この小指を貴方に(前編)




 男一人暮らしの六畳一間に、猫が一匹増えた。
 拾った、というか、拾わせられた。





【2017/07/02】

「アイス食べたい」
 スーパーの冷食コーナーで、マイキーが武道の袖をくん、と引いた。
「ムリ。ただでさえいろいろ出費嵩んでんのに」
「一番安いのでいいからー」
 ぐいぐい腕を両手で引っ張られて、適当に積んでいた買い物カゴの中身ががさがさ崩れる。
「あーいーすー」
「いた、痛いって、ちょっと、自分の握力自覚しろよ」
 呻く武道の腕にそのまま自分の腕を絡ませ、マイキーが頬を膨らませた。通路を通り過ぎる主婦の跡を追いかけていた小さな女の子が、武道たちを振り返ってくすくすと笑う。
 マイキーを引き摺るようにレジへ向かいつつ、ぽいとカゴに放り込まれたチョコレートを棚に戻す。
「痛い、痛いマジで、マイキー君さ、なんか、格闘技とかしてたんじゃないの? めっちゃつえーし、腹筋もバキバキだしさあ」
「……知らねー」
 つんと唇を尖らせて不機嫌そうになるマイキーに嘆息する。最近彼の“過去”に言及すると、すぐこれだ。
「花垣さん? お疲れさまです」
 びくっと猫背を伸ばして振り向くと、そこには職場の同じバイトの女の子がいた。確か大学生だったはずだ。「あ、お疲れさまデス」と笑顔を取り繕って会釈する。彼女の視線は、ちらちらと武道にくっつくマイキーに向いていた。興味津々、という顔。心なしか頬も赤らんでいる。
「弟さん……ですか?」
 言いつつも、そうじゃないだろうなーという意図が透けて見える。明らかに顔面の系統もレベルも違うもんな。武道は内心血涙を流しつつ、へらへら愛想笑いを続けた。
「あ、従弟なんです、ちょっと今、預かってて」
 もし聞かれることがあったらこの設定で行こう、とあらかじめ打ち合わせをしていたことをそのまま伝える。「そうなんですね」と頷く彼女は、明らかにマイキーを紹介してほしそうだった。
「行こ、タケミっち」
 本人も気づいているはずなのに、いや気づいているからか、眉根を寄せて武道の腕を引っ張る。「すんません、人見知りで、」と誤魔化しつつ、つんのめるようにマイキーに連れられて行く。
「ちょっと、不自然に思われたらどうすんだよ」
「あの設定、やっぱやだ」
 レジの列の最後尾で、マイキーが頬を武道の肩に押し付ける。
「恋人ってことにしようよ」
「冗談抜きでオレが捕まるんだけど」
 むくれる少年が、ごち、と武道の顎に頭突きした。










【2017/04/02】

 この我が儘で、気紛れで、とにかく腕っぷしが強い淡い金髪の猫は、路地裏で見つけた。
 見つけた、というより、見つかった、という方が正しい。
「ひッ」
 夜勤明け、だらだらと歩く家路。街灯の光も離れた夜道で聞こえた人の呻き声に、武道は身を竦めた。
 生まれてこの方、心霊系は大の苦手だ。バクバクと心臓が鳴り出して、慌ててスマホを取り出しプレイリストを再生した。それでも近所迷惑になるから、あまり音量は出せない。
 音楽を掛けても耳は徐々に大きくなっていく声を拾ってしまって、逆に軽快なメロディーが空しい。ささやかな音楽を響かせて、ライトで道を照らしながら進んだ。
 一際呻き声が大きくなった。武道は発生源であろう狭い路地裏へ、恐る恐るライトを向ける。きっと照らした先には何もない、もしくは猫とかが鳴いてるだけかもしれない。とにかく光の下に晒してしまえば、杞憂と分かる――
「ぎゃあっ!?」
 鬼がいた。
 鬼は片手で男の胸ぐらを掴んでいた。もはや掴まれた襟だけで立たされている状態の男は、明らかにカタギじゃなかった。袖をまくった太い腕にスミが入っている。しかしその顔はボコボコに腫れ上がって、鼻も口元も血塗れだ。よくよく視線を動かせば、同じような感じの男がもう一人、地面に伸びている。
 どちらも、屈強そうな、よく言えば善良な一般市民でないタイプの方々だった。そいつらを伸したであろうその鬼は、なぜその細腕で男を持ち上げられるのかと言うほど、華奢に見える――まだ、少年だった。
 スマホのライトに、薄い色の金髪が光る。
 少年は武道が路地を照らす前から、こちらに気づいてじっと武道を見ていた。ライトに眩しそうに細められることもない目は、幾度も墨で塗り固められたような黒だった。
 白い頬に返り血が散っている。
 少年は放り捨てるように男を置いて、路地を出て武道へ向かってくる。震える手にスマホを持ったまま、武道は恐怖に腰を抜かしてへたり込んだ。
 少年は武道より小柄なのに、歩むその一歩一歩がひどく重い。正体の分からない圧力が武道に伸しかかった。
 ころされる。目を瞑ることさえ出来ず見上げていると、武道のすぐ目の前まで来た少年は、すとんとその場にしゃがんだ。手慣れたヤンキー座りで。
 自分の膝に頬杖を突き、武道をじっと夜の海みたいな目で見つめていた少年は、唐突に口を開いた。
「今夜泊めてくんない?」
 少年が差し出した手は、血塗れだった。武道は生存本能だけで、それをぶるぶる震える手で取った。







「……あの、名前は?」
「あんたの名前は」
 家に入った途端、あまりの部屋の汚さに無言でゴミ袋やら脱ぎっ放しの服やらを容赦なく脚で押しのけた少年は、自分のスペースを確保して胡坐をかいている。
 名乗りたくない、と言いたい。オマエが先名乗れよ、と言いたい。言いたいが、まだ命が惜しい。
「……花垣、武道」
「何歳?」
「二十六……ほら、君は?」
 個人情報の開示への抵抗感がすごくて、避けるためにもそう強く返す。何もない、薄暗いだけの天井の隅を見つめながら少年は口を開いた。
「……、マイキー……」
 ぽつりと、確かめるような声音だった。
 少年はさっきまで他人を殴っていたとは思えないほど大人しくて、別人のような――魂が抜けたような。突然の頼りなげな様子に、武道の中の恐怖心がほんの少しだけ引っ込んだ。
「……それ、本名? 日本人、だよな?」
「分かんない……」
「え?」
 茫洋とした視線が武道を向く。

