌打ちが紛れる。その前にオレがてめえらの首へし折ってやるよと口から出るところだった。
 タケミっちは無言で頷いて歩き出した。オマエのこういう背中を何度見る羽目になるんだよ、オレは。





「おい、マイキー、タケミっちがそっちに行った、隠れろ……マイキー?」
 骨を打つ音だけが聞こえる。返事はない。
「おい、聞こえてるか、おいっ」
 感づかれる訳にもいけないので小声で訴え続けるが、やはりなんのリアクションも返って来ない。おいマジかオマエ。
「マイキー、おい、マイ」
『ぎゃあああああ!!』
 ――ぎゃあああああ……。
 悲鳴重複、リターンズ。
 両手が自由だったら、頭を抱えて項垂れていた。聞こえたタケミっちの絶叫に、場をさっきと同じ沈黙が支配する。
 強盗たちはバイブレーション並に震え、庇われた親子も顔面蒼白で号泣し出した。地獄絵図。
『ひえっ……!?』
 どうすんだこの空気、と思ったらインカムからタケミっちのビビった声が続けて聞こえてきた。『はーっはーっ』というマイキーの荒い呼吸も。
 絶対殴ってるとこ見られてんじゃねえか。気持ちは分かるがあんな執拗に殴ってるからだろくそ。
 誤魔化せ、なんとか誤魔化せ!
『ゅ……ゆるして、くださ、っひ! ……――ぇ、』
『……っふ……う、うううう……ひっぅ……』
 おい、おい……おいおいおいおい。
 耳に『っえ、え!?』と困惑の声が届く。オレの額に汗が吹き出した。
 泣くんじゃねえよバカヤロウ!
『な……なに、』
『うあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛』
 うるせえ!!
 インカムを毟り取りたくなったが、出来るはずもなく。ぶんっと反射的に頭を振り回したせいで突然ヘドバンを始めたキチガイみたいになった。隣の従業員を半泣きにさせちまった。
「おま、ほんと、おま……」
 思わず呟く。インカムからはガンガンにマイキーの号泣が響いていた。あ、これ鼓膜割れるわ。
 昔馴染みのオレには分かる。タケミっちに会えて感極まったが、せっかく会えたのに怯えられて死ぬほどショックを受け、やっぱり覚えてないって突きつけられたのも辛くて、でもやっぱり会えたのがめちゃくちゃ嬉しかったんだろう。
 いろんな感情がぐちゃぐちゃになった結果、爆発したらしい。この前の千冬自己紹介事件の二の舞だ――いやあれよりひでえ。あの時だってざっと二時間は暴れ回ってたけどよ。
 今回も感情の歯止めが効かないらしく、ドンッと鈍い音も聞こえてくる。このままでは銀行強盗ではなくこいつのせいで銀行が半壊する。強盗を上回る被害を出しちまう。逆にもう強盗が無罪。
 マイキーのクソデカ声は、インカム越しでなくてもこちらに届いていた。悲鳴に続いて聞こえてくる男のガチ泣きの声に、強盗も人質も一緒になってガタガタと震えている。隣の従業員なんか銀行強盗とホラー展開とオレの意味のないヘドバンのトリプルコンボで泡吹きかけてた。さすがに罪悪感がすごい。
 前みたいに真一郎君とエマを呼ぶことが出来るはずもない。しかし二人以外にこいつを落ち着かせられるかと言うと――。
『あ……あの』
 マイキーの泣き声の合間に聞こえるのは、緊張した少年の声。
『うううっ、ふっ、ひっく、ううー……!』
『あ、飴……食べますか……?』
 ぴた。
 マイキーの嗚咽がやむ。インカムが壊れたかとすら思ったが、小さく聞こえてくる肉声もまた止まっていた。もしかしてオレの鼓膜割れたんか?
 自分の聴覚を訝しむ前に、唐突に止んだ絶叫に、人質たちと強盗も顔を見合わせているのが目に入った。
『……食べます……?』
『…………、ウン……』
 この場で真相を知るのはオレだけだった。
 言えるかよ。成人済みの男がメンヘラ感情爆発させて号泣殺戮兵器になりかけたけど命より大事な男子高校生の一声で大人しくなりましたとか。
 …………言えるかよ……。





