26時のマリア像




(※オメガバース)
(※ふわっとたけひな)
(※倫理観はない)


 中学生の時が、人生で一番輝いていた。

 それは本来の過去のことであり、タイムリープをした先の新たな過去のことでもある。
 当時の恋人を救うために過去へ戻って、仲間と知り合い、友人を得た。血を吐くような思いはしたけれど、これが自分の幸せの絶頂だろうと、放課後に恋人とデートをしながら何度も幸福を噛みしめた。
 高校生になったら。
 高校生になったら、自分は第二性をΩと診断される。
 そうしたらもう、彼女とは一緒にいられなくなる。



 第二の性別に振り回されてきた人生だった。
 ただでさえ負け続け逃げ続けの日々に最悪のとどめを刺したのは、Ωという診断結果だった。男と女以外の、三種類のバース性。武道は世間一般に言う、劣等種に分類された。
 男であっても子を孕めるその性別は、定期的に訪れる発情期に支配されている。発情期に入れば一週間、家から一歩も出られなくなるような人間を、誰が好きこのんで相手してくれるというのか。
 かつての人生では家族とも友人とも疎遠になり、中卒の上Ωでは定職に就くことも難しく、だらだらとフリーターを続けていた。
 タイムリープで過去を変えて、大事なひとを守っても、きっと自分の未来はそう大して変わらないのだろう。どんなに想い合っていても、Ωと番になれる性別ではない彼女とは、きっと別れることになる。世界はそういう風にできていることを、二十六年の人生で武道は身をもって知っていた。
 それでも彼女が好きだから、助けたかった。
 自分がろくでもない人生から逃れられなくても、彼女には、彼らには幸せになってほしい。
 ただ、タイムリープをしたその先で、久しぶりにしあわせな理想を夢見ていた。
 自分は彼女と家庭を持っていて、大きくはないけれど家だって買っていて、そこで子どもを育てている。
 彼女に似ている子どもは本当に可愛くて、武道のことを愛らしい声でパパと呼んでにっこり笑う。そんな我が子をぎゅうぎゅうに抱き締める。
 どうせ叶わないと分かっていて、そんなことを夢見た。そのくらいに中学生活は輝かしく、愛しかった。







「……ごめん、起こした?」
 瞼を上げると、白髪をさらりと揺らす万次郎がベッドの傍に立っている。その手は武道の腹の上に置かれていた。彼はそこに触れるのをよく好む。
「今、蹴ったな」
 毎回毎回、彼は新鮮そうに少しだけ頭を傾ける。武道は寝起きで返事をするのも億劫で、緩慢に頷いた。
「……タケミっち、大丈夫?」
 一瞬、鋭く眉をひそめた武道の頬に細い指が触れる。
 中で動いたから、ちょっと痛いような気がしただけ。
 それを伝える気力もなくまた目を閉じた。まだ見ぬ胎児が、ぐいと武道の腹を内から圧迫している。

 過去から帰ってきて、何度吐いたか分からない。
 精神的なものなのか、それとも悪阻なのか判断もつかないまま、ただ自分を労わる万次郎の手の感触だけ今でも鮮明に覚えている。
 平たかった腹は大きく膨らみ、硬く張っていて、自分で知る自身の肉体とはかけ離れていた。たまに思い出したように赤子は腹の中で動き出し、武道はそのたび狼狽えた。
 妊娠している。それは腹を見ればすぐに分かることなのに、十分に理解するためにしばらくの生活を要した。仰向けに眠れない。食事が喉を通らない。靴が上手く履けない。そんな不便を通して徐々に、自分がもうどこにも行けないことを受け入れさせられた。
 その生活を支えたのが万次郎だった。白髪にべったりと隈の広がる目元、痩せ細った身体。自分の知る彼とは違う顔をして、たまに触れる手はあの頃みたいに優しい。彼がこの十二年のことを、全部話してくれた。
 それでもまだ自分の胎にいるのが彼の子だということだけ、受け入れられずにいる。
「まだ眠い? 寝てていいよ、顔見に来ただけだからさ……赤ちゃんの分も、寝ないとな」
 彼の手はぬるく、布越しにそのぬくもりは伝わってこない。本当は、いつも手が冷たいのだ。武道に触れる時だけ、わざわざ手を温めている。武道はそれが自分を気遣ってのことなのか、赤子を慮ってのことなのか知らないし、聞こうとも思わない。
 ただ、産んでほしいのだろう、ということだけ。
 浅く目を開ける。暗いこの部屋で、一番真っ黒な瞳が大きな腹を見つめていた。
 自分が身籠ることも、産むことも、武道は想像すらしたことがなかった。それが出来る性別と知っていても、自分に子どもを育てられるだけの度量があるとも思えない。
 こわいんだ、マイキー君。何度も何度も訴えたけれど、万次郎は武道をやさしく抱き締めるだけだった。そもそも現代に戻って来た時点で、腹はもうどうもしようがない大きさに膨らんでいた。
 気を引くように小さな足に内側から腹を蹴られ、武道は顔を歪めて小さく呻いた。「タケミっち」万次郎の声に焦燥が混じった。咄嗟に首を振る。まだ赤子が出てこようとする気配はない。
 そろそろと手を伸ばし、武道は自身の腹に触れた。触っている感触も触られている感覚も確かにあるのに、やっぱり、自分の身体じゃないみたいだ。
 母の手のぬくもりに安心したのか、腹の子はすぐ大人しくなった。ほっと息をつく。
 万次郎はそんな武道をじっと見下ろしていた。微かに唇が震えている気がして、彼に手を伸ばしたかったけれど身体は重く、瞼が重力に抗えなくなってくる。
 力を振り絞るように、腹に置いた手をわずか動かした。自分のものと思えないほど張りつめた皮膚。その奥、羊水に浸かった赤ん坊。
 知らぬ間にこの胎を膨らませていた赤子が生まれてくるのがこわいのに、無事に生を受けてほしいとも願っている。もうどうしたいのか、どうなりたいのかもとっくに分からなっていた。ただたぶん、自分はもうこの子を突き離せないのだろう。
 目を閉じた。
 十二年前、夢を見ていた。愛する人との子どもを抱く夢。どうしてこうなったのだろう。わからない、こわい、こわいよ、マイキー君。もう何もかも見失って、ただ自分の中のもう一つの鼓動を疎むことだけ、出来ないでいる。