「名前は、マイキー。十五歳……だと思う。後は、分かんない」







 どんな殴り方したら、人二人殴ってこんな拳の傷め方をするんだ。
 指を開くとくぼむ、手の甲の関節。擦り剥けたその部分が痛そうで、武道は顔を顰めながら消毒液を掛けた。染みるかとちらっと表情を疑うが、少年――マイキーは眉一つ動かさない。
 親。連絡先。学校名。出身地。家族、友人、恋人、ペットの名前……。思いつくことは粗方質問してみたが、本人は全部「分からない」としか返さなかった。一フリーターの手に負える案件ではなかったので、武道は当然、警察に連絡しようとした。スマホを操作するその手を掴んだのはマイキーだ。
「サツはやだ」
 ……絶対アブナイやつじゃん。
 武道はダイヤルが表示された画面を見ながら、わりと本気で泣きそうになった。名前と歳以外分かんないとか言うくせに、警察はサツって呼ぶのかよ。
 本当に記憶喪失であれ虚偽であれ、何かしら面倒なことに巻き込まれている、いやその瀬戸際に立っている。出来ることなら回避したい。児童相談所? とかいっそ救急車とか、ひとまず名前を出してみたが全部首を横に振られた。記憶喪失の未成年を保護した場合の対処法をググりたかったが、がっちり掴んでくる手のせいで指が全く動かせない。
 その手が血塗れのままで、武道は「うぇ」と呻いた。
「ひとまず手当てしようか……」
 手を洗わせて、消毒して、救急箱の奥に眠っていた、干からびたように潰れた傷薬のチューブからなんとか薬を押し出す。家にあるのは大小いくつかの絆創膏だけで、処置し終えた頃にはなんとも不格好に絆創膏が貼られた一対の手の甲が、武道の膝の上に投げ出されていた。
「ねえ、タケミっち」
「は?」
 黙って不器用な治療を施されていたマイキーが、自分の手の甲をまじまじと見つつ武道をそう呼んだ。あだ名だろう、たぶん。生まれてこの方、呼ばれたことないけど。
 独特な距離の詰め方をした少年は、武道の手を握って上目遣いにこちらを見つめた。
「オレ、ここにいていいよね?」
 それは別に、あざとい仕種ではなかった。どちらかと言うと、見上げられているのに圧迫されている、有無を言わさない初対面の時みたいな、あの感じ。
 時は四月、夜はまだ冷える。しかし少年は薄手の服にサンダルで、財布もスマホも何も持っていなかった。まさに身一つ。何も持ち得ぬその姿は、しかし険しい雪山を歩む狼のように洗練されていて、隙がない。
 面倒事の瀬戸際、関わってはいけない渦の入り口。その入り口で何とか巻き込まれまいと足を踏ん張っていた武道は、中から伸びて来た傷だらけの手に、あっさり引っ張り込まれてしまった。















【2017/04/05】

「おかえりー」
 靴を脱ぐ時聞こえてくる声に、どきりとする。
 顔を上げると、壁を背に座ったマイキーが、雑誌を読みつつ視線だけ武道に向けていた。
「……ただいまー……」
 返事をするのが、なんとも気まずい。
「晩御飯食べた?」
「ン、まだ」
「ええ、だめじゃんなんか……カップ麺あったろ」
 背負っていたバックパックを雑に下ろす。本当はもっと、“ちゃんとした”食事を取らせるべきなのは分かっている。分かっているが武道は料理も得意じゃないし、夜勤明けはその気力もない。出来るのは安くなった惣菜に、罪悪感を軽くするためだけのインスタントの味噌汁を付けるくらいだ。
「ラーメンでいい? それか焼きそば……明日はなんか、弁当とか買って帰る」
 適当に戸棚に突っ込んでいるカップ麺たちを混ぜ返す。マイキーは雑誌を置いて、のそのそと近づいてきた。
「……ペヤングある?」
「ペヤング……は、ない、え、好きなの?」
 マイキーは少しの沈黙の後、「いや?」と首を捻った。武道も同じように首を捻る。
「……でも知ってるんだな、ペヤング」
「んー、うん」
 こくんと頷くマイキーは、より幼く見える。適当にラーメンを選んでビニールを剥ぎ取る横顔を盗み見た。
 マイキーがここにやって来て、三日が経つ。武道は未だに、家にある他の生き物の気配に慣れない。
 彼を拾った翌日、武道は目を開けたら彼がもうどこにもいないかもしれないと思いながら起床した。まるで白昼夢のような出会いだったから。しかし上半身を起こすと、狭い我が家にいたのは片膝立ててテレビを見ているマイキーで。心臓が引き絞られると共に、彼が印鑑や通帳を連れて煙のように消えなかったことには少しほっとした。
 突如始まった他人との同居生活に、武道はずっと戦々恐々としている。同居人が大の大人をほぼ無傷で沈められるような、狂犬のごとき猛者とあれば尚更だ。
 マイキーは、武道が出逢ってきた今までの誰とも違う。
「食べたいなら、今度買って来るけど。ペヤング」
「いーよ、別に」
 湯を沸かしていると、マイキーがカップ麺の蓋をベリベリと開ける。武道の分もしてくれた。
「……食ったら記憶戻ったりして」
「そんなソース塗れの記憶なんかやだ……」
 記憶喪失とはどういうことなのかを、武道はいまいち分かっていない。
 フィクションでは、一般的な知識や常識は備わったまま大切なひと――大方情熱的な出会いをした恋人だ――と出逢った数年の記憶だけ消えることがほとんどだ。しかし現実的にはどうなのだろう。マイキーは箸だって使えているし風呂だって入れているし、着替えも歯磨きも普通にしている。通常生活を送るだけのスキルはちゃんと記憶している訳だ。
 しかしながら、マイキーはそれほど口数が多い方ではなく、彼が何を把握し何を知らないのか、武道はほぼ掴み切れていなかった。しかも現在、ちょっと前に学生バイトが一気に二人抜けてシフトが増えている。家で顔を合わせる時間自体短いのだ。
 武道が仕事の間マイキーが何をしているのかも、聞いたことがない。ずっと家の中にいるのか、外に出ているのか。なんとなく聞きづらくて、そのままだ。
「あ、モヤシ、モヤシあった、炒めよう」
「ええー、なくていい」
 マイキーが顔を顰める。うちでちゃんと野菜が出るのは、たぶん彼が来て初めてだ。由々しき事態だが、それはそれとして、野菜が好きじゃない自覚とかそういうのはあるんだなと思った。
「そりゃオレ一人ならいいけどさ……」
 明らかに子どもである彼に、インスタントや出来合い物しか食べさせないのは気が引ける。
 ふつふつと気泡を上げる鍋の前に立っていたマイキーが、菜箸でがさがさモヤシを炒める武道の手元を覗き込んできた。
「ねえ、マイキー君さ」
 絶対年下だろうけど、マイキー、と呼び捨てにするのは気が引けて、武道はそう呼んでいる。
「どうしてぇの?」
「どう……どうって?」
「警察は、嫌なんだよな。病院も? 記憶、戻したくないの?」
 ボロアパートに住むしがないフリーターにだって、大人としての責任感は少なからずある。本当は彼をここに置いておくべきでないことなんて、百も承知だった。
 鍋がぐらぐら煮立って来たのに、モヤシはまだ全然硬そうだ。ほとんどインテリアと化していた塩胡椒を振って、また菜箸を動かす。
 マイキーがコンロの火力を下げた。彼はちゃんと覚えている、知っている。水を火に掛ければ沸くことも、火を弱めるにはどうしたらいいかも、――きっと、記憶喪失の自分が知らない男の家に居座ることの意味も。
 フライパンを見下ろしていた顔を上げ、マイキーがにっこり笑った。
「取り敢えず今は、腹減ったな」
 ……それはそうだ、食べ盛りだろう。
 焦って火力を上げたせいで少し焦げたモヤシ炒めを、カップ麺にぶち込む。マイキーが素直にじゃきじゃきとモヤシを頬張っているのが、少しおかしかった。