『擦るとよくないすよ』
 マイキーは未だにすんすんと鼻を鳴らしていた。たぶんだが泣きながら飴食ってる。何してんだオマエ、と思ったが、インカムから聞こえてくるタケミっちの声に頭痛がますます酷くなった。
 なんでこんな強盗よりやばい男の心配してんだオマエは……紙装甲のお人好しがよ……。
 マイキーもたいがいだが、こいつもこいつだ。危機管理能力前世に置いてきたんか? ……いや、前世でもこんなもんだったな。
『……う、美味いすか?』
『ん……』
 ん、じゃねーんだよ。何高校生にあやされてんだよ。
 つーかオレに会話とか筒抜けなことちゃんと分かってんのか? 忘れてんじゃねえだろうな。
『……あのぅ……』
『ん……なぁに』
『な……なんでここにいたんですか……?』
 よかった、一応そういうの気にしてたんだなタケミっち――と安堵してる場合じゃない。
 どう誤魔化すんだこれ。もう見間違いとか幻覚でも処理できないレベルの醜態だったぞ。はらはらしながら耳を澄ますが、マイキーは沈黙ばかりで何も発さない。
『警備会社の人……とかじゃないっすよね、めっちゃ殴ってたし』
 ガリ、という音がやけに近く聞こえたので、たぶん動揺しまくって飴を噛み砕いたんだろう。『…………あ……っとね……』と焦りまくっためちゃくちゃ歯切れの悪い声。マイキーのこんな声はめったに聞けるもんじゃないが、出来ればこんな状況で耳にしたくなかった。
『……こ、ここに来たやつを守りに、来た』
 しばしの沈黙の後、マイキーはそう絞り出した。嘘はつかず真実も言わず、という選択だが、輪郭が曖昧過ぎるだろ。
『え……何その銀行の守護霊みたいな……』
『ソンナカンジ』
『銀行の守護霊!?』
『ウン……』
 バカヤロウ。
 オレは上体を倒してゴッと床に額を打ちつけた。隣の従業員が「ぎゃっ」と短く悲鳴を上げる。びくついた強盗に「動くなよ!」と銃口を向けられて周囲もざわつくが、もうどうでもいい。
 なんだ守護霊って、守護霊ってなんだ!
 誤魔化すのが下手とかそういうレベルじゃねえぞ。タケミっちも『……そ、それは銀行強盗は許せないっすね……』ってすんげえ引いてる。つかこれを素直に信じたら東卍の会議で定期的に出てくるタケミっち監禁案にオレも賛成の一票を投じるとこだった。
『お、オレも強盗と間違われなくてよかったー……』
『んなわけねーじゃん』
 大人しかったのがさらっと素が出ている。だがすぐに『いや……み、見りゃ分かるから、そういうの……こいつはちゃんと銀行の利用者だなーって』と雑に取り繕っていた。
『オレまだ口座作ってないけど……』
『利用予定者もコミだから』
『懐広いな守護霊……』
 刺激したくないという理由かもしれないが、どう見ても頭が沸いてる守護霊設定に乗っかってくれるタケミっちはいいやつだなとしみじみする。マイキーは無言だった。たぶん今の一瞬で守護霊の設定忘れてたぞこいつ。
『でもじゃあ、なんで泣いたんですか?』
 出来れば流してほしかっただろう部分に言及され、マイキーがまた言葉に詰まるのが伝わる。何かマシな案があればオレがインカムでアドバイスしてもよかったが、生憎オレも頭が回る方じゃない。三ツ谷とかなら、上手くフォローを入れられたかもしれないが。
 また長い沈黙を挟んで、マイキーが口を開く。
『…………、人が……急に金庫にいっぱい来たから、びっくりして……』
 カワイコぶってんじゃねえーーーよ。
 今度はがくんと背後に首を曲げて天井を見上げる。従業員がヒュッと息を飲んだ。
『……へ、へえー、びっくりしちゃったんだ……』
『しちゃった……』
 何今更タケミっちの前で猫被ってんだ、行き過ぎた暴力と恥も外聞もねえ号泣のマイナスイメージはそんなのじゃ払拭出来ねえぞ。しかも支店長放置してることを言われて適当に流してやがる。猫被るなら最後までちゃんと被れや、支店長可哀想だろうが。
『あと、あのずっと気になってたんすけど』
