人でなしのバラード




(※オメガバース)
(※武ヒナ、ドラエマの要素がある)
(※倫理観ないです)


 運命はいつも武道の敵だった。初めてタイムリープをしたその日から。
 背後から自分を揺さぶる男が、何度も何度も項に噛みついてくる。運命には逆らえないと教え込まれる。
 それでも。
 それでも。







「お」
「あ」
 席に着くと隣が見知った男だったので、武道はうっかり手の中の食券を握り潰してしまった。
「よう、今日くそさみぃな」
「はは……そっすね、店ん中天国ですよ」
 誰もが知っているチェーン店の牛丼屋、清潔なはずなのにどこか俗な雰囲気のカウンター席。そこで大盛りの牛丼を頬張っていたのは、学生時代からの仲間であり友人たる、龍宮寺堅その人だった。
「ドラケン君も仕事終わりっすか?」
「ん、食ったら戻る。明日朝一で納品するやつが残っててな」
 戻ったらイヌピーと交代。そう言いながらお冷をぐいっと呷る龍宮寺に視線だけ向けつつ、皺になった食券を出す。
 ぐわっと大きく口を開けて、武道の三口分くらいを口に収めてしまうので見ていて小気味いい。豪快なのに食べ方は綺麗だ。零さないし口の周りにもつかない。ちらと覗く白い犬歯や濡れた赤い舌が見えて、武道は無意識に唇に力を込めた。見てはいけないと思いつつ、視線を剥がせない。
 大きな一口を頬張った龍宮寺の、目だけが武道を見た。ばちりとかち合う。
 あ、早く、逸らさなきゃ、そう思うのに眼筋は硬直している。ぬっ、と龍宮寺の大きな手が伸ばされた。
 ――あ、と思う間に、きゅうと鼻を摘ままれる。
「鼻、真っ赤」
 ふわ、と、香水だろうか、少し爽やかな甘い匂いが香った。
 大きな指はすぐに離れてしまう。武道はぽかんと戻っていく指先を見ていた。
「席替わるか? こっちのが暖房効いてんぞ」
「……あ、や、だいじょうぶ、ダイジョブっす」
 ぶんぶん首を横に振って、しつこいくらいにおしぼりで手を擦った。
 外が寒くてよかった。頬や耳が赤くなっても誤魔化せる。
 せっかく普段はつけないトッピングの温泉卵までつけたのに、牛丼はあまり味がしなかった。





 十二月の頭は、日が暮れるとしんと寒さが染み入るようなものに質を変える。吐く息はほんのりと白むが、すぐに都会の雑踏にかき消されてしまう。
「タケミっち、このまま帰りか?」
 ジャケットのポケットに手を突っ込んで、マフラーに顎先を埋めた龍宮寺の半歩後ろを歩く。身長差からもコンパスには歴然とした差があったが、彼は武道に合わせてゆったりと人波を進んでいく。あまり厚みのないコート一つの武道のために夜風を遮ってくれる、その気配りが面映ゆかった。
「あ、ハイ」
「送るか?」
「えっ、いやいいっすよ」
 思わず胸の前で手を振る。なんでそんな女の子みたいな、という前に、少し振り返った龍宮寺が武道の額に触れた。
 ――あ、また、自然に。
「やっぱ熱い」
 乾いた手が離れて、そのまま彼自身が無造作に巻いている黒いマフラーを外した。やわらかく、まだ体温を残すそれがそっと武道に巻かれる。また爽やかな甘い香り。ぶわっ、と体温が上昇するのが分かった。
「しとけ」
「や、ドラケン君が」
「オレは店もすぐそこだし。嫌なら、」
「い、いやじゃない」
 咄嗟に、首元のそれを両手で掴んだ。ふわふわと頼りない手触り、晒された首を撫でるぬくもりに、胸が締めつけられた。
「あ、ありがとう、ございマス……」
「おう」
 わしわしと頭を撫でる手の温かさが、寒風の中でじんわりと身の強張りをほぐす。
 龍宮寺は変わらず少し前を歩きながら、またポケットに手を差し込んだ。
「……風邪引いてねえか。熱っぽいだろ」
 その台詞で、――突然、心臓に氷を近づけられたみたいにひやりと体内の血液が温度を失う気がした。気遣わしげな声が泣きそうなくらい嬉しいのに、心臓はドクドクと緊張をあらわにしている。
「や、……そろそろ、ヒート近くて。だから、全然、大丈夫なんで」
 正直に言うか、一瞬迷った。しかし下手に隠す方が不自然な気がして、なんでもないことのようにへらりと笑う。