【2017/05/13】

 食べ盛りの健康優良児のために、武道は料理のレパートリーがちょっとばかし増えた。これまでの自分がしてきたような生活習慣病まっしぐらの食生活に彼を巻き込むのは、さすがに罪悪感があったのだ。かと言ってテイクアウトも外食も懐の事情で限界がある。自炊の他に選択肢がなかった。
 レパートリーと言ってもそのほとんどが炒めるだけの名もなき男飯だ。この前安い豚コマとキャベツを焼肉のタレで炒めたところ、あっという間に炊飯器の米が消えた。我が家のエンゲル係数は着実に上がっている。
 だが今日は、ダメだ。マイキーを拾ってから、早ひと月も過ぎたのに、その実感がない。十二連勤明けなのだ。仕事仕事で、日々は光より早く過ぎていった。
 時は夕刻、締めまでのシフトではなかったので、スーパーにでも寄って帰りたいところだが。今タイムセールの荒波に巻き込まれたら死んでしまう、と武道はふらつく足取りでバイト先であるレンタルビデオショップから出た。
 コンビニとかで弁当買って帰ろう。よたよたとすり切れたスニーカーで表へ出ると、西日が疲れ目にじんと染みる。
 その時、チリンチリン、とベルの音がした。
「ようオニーサン、乗ってかない?」
 ショップの斜め前、歩道に止めた自転車にもたれるように座って、ベルを鳴らす少年。
 武道はぽかんと口を開けた。
「マイキー君、なんで」
「迎え来た」
 だらりと腰かけているマイキーは、少し離れて見るとそこだけ雑誌の街角スナップみたいだった。着ているのは、ダサいと評判の武道のパーカーなのに。
 自分にセンスがないのは二十六年の人生で武道はとっくに自覚済みだ。昔の友人たちにも散々言われた。しかし今やつらに言いたい。どんなダセェ服でも、顔面とスタイルのいいやつが着れば「あーそういうのが流行ってんのかな?」と思わせられる程度には、見られるようになると。所詮人間見た目が十割、服も髪型も最後は顔で決まるのだ。
 彼は武道の自転車に跨って、顎で背後を示した。
「後ろ乗って」
「エ、捕まるかも」
「へーきへーき、今人いないし、オレ速いし」
 撒く気か? とちょっと引いたが、立ち仕事で疲労の溜まった足には魅力的な誘いだ。荷台のところに畳んだジャケットを置いて、その上に座る。ところどころ錆びているから、ジャケットは洗濯行きだ。
 職場から自宅は遠く離れているわけではないけれど、途中で急な坂があって、そこがきついのでずっと電車通勤だった。なので自転車はほとんど置きっ放しにしていたのだが。
「タイヤ、空気大丈夫だった?」
「ふにゃふにゃだったから空気入れたよ」
「え、どこで?」
「なんか下の階の人が貸してくれた、空気入れ」
 マイキーが漕ぎ出しながら、「道もそのひとに聞いた」とちょっとだけ振り向いて微笑む。武道は間抜けな顔をしていたのだろう、マイキーは今度はけたけたと声を上げて笑った。
 武道のあずかり知らぬ間に、マイキーはご近所さんと仲良くなっていた。武道の一人暮らしだった頃は会釈しか交わさなかったような人とも、普通に談笑している。おかげで武道まで自然と交流を持つようになった。
 いつだったか、マイキーが武道の家にいることに関して、「学校で虐められて不登校になり親戚のお兄さんの家で療養している」という話になっていて噎せたことがある。いじめられて……? あの腹筋シックスパック中坊が……? 見た目は金髪だががっちりしている訳でもないし、雰囲気も緩いので、黙っていると確かに強そうには見えないが。答えづらい話題には口を噤んでいると、周囲は勝手に妄想を膨らませて勘違いしてくれるらしい。この前下の階の老婦人に「頼れるお兄ちゃんがいてよかったわね」と言われたマイキーが「ほんとにねー」と笑って武道の肩を抱いたので、武道も頬を無理やり押し上げた。顔面攣るかと思った。
「来る時めっちゃ坂きつかったろ?」
「? 別に?」
 不思議そうに首を傾げられる。若さ……と震えたが、マイキーの脚力がすごいだけかもしれない。
「うわ、前見て前」
「タケミっちが話しかけるからだろー?」
 電柱が近づいてきて、ついマイキーの服を掴む。彼は焦った素振りもなく華麗に避けた。「ふふ、」と少し機嫌の良さそうな笑い声が確かに耳に届いた。
 そろそろ例の坂だ。
「マイキー君、」
「掴まってろよー」
「え、わ、わ、わ!」
 ブレーキも掛けず、マイキーはハンドルに手を引っ掛けるみたいにしてそのまま自転車で坂を駆け下りた。
 ごう、と耳元で風が鳴る。
 武道は思わずマイキーの腹に腕を回し、しがみついた。硬い腹筋がわずかに震えた。
 男二人分の体重で加速していく自転車が、バイクに匹敵するスピードで下っていく。流れていく景色は尾を引いて、風がマイキーの髪をめちゃくちゃに嬲った。
 夕陽が、ちょうど沈んでいく。赤とオレンジのあわいを彷徨う光が、マイキーの髪と空気の境界をぼかした。ふわふわと柔らかな髪が光に透ける。星が散ったみたいにたなびく髪が煌めきを振りまいた。
 風が頬を裂くように撫でる。夕陽を紡いだみたいな髪の隙間から、オレンジに染まる街並みが見渡せた。
 ――きらきら、してる。
 密着している背中から伝わる、力強い鼓動。彼の腹筋のまろい盛り上がりに触れた指先、頬を押し付けたパーカーのさらさらとした感触、じっくりと腕に馴染んでいく体温が、急に鮮明に感じ取れた。
 さあ、と前髪を押しのけて風が額を押す。
 やがて、ギイイ、と引き攣れるような音と共に、スピードが落ちていった。ペダルから離れていたマイキーの足が、なめらかにそれを再び捕まえる。何とはなしに、大縄跳びで途中から入る時、引っ掛かったことなさそうだなという感想を抱いた。
 自転車は生殺しみたいに時間をかけてスピードを減殺され、やがて坂を過ぎてしばらくすると、マイキーがまた力を入れて漕ぎ始めた。道を進み、踏切を過ぎ去り、河原橋を通り抜ける。武道はゆっくりと身体を離した。
「……今日さ」
「ンー?」
「炒飯で、いい? 卵とソーセージしかないけど……」
「やった」
 小さな子どもみたいに弾む声に、武道もつい笑う。
「そんでさぁ、明日、カレー作ってみない?」
「マジ? サイコーじゃん」
 ぎゅん、と自転車がまた加速して、慌てて腰にしがみつく。いたずらが成功した顔でマイキーが振り向いた。