 少しマイキーに慣れてきたのか、タケミっちの声色が少し軽くなる。警戒解くのが早すぎる。不安だ。
『……何?』
 一方マイキーはずっと気になってた、と言われたのが嬉しかったらしい。声がちょっと浮ついている。しかし次の質問で、そんなマイキーがぽかんと固まるのが分かった。
『と、歳いくつっすか……?』
 ……まあ、気持ちは分からんでもないが、この状況で訊くことそれか?
 確かに童顔、とはまた違う気がするが、とにかく学生時代からマイキーは顔が変わってない。身長もそんな伸びてねえし。たまに学生に間違われるくらいだ。いわゆる年齢不詳だが、にしてもそんなに気になるもんかね。
 素直に答えんのかな、こいつ。それとも守護霊だから年齢とかないって言いきるか? ぼんやり割れた蛍光灯を眺めつつ、耳を澄ましていた。
 マイキーの喉がごく、と鳴った。
『……………………じ、じゅうごろく』
 オレは背後の壁にゴスッと後頭部を叩きつけた。隣から悲鳴が上がり、「大人しくしろよ!」と泣きそうな声で強盗が叫んだ。それどころじゃねえ。
 どんだけサバ読んでんだテメエはよ!!
 なんでんなこと、と奥歯を噛み締めたが、マイキーが『……だから気軽に喋ってよ』とぼそぼそ続けたのを聞いてはっとする。
 千冬は、年上だったせいで千冬さんと呼ばれたと言っていた。話し方も敬語だったらしい。
 距離置かれるのが嫌だったんか。確かにタケミっちに他人行儀にされるのは、結構、かなり、堪えるが。さっき橘直人が逃げられてたのを目撃した時も、もし自分に対してもそうだったらと思うと、内心ひやりとしたもんだけどよ。
 ……いやでも、十以上サバ読むってどうなんだよ。プライドとかねえのか?
「おっ、オマエ……さっきから、いい加減にしろ」
「ア?」
 がくん、と首を戻すと、震える銃口がオレを向いていた。
 強盗の一人がオレに狙いを定め、もう一人は周囲を威嚇している。掠れた悲鳴や啜り泣きが大きくなった。
「お、大人しくしてろって、言ってるだろうが」
「強盗なんぞの言うこと聞く義理ねえんだよ」
 聞こえよがしに舌打ちしてやると、怒りにか、銃を持つ手がますます震える。周りから高い悲鳴が上がった。恐怖と、相手を刺激するなというオレへの非難だ。
「撃つぞ!」
「やってみろよ」
 顎を上げて挑発すると、血走った目でふうふうと息を乱す。
「クソッ、なんなんだよ、なんで帰って来ねえんだよ、なんなんだよここは!」
 とうとう逆ギレしだした男に、溜め息をついて立ち上がる。「動くな!」と銃をオレの頭に向けつつ、足が下がってりゃ世話ねえ。こんなことでビビんなら、最初から強盗なんかすんじゃねえよ。
「本当に――撃つぞ、撃つ」
「だからやんならやれ」
 トリガーに指が掛かる。オレはその銃口が下を向かないよう――他のやつを巻き込まないよう、距離を詰めてやる。
 男がガチガチと鳴る歯を食いしばったのが分かった。
「……なあ、なんでお仲間が帰って来ねえか教えてやろーか?」
「はっ?」
 発砲の一瞬前、オレは足で銃を真上に蹴り上げた。
 斜め上に飛んだ弾丸が天井にめり込むのを見送るより先に、すぐさま肩からタックルを食らわせる――もう一人の方に。吹っ飛んできた仲間に、咄嗟に発砲も出来ず強盗たちは二人まとめて床に叩きつけられた。
 そのまま、起き上がる前に一人の顎を爪先で蹴り脳を揺らす。下敷きになっているもう一人の手を踏みつけ、転がる銃を蹴って遠くへ飛ばす。
 失神した一人の下でもがくそいつに、オレがとどめを刺す前に男の従業員や客が飛びかかった。腕は縛られたままだが体重で押さえつける。中には隣で泣いてたやつもいた。なんだ、根性あんじゃねえか。
 強盗は喚いているが、銃がなきゃ多勢に無勢だ。やがて大人しくなり、恨み言と啜り泣きだけ聞こえてきた。
 オレはふうと肩を落とし、もう聞いていないだろうそいつに教えてやる。
「守護霊いんだよ、この銀行。今日限定でな」
 最悪に情緒不安定で、最高に強い守護霊サマだ。





