ラブソングはいらない
(『人でなしのバラード』どらくんルート)
(オメガバース)
「お」
「あ」
席に着くと隣が見知った男だったので、武道はうっかり手の中の食券を握り潰してしまった。
「よう、今日くそさみぃな」
「はは……そっすね、店ん中天国ですよ」
誰もが知っているチェーン店の牛丼屋、清潔なはずなのにどこか俗な雰囲気のカウンター席。そこで大盛りの牛丼を頬張っていたのは、学生時代からの仲間であり友人たる、龍宮寺堅その人だった。
「ドラケン君も仕事終わりっすか?」
「ん、食ったら戻る。明日朝一で納品するやつが残っててな」
戻ったらイヌピーと交代。そう言いながらお冷をぐいっと呷る龍宮寺に視線だけ向けつつ、皺になった食券を出す。
ぐわっと大きく口を開けて、武道の三口分くらいを口に収めてしまうので見ていて小気味いい。豪快なのに食べ方は綺麗だ。零さないし口の周りにもつかない。ちらと覗く白い犬歯や濡れた赤い舌が見えて、武道は無意識に唇に力を込めた。見てはいけないと思いつつ、視線を剥がせない。
大きな一口を頬張った龍宮寺の、目だけが武道を見た。ばちりとかち合う。
あ、早く、逸らさなきゃ、そう思うのに眼筋は硬直している。ぬっ、と龍宮寺の大きな手が伸ばされた。
――あ、と思う間に、きゅうと鼻を摘ままれる。
「鼻、真っ赤」
ふわ、と、香水だろうか、少し爽やかな甘い匂いが香った。
大きな指はすぐに離れてしまう。武道はぽかんと戻っていく指先を見ていた。
「席替わるか? こっちのが暖房効いてんぞ」
「……あ、や、だいじょうぶ、ダイジョブっす」
ぶんぶん首を横に振って、しつこいくらいにおしぼりで手を擦った。
外が寒くてよかった。頬や耳が赤くなっても誤魔化せる。
せっかく普段はつけないトッピングの温泉卵までつけたのに、牛丼はあまり味がしなかった。
十二月の頭は、日が暮れるとしんと寒さが染み入るようなものに質を変える。吐く息はほんのりと白むが、すぐに都会の雑踏にかき消されてしまう。
「タケミっち、このまま帰りか?」
ジャケットのポケットに手を突っ込んで、マフラーに顎先を埋めた龍宮寺の半歩後ろを歩く。身長差からもコンパスには歴然とした差があったが、彼は武道に合わせてゆったりと人波を進んでいく。あまり厚みのないコート一つの武道のために夜風を遮ってくれる、その気配りが面映ゆかった。
「あ、ハイ」
「送るか?」
「えっ、いやいいっすよ」
思わず胸の前で手を振る。なんでそんな女の子みたいな、という前に、少し振り返った龍宮寺が武道の額に触れた。
――あ、また、自然に。
「やっぱ熱い」
乾いた手が離れて、そのまま彼自身が無造作に巻いている黒いマフラーを外した。やわらかく、まだ体温を残すそれがそっと武道に巻かれる。また爽やかな甘い香り。ぶわっ、と体温が上昇するのが分かった。
「しとけ」
「や、ドラケン君が」
「オレは店もすぐそこだし。嫌なら、」
「い、いやじゃない」
咄嗟に、首元のそれを両手で掴んだ。ふわふわと頼りない手触り、晒された首を撫でるぬくもりに、胸が締めつけられた。
「あ、ありがとう、ございマス……」
「おう」
わしわしと頭を撫でる手の温かさが、寒風の中でじんわりと身の強張りをほぐす。
龍宮寺は変わらず少し前を歩きながら、またポケットに手を差し込んだ。
「……風邪引いてねえか。熱っぽいだろ」
その台詞で、――突然、心臓に氷を近づけられたみたいにひやりと体内の血液が温度を失う気がした。気遣わしげな声が泣きそうなくらい嬉しいのに、心臓はドクドクと緊張をあらわにしている。
「や、……そろそろ、ヒート近くて。だから、全然、大丈夫なんで」
正直に言うか、一瞬迷った。しかし下手に隠す方が不自然な気がして、なんでもないことのようにへらりと笑う。
ヒート――性別がΩである武道を、三カ月に一回襲う発情期。
世の中の性別が男、女と大別される一方で、同じように重要視されるもう一種類の性の区別。優秀な遺伝子を持つ少数派のα、人類の八割が属するβ、そして繁殖に特化したΩ。