【2017/05/14】

「ダメだ、人参高い……なくていいよな?」
「ウン、でもじゃがいもはいる」
「それはモチロン……アスパラ、安い……」
「ええーカレーにアスパラ?」
 中高生に見える男の子と成人男性が、平日の昼間からスーパーで野菜片手にあーだこーだ言っているのは、ほどほどに目立つ。実際周囲の主婦たちはちらちら視線を寄越していたが、二人はカレーの具材に熱中していた。
「入れたら美味しいかも」
「アスパラってのはベーコンで巻いてようやく食いモンになるんじゃん」
「まあ物は試しだし、コイツに人参の代わりを任じよう」
「えー……」
 不満げに眉間に皺を作って、マイキーは恨みでもあるようにカゴのアスパラを睨んだ。武道は気づかないふりをした。最近、彼に野菜を食べさせることに意地になっている自分がいる。
 カートを押す武道に、ポケットに両手を突っ込んだマイキーがついて来る。肉は? 牛はムリ。鶏安いって。鶏ももにしよう。唐揚げ用って書いてる、唐揚げも食べたい。素人が揚げ物に手出しちゃいけないんだたぶん。
 特売と銘打ってある鶏ももを一パック。ほんとはもう一つ欲しいけれど、調子に乗って出費を重ねれば後が苦しいので泣く泣く我慢した。
 ルーはマイキーが「絶対甘口」と言い張るので、仕方なく子供用の可愛いパッケージのカレーにした。この一カ月と少しで、マイキーが甘党であることは早めに把握している。
 さっき肉を我慢したばかりなのに、カレーを食べた後のデザートのアイスは絶対美味いということで安いバニラアイスも買った。カゴに入れてからちょっと調子乗ったかと真顔になってしまったが、マイキーが楽しげなので武道も深く考えないことにした。
 その他安くなっている日用品もついでに買い込み、二人で袋をがさがさ言わせながら家路を辿る。早めに作って、煮込み時間を長くしようという算段だ。素人の浅知恵とも言う。
「――あ、ゼファー」
 マイキーが不意に一軒の民家に目をやってそう言うので、視線の先を追う。
「あいつはベンだよ。オレには吠えるのに下の階の梅本さんには吠えないんだよ、人選んでんだあいつ」
「犬じゃねーよ」
 てっきり犬小屋の前で寝ている犬の話かと思ったら、「バイクだよバイク」と呆れた顔をされた。
「あのバイク? かっけーな」
「うん。タケミっちバイク好き?」
 そりゃ男で嫌いなやついないだろ、というのは料簡の狭い発言だろうか。武道も、今でこそしょうもないフリーターだが、中学時代はそれなりにイキっていた。不良グループのナンバーツーをしていた、その頃が人生のピークだったと言える――後にどん底に落ちたが――。男で、では主語が大きすぎても、(元)不良で、だったらそれほど見当違いの意見でもあるまい。
「そりゃーな。マイキー君、詳しいんだな、バイク」
「そうみたい」
「好きだったのかもな」
「うん、そうみたい」
 武道は少し驚いた。記憶が戻るきっかけになるかもしれないと、ちょくちょく過去に関して話を振ることはあったが、どれも要領を得ず。素直な肯定が帰って来たのは初めてだった。
 磨かれた機体に注がれるは、木漏れ日みたいに柔らかかった。
「……寄る? バイク屋」
 なるべくさりげなさを装って訊く。
 武道は正直まだ、マイキーが記憶を戻したいのかどうか分からない。
 やわく弧を描いていたマイキーの唇が引き結ばれる。一瞬、瞳が遠くを見た。
「……この荷物で?」
 マイキーが両手の袋を持ち上げる。わざとらしい仕種で。
 武道は、「バイク屋も引くかもね」と遠回しに断念することを伝えた。マイキーがじゃがいもの入った袋をゆらゆら揺らしてまた歩き始める。
 武道は、この会話を忘れないようにしようと思った。なんとなく、もう誘わない方がいいかと思ったのだ。