 ヒート――性別がΩである武道を、三カ月に一回襲う発情期。
 世の中の性別が男、女と大別される一方で、同じように重要視されるもう一種類の性の区別。優秀な遺伝子を持つ少数派のα、人類の八割が属するβ、そして繁殖に特化したΩ。
 武道は繁殖に――孕まされることに秀でた性別だ。世間では未だに差別の対象となりうるそれだが、元東卍の面々にはそのことを隠し立てしていなかった。自身のその第二性が判明したのは東卍の解散後、高校入学の際の健康診断だったが、高校生活でも何かとつるんでいた彼らに、武道は話の流れもあって自身の性別を明かしていた。それで態度を変えるような彼らではないことは、十二分に理解していたので。
 龍宮寺も勿論知っているし、武道だって彼の第二性を知っている。
「じゃあ、尚更送る。途中で入ったらまずいだろ」
「いや、そん時はドラケン君が横にいてもまずいじゃないすか」
 そう笑って――笑いながら、こういうところがよくないのだと自嘲する。
 相手から拒絶される前に予防線を張るところ。こういう言い方をして、形だけでも否定してもらえれば慰めを得られると期待してしまうところ。
 ちらと目だけでうかがった彼の顔、こちらを見下ろす眼差しに、武道は呼吸が凍りつく気がした。
 痛ましいものを見るような、息苦しさに耐えるようなその目を、今彼から向けられたくなかった。
 ――発情期に入れば、“番”のいないΩは自分の意思とは関係なく欲情し、フェロモンを放つようになる。そのフェロモンは周囲の番がいないαを見境なく誘惑してしまう。Ωが社会的に疎まれる大きな理由の一つ。
 彼、龍宮寺堅はαだった。







 風邪ではないから、別にマフラーだって特別必要でもなかったけれど。
 でも龍宮寺が取り上げるような真似をしないと分かっていたし、武道もそれに甘えた。
 ――返すためって、会う口実ができた。
 そわそわと心躍ってしまう自分が恥ずかしくて、情けなくて、浮かれる一方で異様な惨めさに襲われる。
 結局送ってくれるという龍宮寺をなんとか説得して別れた。武道が通りを歩いていくのを龍宮寺はずっと立ち止まって見送ってくれるものだから、武道も何度も振り返った。本当は自分が、彼の背中を消えるまで見つめていたかった。
 タイムリープをした先で、武道はかつて付き合っていた恋人を救った。
 彼女と、日向と一緒に人生を歩んでいけたらと、真剣にそう願っていたけれど。武道はΩで、日向はβだった。
 “番”の関係はαとΩでしか結べない。αがΩの項を噛むことで成立するそれは、不安定なΩのフェロモンを安定させる特別な契約だ。βの彼女とは交わせない契り。それでも日向は献身的に武道を支えてくれたけれど、先に折れてしまったのは武道だった。心身を削る抑制の効かない発情に振り回され、そんな武道を救ってやれないと悲しむ日向の姿にも胸が抉られた。自分では彼女を笑顔にしてやれない、一緒に幸せになれない。最後まで悲しみ別れを拒んでくれた彼女の手を、突き放すように離した。
 日向と別れて、どんどん不安定になり窶れていく武道を支えてくれたのは龍宮寺だった。よく食事に連れて行かれたし、店にも招かれたし、急な発情期でそれらの誘いをぎりぎりにキャンセルした時だって、差し入れを家のドアノブに掛けてくれていた。要領を得ない、愚痴にも恨み言にもならない武道の泣き言を黙って聞いて、背を叩いてくれたのも彼だった。
 これで。
 これで好きにならないなら、そいつは余程の冷血漢だ。
 自覚した時、涙が止まらなかった。恋人と別れた時と同じくらいに、部屋で蹲って声を押し殺して号泣した。
 叶わないことは知っていた。龍宮寺には、武道と出会う前からずっと想い続けている、たった一人の女性がいる。
 どの面提げて好きだなんて言えるだろう。
 彼の最愛の人を、守れなかったのは自分なのに。