武道は繁殖に――孕まされることに秀でた性別だ。世間では未だに差別の対象となりうるそれだが、元東卍の面々にはそのことを隠し立てしていなかった。自身のその第二性が判明したのは東卍の解散後、高校入学の際の健康診断だったが、高校生活でも何かとつるんでいた彼らに、武道は話の流れもあって自身の性別を明かしていた。それで態度を変えるような彼らではないことは、十二分に理解していたので。
龍宮寺も勿論知っているし、武道だって彼の第二性を知っている。
「じゃあ、尚更送る。途中で入ったらまずいだろ」
「いや、そん時はドラケン君が横にいてもまずいじゃないすか」
そう笑って――笑いながら、こういうところがよくないのだと自嘲する。
相手から拒絶される前に予防線を張るところ。こういう言い方をして、形だけでも否定してもらえれば慰めを得られると期待してしまうところ。
ちらと目だけでうかがった彼の顔、こちらを見下ろす眼差しに、武道は呼吸が凍りつく気がした。
痛ましいものを見るような、息苦しさに耐えるようなその目を、今彼から向けられたくなかった。
――発情期に入れば、“番”のいないΩは自分の意思とは関係なく欲情し、フェロモンを放つようになる。そのフェロモンは周囲の番がいないαを見境なく誘惑してしまう。Ωが社会的に疎まれる大きな理由の一つ。
彼、龍宮寺堅はαだった。
風邪ではないから、別にマフラーだって特別必要でもなかったけれど。
でも龍宮寺が取り上げるような真似をしないと分かっていたし、武道もそれに甘えた。
――返すためって、会う口実ができた。
そわそわと心躍ってしまう自分が恥ずかしくて、情けなくて、浮かれる一方で異様な惨めさに襲われる。
結局送ってくれるという龍宮寺をなんとか説得して別れた。武道が通りを歩いていくのを龍宮寺はずっと立ち止まって見送ってくれるものだから、武道も何度も振り返った。本当は自分が、彼の背中を消えるまで見つめていたかった。
タイムリープをした先で、武道はかつて付き合っていた恋人を救った。
彼女と、日向と一緒に人生を歩んでいけたらと、真剣にそう願っていたけれど。武道はΩで、日向はβだった。
“番”の関係はαとΩでしか結べない。αがΩの項を噛むことで成立するそれは、不安定なΩのフェロモンを安定させる特別な契約だ。βの彼女とは交わせない契り。それでも日向は献身的に武道を支えてくれたけれど、先に折れてしまったのは武道だった。心身を削る抑制の効かない発情に振り回され、そんな武道を救ってやれないと悲しむ日向の姿にも胸が抉られた。自分では彼女を笑顔にしてやれない、一緒に幸せになれない。最後まで悲しみ別れを拒んでくれた彼女の手を、突き放すように離した。
日向と別れて、どんどん不安定になり窶れていく武道を支えてくれたのは龍宮寺だった。よく食事に連れて行かれたし、店にも招かれたし、急な発情期でそれらの誘いをぎりぎりにキャンセルした時だって、差し入れを家のドアノブに掛けてくれていた。要領を得ない、愚痴にも恨み言にもならない武道の泣き言を黙って聞いて、背を叩いてくれたのも彼だった。
これで。
これで好きにならないなら、そいつは余程の冷血漢だ。
自覚した時、涙が止まらなかった。恋人と別れた時と同じくらいに、部屋で蹲って声を押し殺して号泣した。
叶わないことは知っていた。龍宮寺には、武道と出会う前からずっと想い続けている、たった一人の女性がいる。
どの面提げて好きだなんて言えるだろう。
彼の最愛の人を、守れなかったのは自分なのに。
運命だったら、よかったのに。
頭によぎる考えの浅ましさに、思わず眉が歪む。
運命の番。α、Ωのそれぞれに、世界にただ一人いるという、文字通り運命的に相性のいい相手。全てを擲ってでも求めてしまう、理屈が通じない本能の希求する片割れ。
目が合っただけで、そうだと分かるのだという。テレビなんかでそういう風に結ばれた番を見たことがあるけれど、所詮隕石が頭に直撃する確率と似たようなものなのだろう。友人知人にも運命を見つけたなんて話は聞いたことがない。
見苦しいにもほどがある。零れた息はすぐに温度を奪われ、風に攫われていった。
なんの意味もないと分かっていても、想像せずにいられなかった。だってもし運命だったら、それだけで、番になるのに他に理由がいらなくなる。ただ運命だからというだけで、彼と結ばれることが出来る。