 歓声をいなし、奥の様子を見てくると従業員に声を掛けた。必死に引き止められるのを宥めすかして足を進める。この銀行、この先運営厳しいだろうな。強盗以上に、ホラー展開の方が全員のトラウマになってそうだ。
 無機質な空気の廊下。角を曲がるとその先にマイキーと、タケミっちがいた。
「終わったー?」
 終わったー? じゃねんだよ。呑気かよ。
「ノした。おい、これ取ってくれ」
「ええー、自分でやんなよ」
「さすがに手首千切れるわ」
 マイキーに結束バンドを引き千切ってもらい、手首を軽く回す。タケミっちはオレたちのやり取りをぽかんと眺めていた。
「守護霊二号……!?」
「ア?」
 百歩譲ってマイキーがそう名乗ってるのは受け入れるが、オレまで巻き込むのはやめろ。顔を顰めるとタケミっちは少し怯えた様子を見せたが、すぐにはっと視線がオレの後ろを向く。
「み、みんなは……」
 おろおろと彷徨う視線に、肩から力が抜ける。
 こんな時まで他のやつの心配か、と叱りたいのが三割、呆れが二割、残りはこいつが無事だったことへの安心感。マイキーがいて万が一なんてことはねえが、億が一ならあるかもしれない。前世を思い出すと、今でも胃の腑の底が冷える。
 安堵に突き動かされるように、ぽん、と黒いぼさぼさの頭に手を置く。
「全員無事だぜ、ヒーロー」
 に、と笑う。タケミっちが安心するように。
 なのにタケミっちは、ちょっと驚いた後、少し戸惑ったようにオレを恐る恐る見上げた。
「……あ、どっか、怪我とか」
「あ? どこもなんともねえよ」
「え、でも」
 ひたむきに見つめてくる瞳に、心配がある。手を中途半端に浮かせたまま、オレはしばし大きな目と見つめ合った。オレの手が掴める丸い頭の形、血潮が流れる皮膚の感触が、バイク弄りで硬くなった掌に残っている。宙をうろつく手をそのまま、また伸ばそうとした時。
「守護霊キック!」
「ガッ」
 マイキーの爪先がオレの脛にめり込んだ。見ていたタケミっちまで「ぎえっ」と悲鳴を上げる。
「な、なぜ」
「邪な気配を感じた。守護霊は分かっから、そういうの」
「っテメエ、何が守護霊だぶっ殺すぞ!」
 胸ぐらを掴んでも一切悪びれねえ。テメエの年齢ここでばらしてもいいんだぞ。
 じんじんと続く痛みと散々オレの精神を疲労させまくった男への怒りにもういっそここで殴り合うかと拳を固めた途端、見計らったようなタイミングでパトカーのサイレンが聞こえ出して舌打ちした。そもそもおせぇんだよ。
「サツが来た。早く行くぞ」
「うん」
 オレが消えたことでパニックにはなるかもしれねえが、人質の中にマイキーはいなかったから、サツの世話になる方が何かと面倒だ。強盗に神隠し事件まで追加して悪いが、これに懲りてセキュリティー強化でもしてくれ。
 裏口へと二人身を翻す。
「あの、」
 背に声を掛けられ、本当にシンプルに、名残惜しいと思った。
 たぶんオレと同じかそれ以上にそう感じているだろう男が、振り返ってタケミっちを見つめる。
 ようやく正面から見られた顔だ。
「ね、オレ、幸せだからね」
「……え?」
 その台詞に、オレの方が胸を殴られたような気になった。
 タケミっちは目を少し見開いて、ぽかんとそこに立っていた。何も知らない顔だった。そのちょっと間の抜けたような、こっちの気も緩むような面が本当に、昔と何一つ変わってなくて。
 未練を振り切るのは、情けないことにマイキーの方が早かった。
「もう銃持ってるようなやつに立ち向かうなよ、バカ」
 ――それには全くの同感だ。
 いつも前を歩いていく男に続く。この身長差だと表情は読めないが、どうせさっきまで号泣した男とは思えないようなすまし顔なんだろう。皮肉なもんだ。全部一人で抱えちまうオマエが思いきり泣けるようになったのは、今離れようとしてるあいつのおかげなのにな。