 運命だったら、よかったのに。
 頭によぎる考えの浅ましさに、思わず眉が歪む。
 運命の番。α、Ωのそれぞれに、世界にただ一人いるという、文字通り運命的に相性のいい相手。全てを擲ってでも求めてしまう、理屈が通じない本能の希求する片割れ。
 目が合っただけで、そうだと分かるのだという。テレビなんかでそういう風に結ばれた番を見たことがあるけれど、所詮隕石が頭に直撃する確率と似たようなものなのだろう。友人知人にも運命を見つけたなんて話は聞いたことがない。
 見苦しいにもほどがある。零れた息はすぐに温度を奪われ、風に攫われていった。
 なんの意味もないと分かっていても、想像せずにいられなかった。だってもし運命だったら、それだけで、番になるのに他に理由がいらなくなる。ただ運命だからというだけで、彼と結ばれることが出来る。
 この無様な恋に免罪符があれば。
 黒いマフラーに口元を埋めるように視線を落として歩いていた武道は、不意に足を止めた。
 甘い、匂いがする。
 龍宮寺の、少しさっぱりとした甘い香水とは違う。まるでぐずぐずに煮溶けた果実のような――腹の奥底が疼くような匂い。
 それに混じって――鉄錆びた血の匂い。
 足がふらりと動く。脳がもっと慎重に行動をした方がいいと主張し続けているのに、身体だけがふらふらとはやって動く。
 暗く淀んだ空気の路地裏だった。
 ビルとビルの隙間、生ごみの悪臭、奥に見えるポリバケツ。その手前、男が壁にもたれて座り込み、項垂れている。
 急にその頭がもたげられた。
 目が合った。

「――ぁ、」

 いやだ!
 そう誰かが頭の中で叫んだ。なのに足は逃げ出しもしない、靴裏がアスファルトに貼りついている。
 血の巡りが速さを増して、はっはっと吐き出される息が白くなっては散り、白くなっては散り。全ての音が遠くなる。今この荒い呼吸をしているのは誰だ。
 路地裏に座り込んでいたその男は、頭から血を流していた。よくよく見ればこの寒空の下、前を開けているジャケットの中の腹部まで赤く染まっている。
 それでも大きく見開かれた目は爛々と、生命力に満ちていた。
 男がふらりと立ち上がる。暗がりから長い腕が伸ばされる。
「、ゃ、」
 乾いた口蓋に貼りついた舌を剥がす前に、男が武道の腕を掴んで路地裏に引き込んだ。
 青いバケツの方へ放られるように突き飛ばされ、腹を強かに打つ。はっと振り向いたところで、背後から両腕を掴まれた。
 また、目が合う。心臓が早すぎる拍動を刻む。
「――ハナガキタケミチじゃん」
 男の口から出た自分の名前を、一瞬そうと認識出来なかった。
 振り向いた半端な体勢のまま、男に釘づけになる。垂れ下がった髪からぽたりと血の雫が落ちた。髪の隙間、垣間見える容貌。
「……は……はん、ま……?」
「ハハ、当たりィ」
 男がニイと笑う。その笑みを知っていた。
 半間修二。十二年前、タイムリープをした先で出会った男。稀咲鉄太と共謀していた、――現、逃亡犯。
「なんで……」
「何が、なんで?」
 明らかに軽傷ではない怪我をしているというのに、それを感じさせない軽薄さで男は笑っている。目が弧を描くように歪んだ。
 いたぶる者の目だ。