この無様な恋に免罪符があれば。
――みっともない。
そんなことを考えてしまうこと自体、彼への侮辱に思えて目を瞑る。夜の冷たい風が、巻いたマフラーからふわりと甘い香りを巻き上げた。
甘く、爽やかな。どことなく苦みもあるような匂い。彼の匂い。
一瞬、冗談みたいに視界が霞んで息を詰めた。足を速める。
きっと、発情期前で不安定になっているのだ。だからこんな、香り一つで涙が出そうになる。
首元の毛糸を握り締め、半分走るように家路を急いだ。誰もいない寒々しい部屋にとぼとぼと帰っている自分が、惨めでどうにかなりそうだった。
重い瞼を引き剥がすように目を開ける。しばらくぼうっと薄暗い部屋の中を眺めていた。冷たい空気に、微かに身を震わせる。
スマホの画面をタップすると、時刻は丁度昼頃だった。はあ、と唇から零れた溜め息すら熱っぽい。骨が鉛になったようにだるく、ここが薄い布団ではなく沼の水面であれば、抵抗する間もなくずぶずぶと沈んでいきそうだった。
締め切って空気の淀んだ部屋で、枕元に置いておいたペットボトルに手を伸ばす。身動ぎすると、ぐずぐずになった下半身が水っぽい嫌な音を立てた。気持ち悪い。
ねばつく咥内を潤すと、唇が引き攣るような笑みに歪む。
緊急用に枕元で充電しているスマホ、バスタオルを敷いた布団、あらかじめキャップを緩めておいたペットボトルとゼリー飲料と、PTP包装シートから出しておいた抑制剤。ちゃんと締め切っておいた窓と、回し続けている換気扇。
三か月に一回訪れる発情期。一人で凌ぐための準備ばかり、年々手慣れていく。
これからもこうやって一人で耐え忍んでいく日々が続くのだろうが、どうにも映画でも見ているように実感が湧かない。それでも中学を卒業してからしばらくは、武道は発情期を迎えるたびに情緒不安定になって泣き暮らしていた。
自分の身体なのに自分の意思を裏切る、この情欲がいつも恐ろしかった。
茫洋とした不確かな将来に意識を馳せていた鼻先に、――ふ、と香る。
脳が焼け付くほど、惹かれる匂い。
そっちを見てはいけない。そう自分に言い聞かせるのに、Ωとしての本能が頭をもたげていく。
六畳一間、閉め切った薄暗い部屋に置いてある、武道の私物ではないもの。
本数の少ないハンガーの一つに掛けた黒いマフラーに、目が引き寄せられる。
じゅわりと咥内に唾液が分泌される。はっはっと犬のように息が荒くなっていった。頭がくらくらとして、その匂いを求めて空気を吸い込んでしまう。ずくりと腰が重さと熱さを増す。
目が離せない。それどころか、手も。布団を這い出し、畳をずりずりと進んで、襖上の長押に掛けたそれに手を伸ばした。
本能が、花垣武道という個人を覆っていく。
欲しい。あれが、ほしい――ほしい。
『しとけ』
掠れた声が耳に蘇った。あのマフラーを巻いてくれた手のごつごつとした関節、寒さに赤みを持った耳、鼻先。ぬるま湯のような心配の滲む眼差し。
怯えるように、はっと掌を握り込んだ。
――駄目だ。
あれだけは、駄目だ。
振り切るようにぐっと目を瞑った。握った拳を胸に抱き込み、封じるようにして身体を丸める。瞑った瞼の隙間から涙が染み出す。
喉の奥から漏れる情けない嗚咽を押し殺し、二酸化炭素を吐き出す。熱を孕む皮膚を、それを上回る熱さの涙が滑り落ちて次々と布団に吸い込まれていった。ひゅうひゅう息を漏らしながら、背を丸めて足をぎゅうと閉じる。
こんなのおれじゃない。
君を汚したくない。
――ガサ、と音がした気がした。
ふっと目を開けると、ぽろりと涙が鼻筋を横切って落ちた。頭を少し上げるが、チャイムが鳴らされる気配もない。
気のせいか、と枕にぼすりと頭を沈めた時だった。すぐそばのスマホが震える。重い指を置くようにタップすると、メッセージが入っていた。
龍宮寺からだった。
暗い部屋で、うっすらと光る画面。そこに在る文字列がぼやけては戻る。
『体大丈夫か。ドアノブにスポドリとか掛けといた。取りに出る時は周りに誰かいないか気を付けろよ』