「手だけは切らないでね」
「分かってるって」
 カレー作りに取り掛かる、最初の時点で二人は「あれ、もしかしてハードル高かったんじゃね?」とちょっと焦った。芋の皮を剥くという難関が、初っ端立ちはだかってきたのだ。
「なんだっけ、ピーラー? 便利道具うちにないし」
「切ってから皮取る方がやりやすい気がする」
「それだ」
 男二人、ローテーブルを挟んでちまちまとじゃがいもの皮を剥く。武道はカリカリと芋の芽を包丁で引っ掻いた。
「芽って取らなきゃなんだよな、毒あるって」
「どうやって取んの?」
「なんか、こう、尖ったとこで、ぐいっと」
「ぐいっと」
 テレビでやっているようには上手くいかない。大小不揃いの不格好な芋の欠片たちを鍋に移し、今度は洗ったアスパラを前に唸った。
「アスパラって全部食えんのかな」
「そんなんも分かんねーのに買うなよ」
「そうだ、安いからって理由で買うと痛い目見るんだよな、忘れてた」
 こういう時こそグーグル先生、とスマホをいじるとマイキーが覗き込んでくる。ここ最近気づいたが、彼はSNS系統とか、流行に疎い。カレーに人参を入れるとか、バイクの名前なんかは知っているのに、流行りの物には詳しくない。マカロンだって知らなかったし、この前マイキーのなんらかの発言がツボにはまって「草」と言った時は怪訝な顔をされた。
 たぶん、興味がないんだろう。世間で何が流行っていようが廃れようが、意にも介さない、揺るがないものがある。武道にはないものだ。
 ちょっと羨ましいと思ったり。
「あ、根元の方は剥くらしい」
「ピーラーねーのにー?」
「うちに本当に必要なのはピーラーであったか……」
 アスパラの処理をマイキーに任せ、武道は玉葱を切り始める。
「待ってやばい、目に染みない玉葱って書いてたのにめっちゃ染みる」
「目真っ赤。あれじゃねーの、なんか、なんちゃら効果。思い込みのやつ」
「あーなんだっけ、えー……ラ行が入った気がする」
「ラ、リ、リー……なんだっけ」
「うわー気持ち悪い、助けてグーグル先生」
「待ってそれだと負けた気がする、ここまで出てる、ここまで……」
 野菜を切って、肉をそのまま鍋にぶち込んで。水が多すぎたかと不安になったり、ルーを入れたらそれっぽくなって感動したり。
 後は煮込むだけ、という段階になった時には六時を過ぎていた。昼過ぎに作業を開始したのに。おかしい。
 カレー一つ作るのにも疲労困憊になり、二人してだらんと畳に転がる。
「いーい匂いするー……」
「美味く出来てるといいな……」
「オレ山盛りがいい」
「うん…………あ、米炊いてなくね?」
「マジ?」
「やばいやばいやばい」
 飛び上がって慌てて炊飯器を開ける。武道が釜を持ってくるとマイキーがすかさず米を入れた。連携も慣れて来たものだ。



「フツーに美味い」
「うん、フツーだ……」
 もりもりとその身体のどこに入るんだという山盛りのカレーを確実に減らしていくマイキーの前で、武道もむぐむぐと頬張る。
 芋はほとんど溶けていたし、ルーも思っていたほどとろみがない。可もなく不可もなく、不味くはないけれどとびきり美味いという訳でもないカレーだった。
「アスパラ縮んでね?」
「鍋入れると縮むんだな、アスパラって」
 値段だけが理由でカレー連盟に臨時加入したアスパラは、邪魔じゃないけどわざわざ入れるほどじゃないよね、という味だった。摂取する野菜を増やせたのでよしとしよう、と武道は自分に言い聞かせる。
「あんなに時間掛かったのになー」
「でもさ、明日はもっと美味いかもよ」
 可もなく不可もないカレーを口いっぱいに頬張って、マイキーがにっこり笑った。
 武道からすると甘口のカレーはやっぱり舌に優しすぎて、「ちょっと物足りない」と目を逸らしてばつ悪く呟く。なんだか妙に、気恥ずかしかった。