「なんでオマエが“運命”なんだの、『なんで』?」

 武道が口を挟むより先に、鋭い絶望が振り下ろされた。
「……うん、めい」
「そーじゃん、オマエも分かったろ? ほんとにいるモンなんだなあ、ビビった。フクロにされたとこで運命の番に出逢うとか、人生まだまだ何が起こるか分かんねーなあ」
 じわじわと現実を脳が受け入れ始める。運命? オマエが? オレの?
「……ちが、」
「違わねーだろ、そっちもフェロモン垂れ流しじゃん」
 嘘だ。そんなことある訳。反論したいのに身体に力が入らない。半間のフェロモンを受けて背骨が溶け出しそうで、膝はまるで幼子の積木みたく崩れかけている。
「中学ん頃はヒート来てなかった? 来てたら気づいてたよな、とっくに」
 否定したい。否定したいのに、分かってしまう。全身が叫んでいる。
 早くこの男と番って、ずっと“半分”だった自分を完全にしろと咆哮している。
「あ、ヒートんなった? 頭殴られてからなんかフェロモン抑えらんなくてさあ、ごめんな?」
 スッゲェいい匂い。すん、と首元に鼻を近づけられた。ぞわっと鳥肌が立つ。
 こんなに中身のない謝罪があるだろうかと、痺れる頭の端でまだ理性を残す自分が怒りに震えている。三カ月に一度、いつも身に覚えのある感覚が下腹から全身へ根を広げようとしていた。暑く、熱く、身体は燃えるよう。理性が酩酊感に飲み込まれ、人間でいられなくなる恐怖に同じだけの惨めさが入り混じる。身体を動かすこともままならない倦怠感。
 バケツの蓋に押し付けられる。そのままのしかかられて両足が弛緩した。さっきまでからからに干上がっていた咥内は過剰に唾液が分泌されて、力の入らない口の端から垂れ落ちそうになる。
「っぃ、やだ」
「ア? 何言ってんだよ、運命だぜ? オレも男は興味ねえけど」
 でも、今めちゃくちゃオマエのこと犯してぇ。
 耳に拭き込まれたそれに、がくんと全身から力が抜けた。
「ンー……?」
 背後の、酔っているように興奮ぎみだった半間の声に不機嫌そうな気配が混じった。ぐいとマフラーに手を掛けられる。
 触るな。払いのけたいのに指がぴくりと動いただけだった。無理やり背後に引っ張られて喉が締まる、その苦しみすら馬鹿な肉体は快感に変換してしまう。
 爪の先まで熱い気がするのに、腰にもっと重い熱が集中している。噛んでほしいと身体が訴えている。
 半間の舌打ちが、思いの外耳の近くで聞こえた。マフラーが剥ぎ取られて落ちる。
 いやだ、やめて。それは。――おれは。
 項に呼気が触れた。





 のろのろと顔を上げる。潤んだ視界に、路地裏の奥へ吹っ飛ばされた半間が脇腹を押さえているのが見えた。
 背後の気配が吹っ飛んで、武道ははあはあと息を乱しながらその場に膝をついた。足元にマフラーが落ちている。それの上に倒れ込みそうになる身体が、背後から引き寄せられた。
 爽やかな甘い匂い。
 ぼろっと目から涙が落ちた。
「テメエ……ぶっ殺してやる」
 武道の身体を抱き寄せ、ぞっとするほどの怒りを湛えた龍宮寺が、半間を睨みつけていた。
「ど、どらけ、く」
「後ろいろ」
 龍宮寺が武道の前に出る。広い背中を見上げるだけでまた新たな涙が溢れそうになり、唇を噛んだ。落ちていたマフラーを握り締める。
「ッテェ……んだよ邪魔しやがって」
「アア゛? 寝言は寝て言えよ強姦魔が。殺す」
 まるで空間ごと捻じ曲げるように立ち上る怒気に、武道の身が竦んだ。半間は委縮した様子もなく不快そうに目を眇めていたが、相手を正面から認めると目を瞠った。
「ドラケンじゃん」
 その一言に龍宮寺も目を見開いた。夜の暗い路地、相手の顔は目を凝らせばようやく見える。彼がこの男を忘れることは、決してない。
「半間……」
 その瞬間、龍宮寺の怒りが冴え冴えと鋭さを増したのを、武道は確かに感じた。
 半間は常人ならそれだけで膝が笑うような気迫に、愉快そうに唇の端を吊り上げている。
「久しぶりだなァ、そっか、オマエかあ」
 龍宮寺の眉がひくりと怪訝そうに跳ねた。半間の目は龍宮寺を通り過ぎ、武道に向けられていた。
「番はいねーはずなのに他のαの匂いつけてっから、どこの間男かと思ったわ」
 武道ははっと顔を上げた。自分の顔を見てますます楽しくてたまらないという顔をする半間に、ざっと頭から血の気が失せる。マフラーを握る手に力が入った。
「間男だ?」
 嫌だ、言わないで。口を開く前に、半間が首を傾げてせせら笑った。
「そーだろ、運命の番の間に割って入るジャマモノじゃん。あんな他のα牽制するみてえなフェロモンつけちゃってさあ」
 心臓が脈打つ。運命のことを暴露されたショックと、半間が言い放った言葉の衝撃ががつんと脳に響いた。
 反射で見上げた龍宮寺の肩が、微かに強張る。武道には表情がうかがえない。唯一龍宮寺と向き合っていた半間は、瞠目してから耐えきれないという風に唇を笑みで歪めた。
「……もしかして無意識でマーキングしてたわけ? ハハ、うけんな」
 冷たい夜の空気が、体温の上がった身体を苛む。ヒートに入ったことで思考はぐらついて、それでも武道は目の前の男の背中だけをよすがに意識を保っていた。
 けれど、視界に入る血塗れの男を、どうしても無視することができない。武道は半間の目が、また獲物をいたぶる獣のそれになるのを見た。
 立ち上がりたかったのか叫びたかったのか分からない。分からないけれどとにかく、それを見た瞬間武道は動き出そうとした。飛び出したかった。龍宮寺の前に。
 彼を守るために。なのに身体は自由にならない。