はっと玄関を見る。布団から、這うように進み出た。立つのも苦しくて、のろのろと畳を這いながら玄関を目指す。
上がり口の手前で、なんとか上半身を起こした時だった。
ざり、と、靴と細かな砂が擦れる音が扉越しに聞こえた。
顔を上げる。
そこにいる。
彼が――いる。
「――――、」
どらけんくん。
はく、と動いた口を押さえた。名を呼びそうになった。喉がこんなにも渇いていなければ、きっと音になって出ていた。
古いアパートの、耐久性のなさそうな扉の向こう。彼がまだそこに立っている。
全て見えるようだった。ドアノブにビニール袋を掛けて、片手をジャケットのポケットに突っ込んだまま、片手でスマホを操作して。唇から白い息を吐いて。
すぐに既読がついたメッセージの画面を、見つめている。今、そこで。
ぼた、と日焼けした畳に雫が落ちた。
咄嗟に、曲げた人差し指の背を噛んだ。荒くなる息を噛み殺して、強く目を瞑る。
ともすればこの扉を開き、その胸に飛び込んで、この項に歯を立ててくれと泣いて懇願しそうだった。自分を硬く閉じ込めるように、指を血が滲むまで噛み締めて項垂れる。
呼んではいけない。
彼だけには、縋ってはいけない……。
今、扉一枚隔てただけの彼が、こんなにも遠い。
濡れた畳に額を押し付けた。
来ないで。ここに来て。離れて。オレを抱き締めて。近づかないで。そばにいて。
矛盾する本音たちが喉の奥でぐるぐる回る。
――すきだ。
好きだから、名前は呼べない。
彼がここに来てくれた。自分を心配して――もう今ここで、死んだっていい。
しんと冷えた冬の空気が身体を這い上る。このままこの熱を全部奪い取ってくれと願った。欲情しているΩではなく一人の人間のまま、彼を好きなただの花垣武道のまま死ねるのなら、もう何もいらなかった。
ふと目を開ける。いつの間にか、玄関の前で眠ってしまっていた。
身体の芯は熱いのに、寒い。固まった関節がぎしぎしと痛んだ。まずい、となんとか手を伸ばし、ブランケットを身体に巻きつける。
壁を支えに、震える足を叱咤してなんとか立ち上がる。ゴミ出し用のつっかけになんとか足を押し込んで、そろそろと玄関に近づいた。
外に気配はない。そっと開けると、いつもより扉に重みがある。ドアノブにはやはり、ビニール袋が引っ掛かっていた。
もたもたと袋片手に布団へ戻り、中を覗き込む。入っていたのはスポーツドリンクとゼリー飲料、それに冷却シートも。以前差し入れてくれた時と似たラインナップ。武道が、言ったからだ。あれがすごく助かりましたと、昔発情期が明けた時に礼をした。
あのドリンクが飲みやすいと言ったのも、あの味のゼリーならなんとか食べられると話したのも。彼は覚えていてくれたのだ。
壊れた涙腺がまたはたはたと雫を落とし始め、袖で擦る。
あんなくだらない会話、覚えてないでよ。
何が一番嫌って、こんなことで死ぬほど喜んでしまう自分が一番嫌だ。醜くて恥ずかしくて、許せない。
彼を好きにならなければ、こんな自分を知ることもなかった。ここに来て責任転嫁をしてしまう自分があまりにみっともなくて逆に笑えるのに、涙はしばらく止まってくれなかった。血の固まった人差し指がずきりと痛む。
D&Dは以前訪れた時と同じく綺麗に磨かれたバイクが並んでいて、武道はショーウィンドウ越しに顔を綻ばせた。そんな武道に気づいた龍宮寺が、中で目を瞠っている。その顔が少し可愛く見えて、ひらひらと手を振った。
あれから無事発情期を終えて、ようやく仕事に復帰したその帰り道。マフラーと礼のビールの缶を入れた紙袋片手に、武道は龍宮寺のバイク屋へ足を踏み入れた。
「これ、返しに。あの、差し入れ、ありがとうございました」
ビール、飲んでください。紙袋を掲げ、なるべく軽く見える笑顔を作る。返したらすぐに立ち去るつもりだったのに、なぜか引き留められてしまった。カウンター奥の事務所で、出されたコーヒーのカップをそわそわと撫でる。龍宮寺は何やら電話をしていた。武道はソファーから腰を浮かそうとしては、結局また戻るを繰り返していた。
「あの、今日、イヌピー君は……」
「もう帰らせた」
ようやく電話を切った龍宮寺が淡々とそう返す。通話相手は乾だったらしい。その表情はどこか硬く、だから武道はさっきからずっと落ち着かなかった。