「ストーカーですか?」
 野次馬からも離れた、一目につかない看板の影に身を潜めていると。そいつは靴音高らかに、オレらに真っ直ぐ近づいて来た。
「タケミチ君を追って来たんですか? 前世からタケミチ君に付きまとって、懲りない人たちですね」
 凛とした目元に険を乗せて、橘直人がオレたちを睨む。
「よ、元気そうだな」
 肩を竦めればふんと鼻を鳴らした。さすがはヒナちゃんの弟、肝が据わってる。
「そう目の敵にすんなよ。オレたち結構上手くやれると思うぜ? タケミっちを守りたいって考えは同じだろ」
「……警察としては出遅れて不甲斐ない限りです。タケミチ君を守ってくれたんですよね? そこは感謝します。……まあ不本意ですが、彼を守るためなら協力体制もやぶさかではありません。そうそうこんなことはないと思いますけど」
 オレとマイキーは「あー……」と視線を交わした。そっか、こいつ今日タケミっち見つけたからあいつの不幸体質知らねえんだな。知ったら泡吹いて卒倒するだろうな、稀咲はした。
 しかし言葉の棘が尋常じゃない。感謝しますって何だ、オマエのタケミっちじゃねーぞ。
「オマエのタケミっちじゃねーんだけど」
 マイキーが一歩前に出る。元々気の合うオレたちは引っ掛かるとこも一緒だった。見るからに不機嫌オーラを放って威嚇している元裏社会のトップにも、橘直人はまるで動じていない。マイキーに怯まねえって、ヒナちゃんの血筋っつうかもう本人のネジが数本飛んでるとしか思えねえ。だがうちのトップもネジの飛び具合じゃ負けてなかった。
「しかもオマエタケミっちの手握ってたな。勝手に触んな」
「そこかよ」
 ずっと根に持ってたんか……。半ば呆れていると、橘直人の顔からすっと表情が消えた。
「……なんで知ってるんです?」
「…………」
 目がドン引きだった。そんな視線を向けられるのは心外だが、生憎言い返すための手札がゼロ、手持ちのカードはどれを切ってもお縄案件だ。尾行盗聴盗撮違法アクセス、どこに出しても恥ずかしい犯罪の数々。
 最初にストーカー云々言ってたのは煽りで、実際にストーキングしているとまでは思っていなかったらしい。みるみる秀麗な顔が青褪めて行って、無意識なのかさっと腰の後ろに手を回している。
「ストーカーじゃねえし、見守ってるだけだし」
 マイキーがほぼ自白した。オマエも自覚なかったのかよ、それストーカーの常套句なんだよ。
 オレが痛む頭を押さえると、顔面蒼白の橘直人はとうとう手錠を取り出した。ストーカーって現行犯で捕まえられんのかな、と現実逃避しつつ、ジャケットを翻した。
「あー、あとよろしくな、“たまたま居合わせた”オレらはずらかるわ」
「放せケンチン」
「ずらかるって自分で言ってるじゃないですか、ちょっと、待てストーカー!」
 マイキーを小脇に抱えてそのまま逃亡した。まったく不名誉な二つ名貰っちまったもんだ。
 抱えたマイキーがばたばたと暴れる。
「ストーカーじゃねえもん」
「分かった分かった。けどサツに目付けられる訳にゃいかねーだろ総長。前みたいに反社じゃねーんだぞ」
 文句を垂れるマイキーを、自分で走れとぶん投げれば猫のようにしなやかに着地した。元気かよ。
「クソ、今日一日でドッと疲れたわマジで……なんか食いてえ、……そういやオイ、飴貰ってなかったかオマエ」
「あれ全部オレの」
「一つくらい寄越せや」
「やだ! 意地汚いよ!」
「てめーにだけは言われたかねーんだよ!」
 今回のMVPオレだろ、労われや、と言いかけたが、違うな。今日の一等は、やっぱオレらの泣き虫ヒーローだわ。