「でもよかったじゃん、――今度は、間に合って」

 その、瞬間の。
 確かに自分の奥底から生まれた、自身をいつも悩ませていた発情期が馬鹿らしく思えるほどの、業火に巻かれるような灼熱の怒りを。武道は一生忘れない。
 喉が叫びを発するより先に、龍宮寺の拳が半間の顔面に叩きこまれていた。
「――殺してやる」
 憎悪以外の一切を削ぎ落とした声だった。
 重い拳が落とされる音が路地裏に木霊し続けた。半間の笑いが合間に混じる。殴り返されても龍宮寺の身体はびくともしない。
 胸ぐらを掴んで固定し、ただ殺すためだけに振るわれる暴力。
 武道の目から涙が零れた。
「殺す、オマエは――ころす」
 怒りだけに突き動かされ、今目の前で、武道が知る誰より人の道を重んじている人が、その道を踏み外そうとしていた。
 這いずるように進んで、武道はその背中にしがみついた。涙が溢れて溢れて止まらない。
「だめ、だめだ、ドラケンくん、」
 ジャケットを握りしめ、額を押し付ける。人を殴りつける震動が伝わって、吐きそうだ。
「ドラケン君、だめだ、ころしちゃだめだ、ごめん、ごめんね、だめだ、ごめんなさい、ごめんなさい、っぅ、ごめん、ごめんなさい、……」
 何に謝っているのか、自分でも分からなかった。十二年前のあの日に彼女を守れなかったこと、半間が自分の運命であったこと、――龍宮寺を好きになってしまったこと、全て申し訳なくて申し訳なくて、硫酸みたいな罪悪感に胸が焼け爛れて死にそうだった。
 それでも、その罪の意識に焼かれて死んだとしても、武道は彼を止めなくてはいけなかった。
 エマちゃん。
 胸の内で呼びかける。
 エマちゃん、守れなくてごめん。ごめんね。でも、君の大好きなドラケン君だけは守る。必ずオレが守るから。
 君が愛した人に、絶対に人を殺させたりしない。