「体調、大丈夫か」
抑揚の薄い低音に問われて、カップをテーブルに置いて頷く。
「あ、はい、何事もなく」
「そうか」
気まずい沈黙が満ちる。龍宮寺は育った場所のせいか聞き上手で、いつもさりげなく話を振ってくれるからあまり会話が途切れたことがなかった。慣れない静寂がなんだか怖くて、そして龍宮寺との間にこんな居心地の悪さが存在するのがつらくて、武道はやはりもう帰ろうと立ち上がった。それと同じタイミングで、龍宮寺が口を開いた。
「今朝、エマに会って来た」
――ちゃんと、取り繕ったつもりだったけれど。それでも肩やら膝やら、関節が強張ったのを見透かされてしまったかもしれない。
恥ずかしくなって俯く。一番に感じたのは悲しさだったが、それに混じって湧いたのは確かに嫉妬だった。こんな時まで自分のことばかりで嫌になる。みっともなさに恥じ入りながら、それでも顔を上げて続きを促した。彼は今、おそらく心の内の大事な部分を慎重に言葉にしていた。武道に何かを伝えるためにだ。
じっとその場に立ったまま、龍宮寺は少し目を伏せた。
「中学の時、――タイムカプセル埋めた時、将来、誰かのこと好きになって結婚したりすんのかって考えた。あの時のオレは、いつかエマを忘れるのが、エマを好きだって気持ちを忘れるのがこわかった。けど、――何年経っても、まだエマが大切だ。たぶんこの先も」
それは武道からすれば、紛れもなく、一つの曇りもない愛情だった。
武道の目にゆっくり水の膜が張る。人はこんなにも純粋に誰かを愛せるのだと、醜い嫉妬心を覚えたばかりの自分に眩しい。けれど恋に破れた事実を改めて突きつけられた痛みよりも、今はただ凪いだ喜びに支配されていた。これが自分が好きになった龍宮寺だと、すとんと胸に落ちる。
唇が自然に弧を描く。死ぬほど痛くて苦しいのに、安堵している。この世で最も満たされた失恋だ。こんな風にふられるなんて、自分はなんて幸せなんだろうと思わずにいられない。
「……へへ、すんませ、」
手の甲で目を擦る。なんでオマエが泣くんだよ、って彼は笑うだろうから、だってこれは仕方ないでしょ、と言う準備をした。
しかし涙を拭う手を、龍宮寺に取られた。
右手と、身体の横に投げ出していた左手。両手を取られる。
上背のある彼が、じっと武道を見下ろしていた。
武道より一回りも大きい手は熱く、少し力の入った指先が武道の手の骨を圧した。
「……そんなオレがオマエに告白するのを、許してほしい」
ゆっくり、瞬きをした。
閉めた蛇口から、水滴が一つ垂れる。そのぐらいの時間を要した。
じわりじわりと目を見開いていく武道に、龍宮寺は何も言わず、自分の言葉がちゃんと伝わるのを待った。目はやさしく自分の手の中の両手を見下ろし、無骨な親指が武道の左手、その傷痕をなぞる。
「オマエのことがずっと好きだった。もっと早く伝えりゃよかった。臆病モンですまねえ」
一歩、足を退いた。しかし龍宮寺の手の力が強まって、それ以上離れることができなくなる。
なんで。どうして。疑問が脳裏を埋め尽くす。――だって。
「オマエが守れなかったって、自分を責めてんのも知ってる。それをオレに分けてほしい」
武道が問うより先に、龍宮寺はその答えを差し出した。真っ直ぐ、誠実に。自分が知る龍宮寺のままで。
ぼろぼろと涙を落とし始めた武道を、温かな腕が抱き寄せた。広い胸に額を預ける。微かに、甘く爽やかな香りがした。香水とばかり思っていた。全身で身体を包まれている。音もなく降る温かい雨のような抱擁に、ますます涙が溢れ出た。
「エマの分まで、オマエを幸せにさせてほしい。オマエが好きだ」
とうとう嗚咽を喉に閉じ込めるのも難しくなって、胸に縋りつきながら呻いた。
「……お、っおれ、ごめ、ごめん、なさい」
「ああ、知ってる。どうか一緒に、背負ってほしい。背負わせてほしい」
言う資格のなかった懺悔は、十二年越しに、当たり前のように静かに受け入れられた。
一人で生きていくのだと思っていた。一人であの熱に、孤独に浸る日々が続くのだと。諦める覚悟をした体温が、武道に寄り添う。許しはもう得られないけれど、それでもたった一つ願ってもいいのなら、彼と許しを望みながら、生きていきたかった。