【2017/05/15】

 クソ過ぎる。
 胸中で荒んだ悪態をついて、武道は河原の石を蹴飛ばした。
 職場にいるのだ、嫌な社員が。店長が嫌味を言ってくるのはまだいい、自分が無能なのは自覚している。労働意欲だって薄いのは事実だ。しかしその社員は仕事とは関係のないことをねちねちと、直接的侮辱にはならない程度に遠回しに、癇に障る言い方をしてくるのだ。
 こっちが立場の弱いアルバイトだからというのもあるし、純粋に年が近いのに正規雇用ではない武道を下に見ているのだろう。しかし、確かに社会的には自分は底辺だが、人にどうこう貶される筋合いはない。かと言って本気で怒れば、冗談なのにむきになるなとすぐ逃げるし。
 クソだ。むかつく。
 いつもならヤケ酒でもするけれど、今はマイキーがいる。彼の前でそんなことをするのは躊躇われた。大人としてのプライドどうこうというより、まだ子どもの彼に、社会のそう言うままならなさを見せるのが嫌だった。
 そう、マイキーだ。暇だからなのか、武道の仕事が夕方に終わる時、彼は武道を自転車で迎えに来るのが習慣になった。さすがに夜勤の時は、補導されかねないので来ないよう言い含めているが。
 店までやって来たマイキーと話しているのを、その社員にいつの間にか見られていたのだ。そして下衆の勘繰りというやつだ、関係を邪推してきた。むかつく。マイキーを汚されたみたいでむかつくし、ちゃんと謝罪を引き出せなかった自分にもむかつく。
 何より、彼との関係が堂々と言えるものでないという事実が、一番武道の胸に深く刺さった。
 もし本当の関係がばれようものなら、自分は誘拐罪だの未成年略取だので捕まるのかもしれない。そうでなくても、マイキーと一緒にはいられなくなる。
 そもそも、マイキーの記憶が戻ったら。きっと彼はあのアパートから出て行くだろう。猫みたいにふらりと、前触れもなく。
 夜勤の日の帰りはいつも緊張する。家に帰って、「おかえりー」と気の抜けた声が聞こえるまで、最近いつも心臓がどきどきしている。
 これまでずっと一人で暮らしてきたのに。
 足元の石を拾って、夕陽に光る川面に投げ込んだ。今日は夕方までのシフトだったが、マイキーには肉を買い足しておくよう頼んでいたので迎えには来ないはずだ。昨日の夕飯で、二人でカレーの中の肉をほぼ食い尽くしてしまったのだ――一パックにしたのはむしろ英断だった、絶対倍量でも食い尽くしていた――。肉のないカレーは犯罪だ、ということで、とにかく安いやつを適当に買って来てくれと頼んでいた。
 まっすぐ帰って玄関にマイキーのサンダルがなかったら不安だから、河原で時間を潰している。傍から見ればろくでもない大人に見えるだろうし、実際そうだ。
 薄くて丸い石を拾って、回転を掛けながら投げる。二回、三回、四回、――五回水面を跳ねただけで、呆気なく沈んでしまった。
 まだガキの頃の方が上手かったよな。急に中学生の頃を思い出した。いつもつるんでいた四人。今頃どうしているのだろうと、懐かしむ資格もないのかもしれない。全部捨てて来てしまった。
 あの頃は、まだ、自分がこんな情けない大人になるとは思っていなかった。
 もう一度投げた石は、二回跳ねただけであっさり沈んだ。
 ――キキーッと、背後でブレーキ音がした。
「いたー!! 馬鹿!!」
 振り向くと、土手の上で自転車に跨ったマイキーが、武道を睨みつけていた。
「え? マイキー君、」
「なんでこんなとこにいるわけ!? めっちゃ探しただろ!」
 自転車を置いて、ほぼスライディングみたいに土手を駆け下りてきた。武道だったら絶対つんのめって転がり落ちている。マイキーは柳眉を吊り上げて、ずかずか武道の隣までやって来た。
「なんで……」
「ハ? こっちの台詞なんだけど。迎えに行ったのにいないし、訊いたらもう帰ったって言うし。でも家戻ってもいないし」
 たぶんこれまでで一番機嫌を損ねている。つやつやとした眉間にくっきり皺を刻んで、苛立たしげにマイキーが小石を蹴った。
「いや、肉買って来てってお願いしてたからさ……」
「買ったついでに寄った!」
「ゴメン……」
 憤懣やる方なし、といった様子のマイキーは、じっと武道を見た。初めて会ったときみたいなぎらつく眼光はそこになかった。この川をもっと下った先の、水に揉まれ磨かれてぴかぴかになった黒い石みたいな目だ。でも柔らかい。全部受け止めて、沈めて、溶かすみたいな、照明を落とした部屋の天鵞絨のように、頬を埋めたくなる慕わしさを持った黒だった。
「なんかあった?」
 頬に触れた指はかさついていて、見た目華奢そうなのにしっかりと男の手をしている。平たい爪が武道の目の下を、線を引くように撫でる。
 武道が思い出したのは母親だった。似ても似つかない男を前にして、ヒーローごっこをしては泥だらけで帰って来た小さな武道少年に、呆れたような顔をしていた母を思った。もうずっと会っていない。
 誰かに心配されるって、こんな感じだった。ぱちりと瞬きすると、マイキーの眉が少し下がった。
 武道は首を横に振る。
「んーん、……なんか、元気になった」
 不器用に笑う武道に、マイキーは少し顔を顰めたが、やがて、仕方ないなあとでも言うように大袈裟に溜め息をついた。
「なんで河原? バカヤローって叫んでたの? 夕陽に」
「何時代だよ」
 それに近いことはしていたかもしれないが。足元の石を拾って、またサイドスロー。八回跳ねた。
「下手だなー、タケミっち」
 何を、と反発しようと思ったが、マイキーが適当に拾った――ように見えた――石を投げると、その石は水面とほぼ水平に飛んで、スピードを殺さないまま続けざまに跳ねた。
「五六七八九十……、……、……うわ、え、三十いったよな今、スゴッ。初めて見た」
「ほーら」
「山岸……昔のダチがさ、上手でさ。でも三十まではなかなか」
「タケミっち友達いたんだな」
 ストレートに無礼な発言だったが、言われても仕方がない。今現在武道の家に訪ねてくるのは、訪問販売か宗教勧誘の二択だ。
「昔はな」
「今は?」
 夕陽を受けてきらっと光った双眸が、武道の顔を覗き込んでくる。
「タケミっちの話聞きたい」
 ……ストレート過ぎて、戸惑う。ぱっと視線を外した。
「別に、話すような特別なことも」
「なんでもいいよ」
 武道は急に気恥ずかしくなって、水切りに向く石を探すふりでしゃがんで俯いた。
「しょーもねー人生だし……」
 社会の理不尽の話などすまい、と思っていたのに、ついぽろっと口から自虐が出る。マイキーが隣で同じようにしゃがんだ。
「初めて会ったとき、音楽掛けてたの、なんで? いっつもああしてんの?」
「あの時は、マイキー君が人、殴ってたじゃん。声聞こえてたんだよ。それで、」
「怖くて? 見つかる方がやばいとか思わなかった?」
「いや、殴られてる人の声だとは思わなかったからさ……」
「あれ、なんて曲?」
 マイキーに問われると、武道はどうしてか、答えないという選択肢がなくなってしまう。あの曲はアメリカのバンド、店内BGMで偶然聞いてから好きになった。洋楽は別に特別好きなわけじゃなかったけど、でも中学の時親友だったやつは詳しくて、よくCD貸してもらった。中学生の時はちょっと不良で、いつも同じ面子でつるんで……。
 ほろほろと、灰が崩れるように次から次へと言葉が落ちる。マイキーがうん、うんと頷く度、武道の口から遠い過去が零れ出た。ある日本物の不良に調子に乗ったところをしめられて、奴隷生活が始まったこと。情けなくも全て捨てて逃げ出したこと。それが逃げ続けの人生の始まりだったこと。友人も彼女も、誰も彼も裏切り投げ出したこと。
 話しているうちにとっぷり日は暮れて、人工的な光が遠くに灯るだけになった。川面が何かしらを反射して光っている。
「彼女、いたんだ」
 マイキーの人差し指が、ころんと足元の石を転がす。
「その一人だけね」
「どんなコ?」
「すげー可愛かった……オレなんか、なんであんな子が好きになってくれたんだろーなってくらい、いい子でさ……」
 でも、全部捨てて逃げてしまった。
「だせーよな……」
 武道の手が、欠けて歪んだ石を見つける。妙に哀れっぽくて、指先で摘まんだ。
「見る目あんね」
 顔を上げると、マイキーの指が武道の指にする、と絡む。そのまま指のラインを辿って、指先の石を奪う。
「見る目あるよ、その子」
 立ち上がったマイキーが、流れるようなモーションでその石を投げる。それは暗く光る川の上を、滑るように遠く長く跳んでいった。





 夜風が二人の髪を乱す。自転車の、周囲に自身の存在を知らせるためだけの小さなライトが、一メートル先を照らしている。
「ね、商店街の肉屋でさ、安いの買えた、豚肉。なんか入荷間違えて安く売ってんだって」
「マジ? ラッキーじゃん」
「コロッケおまけしてもらった」
「はあーオレおまけとかしてもらったことないわー……さっすがイケメン」
「帰ったら半分こしようよ。カレー乗せようぜ」
「え? 食べてないの? 揚げたてが美味いんじゃん」
 自転車を飛ばしながら、マイキーが振り向いて頬を膨らませた。
「タケミっちと食おーって思ってたのに。帰るのおせーし」
 武道は前を見て、と言うのも忘れて目を瞬かせた。なんだそのいじらしい発言は。心臓を内側から擽られたみたいに、落ち着かなくなる。
 誤魔化すように、河原で話したみたく、取り留めもないことを口がぺらぺらと話し出した。あのバイクがあった家の犬は、名前はベンだけど性別はメス。この先の高架橋近くには昔美味しい和菓子屋あったけれど、今はそこの吊り看板が錆びていて風が強い日は取れそうで怖い。職場の近くにある喫茶店のメロンクリームソーダは、何故かサクランボではなくレーズンが乗っている。
 マイキーの楽しげな相槌が風に乗る。
「――思い出した」
 不意にぴんとマイキーの背筋が伸びて、武道はどきりとした。マイキーのパーカーを握り締める。
 布地に食い込んだ指が外せない。深呼吸しようとすると、喘ぐような息になった。
「……、――マイキーく、」
「プラシーボだ」
「…………え?」
 くるっと振り向いたマイキーが顔を輝かせた。
「プラシーボだ、思い込みのやつ」
「…………、……あ、あー!」