【裏・再び回顧】


「腹減ったな」
 石段に腰掛けてそうぼやけば、隣に座ってたそいつは急に慌てふためいて制服のポケットとかを漁り出した。
 ばたばたと忙しない、いかにも鈍そうな動きをじっと眺める。ぱっとその横顔が輝いた。
「飴、ありますよ。食べます?」
 開かれた掌に転がる、どこにでもありそうな袋に包まれた飴玉。
 オレは飴よりも、そいつがオレのなんでもない一言を真に受けて、一生懸命なんとかしようとしてくれたそのことになんだか頬の筋肉がむずむずした。
「あんがと」
「はい!」
 飴玉一つで小腹が満たされることなんてないのに、ころりと口の中で転がせば、広がる甘さに胸がいっぱいになる。
 カラコロと口の中で飴玉を転がして、そいつの肩に頬を預けてみる。
 頬の内側に飴を押し付けると、感触が伝わったのかそいつはちょっと擽ったそうに背を震わせた。
 石段の下では、ケンチンたちがバカ騒ぎして追いかけたり追い回されたりしてる。
 ちらと目だけ動かすと、そいつがオレを見る。大きな瞳。やわらかく光を吸い込む目。兄貴と似てるけど、オレが特別、一等好きな瞳。
 オレが幸せそうにしてると、自分も幸せって目。
 むず痒いような、とろとろと心地いいような。息がしやすい。吸い込んだ空気から、酸素をちゃんと肺に取り込める感じ。
 口の中の甘さに酔いしれながら目を閉じた。そいつの体温はちょっと高くて、やわやわと微睡みを誘う。ふ、と漏れたオレの笑みも、甘いに違いなかった。







 オマエは誰。
 オレの中にいる。
 甘いもん食ってると、嬉しそうにオレを見る目を思い出す。バイク乗ったら、後ろに座ってる気がする。ケンチンたちと集まってると、オレたちを包み込むような眼差しを向けられてると感じる。でも振り返っても、誰もいない。
 夢の中でオレはそいつの背中を見つけると飛びついて、その名前を呼ぶ。そうするとそいつはよろめいて、でもなんとか持ちこたえてオレを振り返る。ちょっと面映ゆそうに、困ったように笑う。
 マイキー君って、オレを呼ぶ。
 そこまで分かるのに、どんな顔をしてるか、どんな姿をしているかも、どうしてか何も分からない。男か女かすら。眼差しは分かるのに、目の形も色も知らない。目は大きい? 細い? どんな色? 髪は染めてる? 長い? 小柄なのか大きいのか、年上なのか年下なのか。名前はなんていうの。
 なんにも知らないのに、でもそいつだって分かる。いつだって、物心ついた時から会ったこともないその誰かのことを、事あるごとに思い出していた。顔を上げればそこにいるような気がしていた。
 小学校の、まだ低学年の時。エマが占いの本を読んでた。星の並びとか名前の画数とか、いろいろ教えてくれる中で、守護霊の話が気になった。もしかしてあいつかもって思ったんだ。いっつもやさしい目でオレを見てる、記憶の中のあいつ。もしかして、オレを守ってくれる何かなんじゃないかと思った。
 だってそうじゃなきゃ、あんな春の日差しみたいな目でオレを見たりしないよ。
 名前も何も知らない、顔だってちゃんと思い起こそうとしてもおぼろげなそいつが、オレはどうしてか特別に大好きだった。
 オレの幸せを喜んでくれる、オレだけの。