 どれくらい、時間が経っただろう。
 ゆらゆらと身体が揺れていた。視界に入る龍の刺青。龍宮寺に背負われている。
 何が起こっているのかすぐには把握できなかった。気を失っていたようだった。
「……気づいたか? 悪い、鞄に入ってた緊急の抑制剤、勝手に打ったぞ」
 言われてみれば、怠さこそ変わらないがわだかまるような熱は解消されている。意識がまだぼんやりしていて、彼の側頭部、そこに刻まれた龍をただぼうっと眺めていた。いつかも、こんな風に背負われたなと思い出す。あの時はこんな風に、ゆっくり歩いてもらう暇はなかったけれど。
「オマエと別れた後、やっぱり気になって引き返したんだよ。……正解だった」
 少し振り向いた彼の頬に青痣と、返り血らしきものが飛んでいてはっと身体を起こそうとした。しかし四肢が意思を裏切る。発情期の時の倦怠感とは異なる身体の重さ。強い抑制剤によって、全身が鉛を流し込まれたように重かった。
「殺してねえよ」
 龍宮寺の声は静かだった。どくりと心臓が揺さぶられる。
「通報しといたけど、逃げたかもな」
「……ごめん、なさい」
 自分を優先して、半間を捕まえられなかったのだ。情けなさに視界がぼやける。その時、武道は自分がマフラーを握り締めたままだったことに気づいた。意識を失くしても離さなかったらしい。我ながら執念深いと、また泣きそうになる。
「タケミっち。……ありがとう」
 龍宮寺の声が自分の知る穏やかなそれで、また目の縁から涙が落ちた。発情期のΩの傍にいるのは、きっと彼にとっても苦痛だっただろう。なのにこうして助けてくれた。武道のために、彼女の仇まで見逃して。
 許されない。そう理性的な自分が訴えている。その叫びをわざと無視をした。今だけ。今だけは、とその背に身を預ける。これが最後だから。
 最後にすると自身に言い聞かせればもっと視界が滲んで、往生際の悪さに一人で声もなく笑った。