【2017/06/06】

「ただいまー」
「おかえりぃ」
 仕事から帰ると、テレビを見ていたマイキーの頭が玄関を向く。彼がやって来て二か月と少し、雑誌や漫画もとっくに二周三周してしまっただろう。娯楽の少ないこの家で時間を潰すのは至難の業だ。何か買って来ればよかったな、と武道は内心少し後悔した。
「何見てんの?」
「なんか昔の、遊郭はこんなのですみたいなやつ」
「バラエティーとかにすればいいのに……」
 マイキーはこういったエンタメに執着が薄い。選り好みせずなんでも見るとも言えるが、あまりチャンネルを替えたりしているのも見たことがなかった。正直画面を見ているだけで内容は頭に入っていない、みたいな感じだと思っていたので、はっきり応答が帰って来たことに武道は少しばかり驚いた。
「夕飯食べた?」
「んー」
「じゃあちょっと晩酌付き合って」
 ずりずりと古い畳を移動するマイキーに、武道はジュースの缶を差し出した。
 明日は休みだからビールを飲もう、とスーパーに行ったものの、結局選んだのは発泡酒。少し高い、果汁百パーセントのオレンジジュースを買ったからだ。
 かつん、と缶を合わせた。
 焼き鳥と賞味期限が近い柿ピーをつまみに、黙々と缶を呷る。テレビはもう番組が切り替わり、北極のペンギンの子育てがナレーションで語られている。見ているとなかなか面白くて、武道は横にした焼き鳥の串を引き抜きながらよちよち歩きの雛に見入った。
「タケミっちってさ、なんでオレを置いてくれてんの?」
 前触れもなくマイキーがそう言った。
 ローテーブルにぺったり頬をつけて、上目遣いに武道を見ている。その目がちら、と自分の顔のすぐ脇に置いたジュースの缶を見た。
「……え?」
「さっき、昔の吉原の遊女の、指切りの話してた」
 テーブルに頬をくっつけたまま、マイキーが長い睫毛を瞬かせた。
「愛の証明に、切った小指を相手にあげるんだって。でも遊女は相手を騙すのに、指の贋物贈ったりしてたって」
 アルコールで若干ぼんやりしてきた頭で、こえーな、と武道は思った。自分の小指をぎゅっと握る。その筋の者でもあるまいし、誰にも渡したくないものだ。
 のそりと顔を起こすと、マイキーの髪がテーブルの上を生き物みたいに滑る。
「オレが記憶ないの、嘘かもって思わなかった?」
 武道はぐびりと缶を傾ける。安っぽい慣れた味が舌の上でしゅわしゅわ弾けた。
 思わなかったと言ったら、真っ赤な嘘だ。なんなら今だって半分、思っている。
「嘘でもいいよ」
 武道だって問いたかった。君、どうしてオレのとこにいるの、マイキー君。
 彼ならこんなテレビと古びた雑誌くらいしかない部屋より、もっと暇を持て余さない居場所を手に入れられるはずだ。
 でもマイキーは二か月経った今でも武道が「ただいま」と言えば「おかえり」を言うし、マイキーが帰って来た時は互いの言葉が入れ替わる。
 ただいまもおかえりも口に出したのは何年ぶりか、思い返すのも気が遠い。だから、もういいのだ。
「ジュース、美味しい?」
 マイキーは缶の飲み口、プルタブで開かれたその小さな深淵を見つめた。缶を持つ手を動かせば、たぷんと手の中で物が流動する感触。
「……ウン、美味しい」
 酒気で仄かに頬を染めた武道が、「よかった」とへにゃへにゃ笑う。
「あのさ、今度、近くで祭りあるんだって、七夕祭り」
 唇を緩めて、武道が目をとろんとさせながらそう言う。もうだいぶアルコールが回っていた。
「一緒に行こうよ」
 マイキーがじっと、夜の猫のような目で武道を見つめる。二人が一緒に赴くのは近所のスーパーと、武道のバイト先が主だ。やましいことはしていないが、堂々と言えるような関係じゃないから、二人で出掛けることなんて今までなかった。
「タケミっち、タケミっち寝ないで」
「んー……? んん……」
「ねー言質取ったからね、明日忘れたとかナシだかんな」
 かくりと頭が傾くと、ゆさゆさ肩を揺さぶられた。らしくなく少し興奮気味のマイキーを見上げて、武道は半分夢心地のまま「んふふ、」と笑った。いい夢が見れそうだったのだ。