 中学一年、夏。
 誕生日にバブを貰って、みんなに祝ってもらってしばらくした頃だった。兄貴の店の屋上で、ぼんやり風に当たってた。なんでもない日だった。
 本当に、何でもない日。屋上の端に、足を投げ出してたい焼きか何かを食べていて。立ち上がったその瞬間だった。
 まるで記憶の塊が、脳の中心で弾けたみたいに。
 ――こんなの知らない。
 一虎が兄貴を殺した。ケンチンが死んだ。バジが腹を刺した。オレが一虎を殴りつけて、エマが背中で冷たくなっていく。イザナがオレに銃を向けて。
 大人のオレはたくさん人を殺した。
 何度も、何度も、いろんな姿のオレが、人を、殺して。
 血塗れのあいつが――オレに撃たれたあいつが、落ちていくオレに手を伸ばす。

「万次郎!!」

 オレの腕を掴んだのは、切羽詰まった顔の真一郎だった。何してんだ危ねえだろって、怒鳴り声が耳を素通りする。意識が遠退いて行く。
 知らない。“今”のオレは知らない。経験してない。
 全部、いろんな前世の――違う、ちがうよな。
 瞼を重力に従って下ろせば、涙が落ちた。
 オマエ。

 オレたちのために、こんなにタイムリープしたの、タケミっち。










 あんなに探し続けて、日本どころか海外まで探してたのに、タケミっちを最初に見つけたのはオレじゃなかった。
 年上だと思ってたんだ。あいつはオレたちよりも、ずっと早くに死んでしまったから。
 見つけたのは元溝中の四人だった。オレがタケミっちを見つけたら、まだ学生のあいつらに知らせてやるはずだったのに。
 雪の降る日。入試で立入禁止の学校近くをだらだら歩いていた四人は、受験生のタケミっちとすれ違ったんだそうだ。その時の写真は手の震えのせいかぶれまくってるけど、でもタケミっちだった。あの頃みたいに金髪じゃなくて、ぼさぼさの黒髪で。セーターとコートで着膨れて、鼻と耳を赤くしていた。
 やっと見つけたオマエ、でも、もうオレのもんじゃねーの。
 写真をどれだけ見つめてもそいつが振り返ることはない。オレを見つめることはない。あの眼差しはもうオレのじゃない。
 だから今度はオレの番。

「……こ、ここに来たやつを守りに、来た」
「え……何その銀行の守護霊みたいな……」
「ソンナカンジ」

 銀行のじゃねーけどね。





【裏の裏】


 君が、幸せでいることが。





 千冬。
 アッくん、タクヤ、山岸にマコト。ドラケン君とイヌピー君。
 まだ他の人には会ってないけど、なんとなく予感があった。
 D&Dを訪ね、ドラケン君に怪訝な顔をされた時点で、オレはもう全部分かっていたような気もする。
 何度も潜った門扉。今は阻むように聳え立ち、オレを拒んでいるように見えた。オレがそう見えるだけで、何一つ変わりはしないのに。背中にも足裏にもじっとり汗をかいて、心臓が肋骨を打つ。今にもあばらを突き破って来そうで、シャツの胸のあたりを握り締めた。
 綱渡りをしてるみたいだ。足はちゃんと地面を捕まえているのに、ぐらぐらする。落っこちそう、どこか途方もない深みに。ビビりなオレの足は竦みっぱなしで、今すぐこの場に座り込みたいくらいだった。
 その時、ぺた、と足音がしてそちらを向いた。
 聞き慣れたビーサンの気の抜けそうな音。この音が好きだった。いつもこうやってぺたぺたと歩いてきて、笑って「よっ」と軽く手を上げる。飄々としてオレを呼ぶんだ。彼がつけてくれたあだ名で。
 名前が口から出そうになって、でもからからの喉に引っ掛かる。未練たらたらな、何度過去を繰り返しても成長しない情けないオレが、一縷の望みに縋る。
 ――もしかしたらと思っていた。
 もしかしたら、君なら。
「うちになんか用? もしかして入門希望?」
 ソーダアイス片手に、その人はそう言った。
 オレは彼を穴が開くほど見つめた。緩く波打つ金髪はぱさついていないし、首筋は痩せていない。肌は健康的な色を持って、目の下に隈もない。ただ当たり前に、ごく普通に生きているだけのその人が眩しい。
 たぶん、もう会うことはない。だからなるべく目に焼き付けておきたかった。ようやく辿り着いたこの人のこと、出来るだけオレの中に残しておきたい。
「今……幸せですか」
 話しかける気はなかったけれど、まだ未練が振り切れなくて。声だって、ちょっとでも聞いておきたかった。
 オレの問いに、その人はぼんやりした目で一度瞬きをした。それからその、少しあどけなくも見える顔に、訝しさを前面に押し出した。
「…………、ハア?」
 顔を顰めて凄むマイキー君に、不思議な話、オレはほっとした。
 背を向けて駆け出す。見えない何かに胸ぐらを掴まれて引っ張られてるみたいに、ぐんぐんと速度を上げて足を動かした。とにかく走る、走る。
 最後にあの子の顔をちゃんと見ておきたいと思って。