「オマエの傍にいて、守るって誓うよ」
ぎゅう、と閉じ込めるように腕に力が込められた。
「オレたちは運命じゃない。でも、オマエがいい」
花垣武道がいい。
腕の中で咽び泣く武道を強く強く抱き締めて、龍宮寺はそのこめかみに口づけた。随分と遠回りをした恋の、最初の一区切りだった。
三十七度、ちょうど。
やはり周期はずれていなかった。体温計片手にほっと息をつく。
トークアプリを開き、『七時半には帰る』という龍宮寺からのメッセージを見つめる。両手に満たない文字数のそれを、さっきから何度も眺めてしまう。口元がだらしなくにやけるのが分かったが、それを咎める人もいない。
椅子の上で両足を抱えた。他人様の家は、家主や他の人の目がなくてもなんとなく、歩き回るのが憚られる。
それが番の家でもだ。
熱っぽい頬を擦る。発情期に入り始めたせいで熱いのか、恋人の家にいる事実に照れて熱いのか、武道本人にもよく分からなかった。
番になってから、初めてのヒートだ。二日前から泊まらせてもらっている龍宮寺の住むアパートの一室は、彼の姿がないと広々として見える。この二日で武道の定位置になった椅子に腰掛けて丸くなっていると、少しずつ息が上がっていくのを実感した。本格的にヒートに入ったらしい。
じっと、向かいの椅子を見つめる。仕事用のツナギが一枚無造作に掛かっていた。龍宮寺が洗濯機に入れ忘れたものだ。
……怒られるかな、と迷っている。さっきから。
見るからに汚れている訳ではないが、これを持ってベッドに上がったら怒られるだろうか。仕事柄、大小あっても汚れは避けられないだろうし、見た目は綺麗でもオイルとかが染みている可能性もある。
そろそろと、誰に見られている訳でもないのに足音を殺して椅子を下りた。ツナギを手に取る。くたりとした袖を持ち上げ、恐る恐る鼻先を近づけた。ツンと鼻腔を刺すエンジンオイルの匂いと、微かに、武道の慣れ親しんだ、龍宮寺の匂い。
じわ、と頬に新たな熱が溜まる。
慌てて、ぱっと腕を伸ばし遠ざけた。正直に言えば、顔を突っ込みたい。変態のようかもしれないが、番の匂いに安心するのはΩとしての本能だ。このツナギもぎゅうぎゅうに抱き締めたかったけれど、しかしなんとか耐えて武道はそれをひとまず洗濯機に放り込んだ。視界に入らないようにしなければ。
放り込んだところで、やっぱりやめればよかったと、急に途方もない寂しさに襲われる。
体温はますます上昇し、下半身に重い熱が滴るように溜まっていくのを感じる。ふらふらと、残る理性でなんとか未練を引き剥がして寝室まで向かった。
寝室が、一番龍宮寺の匂いに満ちている。覚束ない足取りで、それでもそわそわと衣装ケースに近寄った。引き出しを開けると落ち着いた色合いの衣服が並んでいる。畳まれたそれらを崩すのは気が引けたが、咥内には自然と唾液が溢れてしまう。ごく、と飲み込む。
発情期のΩは、番の衣服を集めて“巣”を作る。番の匂いに包まれることで精神の安定を図るのだ。
巣作りはΩの本能に基づく行為であると共に、番であるαへの愛情表現でもある。しかし、衣服を散らかしてしまうことも事実だ。いいのだろうか、と熱っぽい頭にもまだ躊躇いが根を張っている。出来れば彼に迷惑は掛けたくない。けれど、どうにも寂しくて心細くて、彼の匂いに少しでも身を寄せていたい。
ふと顔を上げて、武道ははっと目の前のそれに手を伸ばした。
季節が巡り出し、少しずつ温かくなって、もう今の時期ではほとんど使わなくなったものだ。あの日彼が巻いてくれた、黒いマフラー。
そっと毛糸の塊を抱き締めて、鼻先をうずめた。番の匂いにうっとりと目を緩ませると共に、今朝出掛ける時、龍宮寺に言われたことを思い出す。
何かあったらすぐ連絡しろ。家のもんは好きにしていいから、ここにいてくれ。
大きな身体で包むように武道を抱き締め、唇を甘く啄んでから仕事に行った恋人。玄関で見送る自分を振り返って、「オマエが中に入ったの確認しねえと仕事行けねえ」と笑った。武道だって、姿が見えなくなるまで見送りたかった。けれどそんな風に愛おしむような目で言われたら、戻らざるを得なくて。