 D&Dは以前訪れた時と同じく綺麗に磨かれたバイクが並んでいて、武道はショーウィンドウ越しに顔を綻ばせた。そんな武道に気づいた龍宮寺が、中で目を瞠っている。その顔が少し可愛く見えて、ひらひらと手を振った。
 あの後、また武道は気を失って、目が覚めたら自宅の布団で寝ていた。枕元にはビニール袋に入ったスポーツドリンク、ゼリーやレトルト食品、そして『ちゃんと水分取れ』という簡潔な書き置き。
 そのチラシの切れ端すら捨てられない自分は、きっと本物の馬鹿だ。
 あれからやはり迎えた定期的な発情期を過ぎて、ようやく仕事に復帰したその帰り道。紙袋に入れたマフラー片手に、武道は龍宮寺のバイク屋へ足を踏み入れた。
「これ、返しに。この前は、ありがとうございました」
 紙袋を掲げ、なるべく軽く見える笑顔を作る。返したらすぐに立ち去るつもりだったのに、なぜか引き留められてしまった。カウンター奥の事務所で、出されたコーヒーのカップをそわそわと撫でる。龍宮寺は何やら電話をしていた。武道はソファーから腰を浮かそうとしては、結局また戻るを繰り返していた。
「あの、今日、イヌピー君は……」
「もう帰らせた」
 ようやく電話を切った龍宮寺が淡々とそう返す。通話相手は乾だったらしい。その表情はどこか硬く、だから武道はさっきからずっと落ち着かなかった。
「あの後、大丈夫だったか」
 抑揚の薄い低音に問われて、カップをテーブルに置いて頷く。
「あ、はい、何事もなく」
「そうか」
 気まずい沈黙が満ちる。龍宮寺は育った場所のせいか聞き上手で、いつもさりげなく話を振ってくれるからあまり会話が途切れたことがなかった。慣れない静寂がなんだか怖くて、そして龍宮寺との間にこんな居心地の悪さが存在するのがつらくて、武道はやはりもう帰ろうと立ち上がった。それと同じタイミングで、龍宮寺が口を開いた。
「今朝、エマに会って来た」
 ――ちゃんと、取り繕ったつもりだったけれど。それでも肩やら膝やら、関節が強張ったのを見透かされてしまったかもしれない。
 恥ずかしくなって俯く。一番に感じたのは悲しさだったが、それに混じって湧いたのは確かに嫉妬だった。こんな時まで自分のことばかりで嫌になる。みっともなさに恥じ入りながら、それでも顔を上げて続きを促した。彼は今、おそらく心の内の大事な部分を慎重に言葉にしていた。武道に何かを伝えるためにだ。
 じっとその場に立ったまま、龍宮寺は少し目を伏せた。
「中学の時、――タイムカプセル埋めた時、将来、誰かのこと好きになって結婚したりすんのかって考えた。あの時のオレは、いつかエマを忘れるのが、エマを好きだって気持ちを忘れるのがこわかった。けど、――何年経っても、まだエマが大切だ。たぶんこの先も」
 それは武道からすれば、紛れもなく、一つの曇りもない愛情だった。
 武道の目にゆっくり水の膜が張る。人はこんなにも純粋に誰かを愛せるのだと、醜い嫉妬心を覚えたばかりの自分に眩しい。けれど恋に破れた事実を改めて突きつけられた痛みよりも、今はただ凪いだ喜びに支配されていた。これが自分が好きになった龍宮寺だと、すとんと胸に落ちる。
 唇が自然に弧を描く。死ぬほど痛くて苦しいのに、安堵している。この世で最も満たされた失恋だ。こんな風にふられるなんて、自分はなんて幸せなんだろうと思わずにいられない。
「……へへ、すんませ、」
 手の甲で目を擦る。なんでオマエが泣くんだよ、って彼は笑うだろうから、だってこれは仕方ないでしょ、と言う準備をした。
 しかし涙を拭う手を、龍宮寺に取られた。
 右手と、身体の横に投げ出していた左手。両手を取られる。
 上背のある彼が、じっと武道を見下ろしていた。
 武道より一回りも大きい手は熱く、少し力の入った指先が武道の手の骨を圧した。
「……そんなオレがオマエに告白するのを、許してほしい」
 ゆっくり、瞬きをした。
 閉めた蛇口から、水滴が一つ垂れる。そのぐらいの時間を要した。
 じわりじわりと目を見開いていく武道に、龍宮寺は何も言わず、自分の言葉がちゃんと伝わるのを待った。目はやさしく自分の手の中の両手を見下ろし、無骨な親指が武道の左手、その傷痕をなぞる。
「オマエのことがずっと好きだった。もっと早く伝えりゃよかった。臆病モンですまねえ」
 一歩、足を退いた。しかし龍宮寺の手の力が強まって、それ以上離れることができなくなる。
 なんで。どうして。疑問が脳裏を埋め尽くす。――だって。
「オマエが守れなかったって、自分を責めてんのも知ってる。それをオレに分けてほしい」
 武道が問うより先に、龍宮寺はその答えを差し出した。真っ直ぐ、誠実に。自分が知る龍宮寺のままで。
 ぼろぼろと涙を落とし始めた武道を、温かな腕が抱き寄せた。広い胸に額を預ける。微かに、甘く爽やかな香りがした。香水とばかり思っていた。全身で身体を包まれている。音もなく降る温かい雨のような抱擁に、ますます涙が溢れ出た。
「エマの分まで、オマエを幸せにさせてほしい。オマエが好きだ」
 とうとう嗚咽を喉に閉じ込めるのも難しくなって、胸に縋りつきながら呻いた。
「……お、っおれ、ごめ、ごめん、なさい」
「ああ、知ってる。どうか一緒に、背負ってほしい。背負わせてほしい」
 言う資格のなかった懺悔は、十二年越しに、当たり前のように静かに受け入れられた。
 許せない男にすら発情するようなみっともない身体を抱えて、これから一人で生きていくのだと思っていた。諦める覚悟をした体温が、武道に寄り添う。許しはもう得られないけれど、それでもたった一つ願ってもいいのなら、彼と許しを望みながら、生きていきたかった。
「オマエの傍にいて、守るって誓うよ」
 ぎゅう、と閉じ込めるように腕に力が込められた。

「オレたちは運命じゃない。でも、オマエがいい」

 花垣武道がいい。
 腕の中で咽び泣く武道を強く強く抱き締めて、龍宮寺はそのこめかみに口づけた。随分と遠回りをした恋の、最初の一区切りだった。










 足元がふわふわする。手の中の鍵を見下ろすと自然に口がにやついてしまって、武道は意識して唇を引き結んだ。
 龍宮寺の家の鍵。なくさないよう、そっと手の内に握り込む。
 閉店にはまだ時間があって、龍宮寺は渋ったが、武道は自分がいても邪魔になるだけだからと店を後にすることにした。その時に渡されたのがこの鍵と、そして返すはずだったマフラーだった。
「いやじゃねえなら、待っててほしい」
 そう真剣な声で乞われて、首を横に振れるわけがない。赤い顔でこくこくと頷く武道に、龍宮寺は笑って「オレのモンて証拠」とマフラーを巻いた。
 硬いアスファルトが沈み込むみたいだ。まだこれが現実と思えなくて、武道はマフラーに鼻先を寄せる。
 洗濯したのに。爽やかな甘い匂い。龍宮寺がわざとつけた、彼のものという証明。
 きゅうと目を瞑って、開く。夢じゃない。
 何度も友人として招かれた龍宮寺の家へと足を運ぶ。混み合うスクランブル交差点、人に揉まれて信号を渡り切る。
 雑踏を抜けるという瞬間に、腕を強く引かれた。
 かちゃん。鍵が落ちて、一度跳ねた。




