【2017/06/20】

「あっハイ、特に異常なしです、はい、ゴシンパイお掛けしました……」
 電話を切って、ふうと息をつく。
 こぶが出来た頭をさすり、武道は病院の硬い椅子に腰掛けた。もう時間も遅く、待合室に人はまばらだ。
「早く帰らなきゃ……」
 ぽつんと、声に出したそれが空しい。
 きっとマイキーが心配している。しかし腰が重い。すぐに立ち上がろうと思えない。
 散々な一日だった。まさか、職場で失神することになろうとは。
 クレーマーが原因だ。もっと言えばあのむかつく社員が、対応をミスったのが原因だ。丁度交代で店に出た時、がなり声でまくし立てるそいつが店長に手を伸ばしたので、思わず武道は割って入った。嫌味しか言われた覚えのない店長とはいえ、六歳も年下の女性だ。見過ごせなかった。
 しかしここで格好良く事を収められるなら、二十六歳フリーターなんてしていない。
 勢い込んで踏み出したら踵の潰れたスニーカーが滑って、見事ひっくり返った。そのままカウンターに後頭部を強打。武道の意識はそこで途絶えた。
 目を覚ましたのは病院で、自分が救急車で運ばれたことを聞かされた。因みにクレーマーは武道が勝手に失神したことにビビって帰ったらしい。無駄な気絶じゃなかったな、と取り敢えず自分を慰めた。
 検査はされたがまったくもって異常なし、ただの脳震盪という診断になった。そのことをバイト先に伝えると、そのまま直帰するようにとのこと。素直に従った。もう武道のライフはゼロだ。死ぬほど恥ずかしい。
 例えばマイキーだったら、あっさり追い払えたんだろうな。
 思っても仕方のない考えが浮かんで首を振る。モンスタークレーマーは追い払えた、それだけで万々歳だ。
 よいせ、とアラサーらしく立ち上がった時だった。「走らないでください!」と看護師だか医師だかの高い声。
 振り向いた先の廊下に、マイキーが立っていた。
 ――いつも君って、オレを見つけるな。
 彼がなぜここにいるのかを考えるより、心配をかけたことを申し訳なく感じるよりも先に、出てきた感想がそれだった。
 マイキーは近づいて来るかと思ったが、離れた場所に突っ立って動かない。肩で息をしているのが見えた。
「マイキー君」
 名を呼んで武道が近づくと、びく、と肩が震えた。
 制限された照明が届きづらい場所で、彼の真っ青な顔が見えた。額には大粒の汗が滲んでいて、はあはあと荒い息が届く。尋常ではない様子に、武道は咄嗟になんと声を掛ければいいのか分からなかった。
 マイキーは視線を彷徨わせ、んく、と一度唾液で喉を湿らせた。
「……たまたま寄ったら、救急車で運ばれたって、聞いて……」
 ぐっと握られた拳に、武道は手を伸ばそうとした。
「ごめん、検査もしたけど全然大したことじゃなかったんだよ。ただの脳震盪」
 安心させるように笑いかけた瞬間、マイキーがその場にしゃがみ込んだ。
「まい、」
「ここ、嫌だ」
 膝を抱えて顔を埋め、小さく小さく、身体を押し込めるように丸くなってしまう。押し潰すような声音に、武道は彼が泣いているのかと息を詰めた。しかし肩は震えることもなく、嗚咽も何も聞こえない。殺すような息遣いが、二人の影の合間に落ちる。
 こんなマイキーを見るのは初めてだった。触れればそこから罅が入って、乾いた土くれのように崩れそうで、すっと武道の肺の底が冷える。
「早く……、帰ろう、タケミっち……」
 縋るような声に、その手を掴んだ。冷え切った指に掌を押し付ける。使命感にも似た焦燥に突き動かされ、彼自身の腕を掴むその手を引き剥がし、握り締めた。妙な感覚だった。しっくりと手に馴染む皮膚、形だった。この手は自分の手の中に収まっているべきだと、傲慢なことを思った。
「うん、うん……。一緒に帰ろう」
 ぎゅうとその手を握って囁く。世界中から逃れるように息を潜めて、彼の肩を抱いた。
 帰りに自転車を漕いだのは武道だった。マイキーはずっと、武道の背中にしがみついていた。





 その日の夜、武道はふと目を開けた。開けたけれど、降ってきたものに反射的にまた目を閉じた。
 ぱた、ぱた、とぬるい雫が頬に、目元に落ちてくる。
 もう一度ゆっくり瞼を上げる。覆いかぶさってくるマイキーの目から、はたはたと涙の粒が落ちていた。
 彼がここに来た当初、二人で敷布団と掛布団を分け合って眠った。そのうちタオルケットを買ったりもしたけれど、しばらく前から同じ布団の隅で眠るようになった。
 狭い六畳一間の、もっともっと狭い、薄い布団という名の敷地。安住の地。
 暗い部屋で、窓から差し込む人工光に流れる金髪が淡く発光する。マイキーの手が、投げ出された武道の手を押さえつけるように掴んでいた。
 陰になった黒の瞳から、とめどなく雫が落ち続ける。
「……夢、見たんだ。タケミっちが冷たくなっていく……」
 声はどんどん萎んで、マイキーは震える声で縋るように「タケミっち」と呼んだ。武道の胸元に額を擦りつけてくる。苦い声とちぐはぐな甘えるような仕種に、心臓が握り締められたみたいに痛んだ。
 記憶がない。そのことが嘘でもいいと心から思う。でもマイキーが以前「思い出した」と言った時、武道はついに、その時が来てしまったと思った。来て“しまった”――そう感じたことに、罪悪感で一瞬眩暈がした。
 ある日ふとこのアパートでの生活に飽きて、消えてしまうかもしれない。その日にずっと心のどこかで怯えるようになった。だから考えが及ばなかった。彼はまだ子どもだ。大人が守ってやらなければならない子ども。
 どんなに強くても、鷹揚としていても、大人の武道がちゃんと庇護してやらねばならなかったのに。
 覚えているのは名前と年だけ、持っているのはその身一つ。自身のルーツが手元にない不安は、どれほどのものだろう。
 今、彼には自分しかいないのだ。
「マイキー君……」
「タケミっち、やだ」
 そっと肩を掴み剥がそうとすると、むずかる赤子のように首を振る。その背中を叩いてあやした。硬く、しかしまだ未成熟な若木のようにしなやかな身体の震え。
「マイキー君、指切り、しよう」
 潤んだ目が武道を向く。赤くなった鼻の頭が可哀想で、ぎゅうぎゅうに抱き締めて甘やかしてやりたくなった。肌触りのいい毛布で包んで、濡れた温かいタオルで顔を拭いて、蜂蜜を入れたホットミルクを飲ませてやって。そんな風に武道が知る優しいもので埋め尽くして、彼が求めるもの全部、叶えてやりたかった。でも武道が与えてやれるものなんて、初めからほとんどなくて。
 力なくシャツを掴んでくる手の甲を優しく撫でて、小指を絡めた。
「約束。置いていったりしないって」
 きゅうと骨張った小指を締め付ける。マイキーの指が、縮こまるように武道の小指を捕らえた。
 武道の視界まで滲んで、唇を噛む。無力で、不甲斐なくて息苦しかった。もっと、それだけで彼を安心させられるような確証を与えたかった。歯痒さに叫び出したくて、奥歯を噛み締める。
 小指を絡めて、もう片方、マイキーに捕まった手も握り返す。マイキーが瞬きすると、長い睫毛の間に膜を張っていた涙がぽろりと落ちた。
「うん……タケミっち、タケミっち……」
 すん、と鼻を鳴らしてマイキーが武道の首筋にすり寄る。ずっと手指を絡めていると、やがてマイキーは穏やかな寝息を立て始めた。すうすうとあどけない息を零す唇は、安心したように力が抜けて薄く開いていた。
 子どもの遊びみたいな約束に、命を懸けてもいいとすら思えた。自分からこの弱々しい子猫を手放すことは、決してあるまい。いつか彼が自分の意思で旅立つまで、必ず守るとそう覚悟した。世界にふたりぼっちの、誓いの夜だった。















【2017/07/02】

 スーパーから帰ると、することのない休日に武道は流れるようにだらけた。
 ポテトチップスをパーティー開きして、パリパリと口に放り込む。マイキーも食べるかと思ったのだか、壁にもたれて漫画を読んでいた。武道は寝転がったまま流しているだけのニュースをぼーっと眺める。チャンネル替えるかな、と思った時だった。ニュースキャスターが神妙な顔で速報を読み上げた。

『東京卍會の抗争は激化する一方――』
『死亡したのは橘直人さん二十五歳。そして橘日向さん二十六歳――』

 ぽろっと、指の隙間から菓子が落ちた。




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