なんとなく、心の奥底で分かってはいた。自分の番はこんなことでは怒らない。
武道が未だに臆病だっただけだ。
いそいそとマフラーを首に巻く。柔らかな肌触りに満足しつつ、入っている薄手のセーターを引っ張り出した。
目を閉じていても、光というものは瞼を透けて感じる。
唐突に光に晒されて、武道はむずかるように眉を寄せつつどうにか目を開いた。
「おう、おはようさん」
夜だけど。
そう笑った恋人の顔をしばらくぼんやりと眺め――武道はようやく覚醒した。がばっと起き上がろうとして、出来ない。
「あ、」
「落ち着け落ち着け」
熱を持った身体は意思の通りに動かなくて、ただびくりと跳ねただけでまたベッドに沈む。ベッドの端に腰掛けている龍宮寺にあやすようにぽんぽんと、折り重なった衣服の上から腹を撫でられた。ぱさ、と頭の近くに置いていた龍宮寺のカーディガンが枕に落ちる。
セーターも上着もデニムも肌着も、分別なく引っ張り出して作った巣はこんもりと武道を覆っている。自分はそこにすっかりうずもれて、龍宮寺が帰って来たのにも気づかず爆睡していたらしかった。
いくら匂いに安心したからと言って、恥ずかしい。
発情期に加えて羞恥で林檎のように赤くなる武道に、龍宮寺は喉で笑った。愉快で仕方ない、と言った様子だ。下ろしている黒髪を軽く掻き上げている。
「わりぃ、巣、崩す前に一応声掛けたんだけど」
「いや、オレ……ごめんなさい、気付かなくって」
龍宮寺の手が、赤い頬をするりと撫でた。特別意図を持った触れ方ではないのに、慣れ親しんだ皮膚の硬さに武道の身体からはくたりと力が抜けてしまう。
「それだけこの家で気抜いててくれたんなら、オレは嬉しい。わざわざ迎えに来てくれんのも、新婚みたいでたまんねえけど」
低い声が砂糖を煮溶かしたように甘ったるくて、武道は無性に恥ずかしくなり近くの衣服を手繰り寄せて顔を隠そうとした。しかしデニムを握り締めたところで、はっと喉を緊張させる。
「あの、オレ、勝手に服……」
「ん。巣、上手に出来てんな」
くしゃっと大きな手が武道の頭を撫でた。巣を褒められたことに、Ωとしての本能的な喜びがどっと胸に溢れる。それと同時に龍宮寺がこういう自分を受け入れてくれたその事実に、心臓がぎゅうと甘く痛んだ。
龍宮寺は微かに目を瞠った。
「どうした?」
「や、う、……うれしくて……」
感極まってぐすぐすと泣き始める武道に、龍宮寺は一瞬固まって、それからすぐ武道に覆いかぶさった。目尻に何度もキスされて、涙を吸い取られる中武道はあ、と気付く。微かにシャンプーの匂いがした。髪も微かに湿っている。
「おふろ……」
「ん、入って来た」
道理で髪を下ろしているはずだ。どれだけ寝てたんだ、と自分が情けなくなるが、龍宮寺の唇が皮膚をなぞるたびにやわやわとした花に埋もれるような多幸感で、脳内がぼやけてしまう。
ちゅう、と唇が武道の額に押し付けられた。
「帰って来たら、オマエのフェロモンの匂いがすげえしてさ」
頬を滑る黒髪が擽ったくて目を閉じると、睫毛を潰すようにキスが降る。
「すぐにでもセックスしたかったけど、汚れてっからシャワー浴びに行ったんだぜ? な、我慢した番にご褒美くれよ」
唇がぴたりと合わさる。柔らかさを味わうように幾度も食まれて、やがて厚い舌が強請るように武道の唇を撫でた。下唇をそっと噛まれ、武道は酸素を求めて口を開ける。なのに空気を吸い込むより先に、かぶりつくように大きな口に塞がれてしまった。見えない傷を労わるように丹念に頬の内側を舐められて、ふうふうと濡れた吐息がたまに唇の隙間から漏れる。龍宮寺の舌が武道の小さな舌を包むように絡め取る。じゅうと吸われると、それだけで達しそうになった武道の腰はびくんと跳ねた。
鼻で息をするのが未だ苦手な番に喉の奥を震わせて笑い、龍宮寺は唇もちゅ、と吸ってから解放してやる。唇の端から飲み込み切れなかった唾液を垂らしたまま、武道ははふはふと口を動かした。
「お、おれ、風呂はいってない……」