 何度も、タイムリープの最中不安になるたび足を向けたマンションだ。彼女の部屋を見上げる。
 長かった、と言うにはいつも必死過ぎて、まだ実感がない。それでも初めてのタイムリープから、随分遠くまで来たと思う。
 あの日、君の顔だっておぼろげだった。どんな子で、どんな風に話して、どんな風に笑うのか。どこを好きだと思ってたのか。全部あの中学生の日々に一度置いてきたのに、いつの間にかこんなにも鮮やかに胸を占領している。らしくなく誰かの幸せを願ったのは、君が真っ直ぐに心配してくれて、キスをくれて、オレを信じてくれたからだ。
 そういうオレにしてくれた。君と、みんな。そして彼が。
 顔を上げたのは、聞き慣れた声が耳に入ったからだった。
 気心知れた兄妹の、じゃれるような会話だ。ちょっと鬱陶しそうにする弟と、それすら楽しそうな姉の声。
 買い物でもした帰りなのか、二人とも手に荷物を持っていた。
 彼女がオレの視線に気づく。少しだけ、首を傾げた。
「――――、」
 名前は舌の上から剥がれず、口の中に籠ったままで届かなかった。
 ぺこ、と小さく会釈して。
 彼女はそのまま歩いていく。
 ナオトが少しだけ表情を強張らせて、姉の前に出た。オレとの間に壁になるように歩きながら、通り過ぎる。
 マンションのエントランスへ入っていく二人の後ろ姿を見つめてから、オレは踵を返して歩き始めた。
 よかった。
 ナオト、オマエちゃんとヒナのこと守ってんだな。










 夕陽が容赦なく頬や目を刺す。いつか、マイキー君とドラケン君に授業中に拉致されて、連れて行かれた河原。あの日を繰り返すみたいに、吹いた風がオレの髪の先を散らす。
 久々のひとりぼっちだ。清々しい孤独。
 妙なもんで、マイキー君の声を聞いた途端、めちゃくちゃに泣きそうだったのが嘘みたいに、ずっと喉の奥にあった涙の気配はどこかに消えていた。
 沈む夕日が眩しくて、遮るように手を伸ばした。
 格好つけて表すのなら、救われた旅路だった。
 恋人を、友人を、憧れたあの人を助けるつもりで、いつだって救われていたのはオレだった。あのボロアパートでフリーターをしていた時は、こんなにも孤独を忘れてしまう時が来るなんて思いもしなかった。
 掌を握り締める。ようやくこの手に掴めた。
 長い旅の終わりだった。
 お疲れさん。何度も殴られて刺されて撃たれて死んで。これまでのオマエに献杯だ。もう安心して休んで良いぜ。やっと成し遂げた。
 最高の気分だろ、花垣武道。

「――ミッションコンプリートだ」

 理想の未来じゃねえか、なあ、ヒーロー。





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