 カーテンの隙間から入る月明かりが、ベッドの端を染めている。
 薄い闇の中で再び眠りに落ちた武道の、睫毛を濡らす雫を万次郎は何度も拭った。それでも涙は流れ続けてシーツを濡らしていく。その混じり気のない涙も、涙が横切る鼻梁の線も、痕を光らせる頬も、全部綺麗だと思う。
 大きな曲線を描く腹を、そこに触れる武道を見る度に、万次郎の胸は震えた。こんなにも純粋な感動はいつぶりだろう。
 身籠った武道は、万次郎の目に触れがたいほど眩く映った。それでも手を伸ばせば決して拒まず受け入れてくれるのだから、まるで自身の全ての罪を許されているような気になってくる。
 美術館なんて興味もないが、そこにあるような彫像を思わせる侵しがたさを纏う母体。重く膨らんだ腹は普通に生活することもままならないほどアンバランスなのに、何一つ欠けた所なく、完璧に――「完成」に近づいていくように見えた。今日より明日が、さっきより今が。刻一刻と「完璧さ」を増していくその姿は、蛹の羽化のようだ。
 あの胎の子を産み落とした時、武道は「完成」するのだろう。それが待ち遠しい気もするし、わずかばかり恐ろしい気もした。
 万次郎は上掛けを整え、空調を細かく調節してから部屋を出た。廊下の先に、壁に背を預けず立っている鶴蝶がいる。
 何も言わずじっとこちらを見つめる彼に、万次郎は何も言わずその前を通り過ぎた。部下は黙って散歩後ろをついてくる。
「……産ませたら、子どもはどうするんだ」
 しばらく歩いてから、鶴蝶が強張った声で言った。問い掛けより独り言に近く聞こえた。
 そろそろ臨月が近い。ずっと気になっていたのだろう。
「さあ」
「タケミチを縛りつけるためだけに子どもを利用するのか」
 語気を荒げられ、万次郎は首だけで振り向いた。びくりと鶴蝶は息を詰める。一瞬でその肌が粟立っていた。
「気安くひとの番呼んでんじゃねぇよ」
 幼馴染を気に掛ける部下に、万次郎は武道の安定剤としてある程度の接触は許してやっている。しかし“線”を越えるのなら話は別だ。言葉を飲み込み、だが目だけは強くこちらを睨みつけ続ける鶴蝶に、万次郎はわずかに呆れを抱いた。
「オマエが心配しなくても、タケミっちは子どもを愛するよ。あいつには罪のない子どもを恨むなんて真似出来ないんだ。たとえ自分を強姦したやつの子でもさ」
 こんな自分を救いにくるくらい、馬鹿で愛情深い男だから。
 鶴蝶の拳が握り締められる。だからこそ万次郎に訴えているのだということは伝わったが、それに応えてやる義理はない。
「夢が叶ったんだ」
 ぽつりと呟くと、鶴蝶は目を見開いた。
「……あいつに産ませることか」
「いや」
 ならば番になることか。家族をつくることか。鶴蝶が詰りたいことは幾らでも想像がついたが、そのどれも微妙に当てはまらない。万次郎は右手を見下ろした。張りつめた、人間の身体ではないような皮膚の感触が残っている。

「もう出来ないんだよ、タケミっちは。子どもが生まれてくる未来が、なくなるようなことをさ」

 だからあいつはもう、どこにも行けない。
 なんのことかと鶴蝶の眉が寄ったが、それを説明するつもりはなかった。蛍光灯だけが照らす廊下を進む。
「タケミっち似がいいなあ……」
 万次郎にどれほど似た子であっても、きっと武道は愛するだろう。子を産み母となった彼はどれだけ神聖で、美しいだろうか。その腕に抱かれ、慈愛の眼差しを一身に受ける自分によく似た化け物を見た時、それを武道の手から奪わずにいられるのか。自信はずっとないまま、ただその時を待っている。





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