ここに来てそれを気にするのか、と龍宮寺は無性に目の前の男に噛みつきたいような、撫で繰り回したいような衝動に駆られた。痛がるようなことはしたくないが、抗いがたい欲求を目の前の鎖骨を甘噛みして誤魔化す。
「入ってない方がいい」
すう、と番の何より誘われる香りを肺に吸い込んで、酔いしれながら龍宮寺は大事なプレゼントの包装を解くように、そっと布で出来た巣を崩した。硬い指がシャツの下へ潜り込む。ほとんどない腹筋をゆっくり圧されると、武道の口からは「あう」と自然に声が押し出された。
「お、おさないで、いっちゃう……」
奥のきゅうと痺れるような切なさに譫言のように素直にそう口にすれば、龍宮寺の喉がごくり動いた。
こめかみや頬に唇を押し付けられながら、性急に武道の衣服が剥がれていく。熱い掌を甘受して、しかし龍宮寺の片手が喉を這った時、思わず武道はその手の上に自分の手を置いた。
「これは、とっちゃだめ」
緩められたマフラーを鼻まで引き上げ、ほうと安心の息を吐く。龍宮寺の手がぴた、と止まった。
ぱちりと武道が腫れぼったい瞼を瞬かせると同時に、マフラーに指を引っ掛けられてがぶりと直接鼻を噛まれた。
「ふ、ぐぅ」
「本人いるだろーが」
あぐあぐと鼻梁を犬歯でなぞられる。武道はまた、繰り返しぱちぱちと瞬きした。
「……ふふ、」
「笑うな」
「ふ……、だってぇ」
あの龍宮寺が、マフラーに嫉妬するなんて。
いつも彼の前で武道ばかり余裕がないから、こんなことが嬉しくて、頬が緩むのを止められない。たまに子供っぽくなる恋人が可愛くて仕方なかった。
妬かないで、君の匂いに包まれて、君のこと待ってた。そう伝えようとして思い出す。そういえばまだ言っていなかった。
「おかえりなさい、ドラケン君……」
腕を伸ばして、ぎゅうとその分厚い身体を抱き締めた。
こうして抱き締める度に、武道は自分がもう少し大きければ、と思う。もっと自分も、彼を余すことなく包むようにこの腕に閉じ込めたい。
いつも自分たちの抱擁は少し不格好で、ちぐはぐだ。パズルのピースがかちりと嵌まるように、互いに誂えられたような二人にはなれない。
ただ、傷を綺麗に埋めることは出来ないけれど、傷ごと全てを柔く包み込むように、この先ずっと互いを支えて生きていくのだと思う。そんな人と結ばれることと、運命の相手に出逢うこと、どちらの方が奇跡だろうか。分からないが、天秤にかけるのなら、武道はどちらを取るかとっくに決めている。項を、全てを捧げたあの時よりも前に。
ベッドと武道の間に腕を差し入れ同じように番を強く抱き寄せた龍宮寺は、武道と触れるだけのキスを交わす。
互いの熱を馴染ませるように額を合わせた。
「な、一緒に住まねえ?」
見上げる武道の目が大きく瞠られた。その反応一つ眩しいと言うように目を細め、龍宮寺は熱の籠った頬を撫でる。
「帰ってきてオマエがいるっていうの、すげえいい。あの防犯のなってねえとこにオマエ置いとくのも心配だし……オレが移るんでも、新居探すのでもいいけど」
武道は、額の熱を感じながらぼんやりと言葉の意味を咀嚼した。ベッドの上ではなく、まるで身体が宙に浮いたみたいにふわふわと頭の中も揺らいで、実感が湧かない。
龍宮寺と一緒に住む。そんな夢みたいなことがあってもいいのだろうかと、しばし逞しい腕の中で呆然とした。
「おれ……」
感情と理性が噛み合わない武道にすら、龍宮寺は嬉しそうに笑ってまたその唇を吸った。
「ん、いいよ、今のオマエに言うのはズルな気ぃするし。またヒート明けにするわ、プロポーズ」
あれ、同棲の提案じゃなくて、プロポーズ?
熱に浮かされた頭でその意味を考えようにも、熱い肌に痕を付けられるともう天地も曖昧になってくる。ふわりと広がる甘く爽やかな香りに包まれて、ぐずぐずと皮膚がふやけそうだ。数か月前に噛まれた項が、ずくんと疼く。
唇に、手に、香りに、吐息にすらとろとろに溶かされて、武道はもうその熱に逆らわず甘ったるい声を上げた。
今はもう溺れていいだろうか。今すぐだろうとヒートが明けてからだろうと、恋人へ出す答えはどうせ変わらないのだし。手を伸ばすととらえられ、人差し指の背に口づけられた。あの日一人で指を噛んで耐えた孤独は、この熱にとっくに溶けてしまっていたらしい。