 鼻を近づけ、すんと嗅ぐ。
 ようやく半間の匂いになった。満足して煙草を咥える。
 床に転がる武道は何も身に纏っていない。死人のように動かないうつ伏せの身体、その項に、何度も半間が噛みついた跡があった。
 煙を吐き出すと頬がひりついた。そういえば引っ掻かれたんだった。圧殺するようなαのフェロモンでほとんど正体を失くしていたはずなのに、いっそ感心するほどのすさまじい抵抗だった。さすが、根性だけはある。

 ――適当に向いている社会で生き延びて、でもたまたまつるむやつを間違えて死にかけた、その時だった。運命に遭遇した。
 他のαの匂いがする。
 最初に見かけた時から、そう思った。
 次に見つけたのも偶然だ。一週間前と同じマフラーをつけて、浮かれた様子で歩いていた半間の運命。半間の物のはずなのに、他の匂い――あの日水を差して来た、龍宮寺の匂いをつけている。
 そこには嫉妬なんて可愛らしいものは存在せず、ただ、そうではないだろう、と思っただけだった。だって“コレ”は半間の運命で、あの日見つけた番で、半間のものだ。あるべきものを、あるべき場所へ。「正した」だけ。
 捕まえてフェロモンで動きを封じ込めて、そのまま連れ込んだアパートの一室で犯した。半間に犯してほしくて、番にしてほしくてたまらないはずなのに泣き叫んで暴れるものだから、半間も意地になって手酷くした。項に歯を立てた時は死に物狂いで暴れられたが、一度噛みついて番が成立すると、武道は力なく啜り泣くだけになった。しかしここまで反抗されたのが気に食わなかったので、半間のものだと教え込むように繰り返し傷を抉るように噛んでやった。
 半間のそれに誘発されて武道の身体から放たれたΩのフェロモンが、紫煙と混じってまだ部屋を漂っている。
 この部屋誰チャンのだっけ、とスマホをいじった。何人か転がり込む用の女は捕まえていて、その誰もがこの時間は仕事のはずなので見つかる心配はない。見つかったっていいにはいいが。ただうっかり部屋の中で煙草を吸ってしまったことは申し訳ないなあと思った。思っても、ヤった後の一服が美味いので火を消す気はさらさらなかった。
「……あ、起きた」
 のろのろと、武道の痩せた身体が肘をついて起き上がる。俯いたまま顔を上げないので、半間は覗き込もうと首を曲げた。しかし乱れた髪に隠された表情は分からない。武道は四つん這いになるように身体を起こしたが、短く呻いて背を丸め、亀のように蹲った。足の間に、半間が散々出したものがだらだら零れている。
「なー、そろそろ海外飛ぶかなーって考えてんだけど、オマエも来る?」
 ふざけるな。そう飛びかかってくるものだとばかり思ってわくわくと構えていたのに、武道はぴくりとも反応しなかった。
 おや、と瞬きする。
「マジで来る?」
 やはり何も言わない。つまらなくなってぐしゃぐしゃの髪に煙を吹きかけた。また気を失ったかと思ったが、意識はありそうだった。
「んあー、もしかしてまだヤリたんねえ? けどオレもまだ血足んない気してさあ、だりぃんだよなあ……一人でマスかいてていーぜ、これいる?」
 視界に入ったそれを手に取って、武道へ差し出す。
 このΩを連れ込んですぐ、剥ぎ取ってやった物だった。
 今度こそ、半間は武道の激昂が見られると思った。こんなにすぐ折れてしまってはつまらない。この前みたいに、このマフラーに触られたことを心底怒ってほしかった。あの時武道は声も上げられなかったが、それでもこの毛糸の塊に手を掛けられて屈辱そうにしていたのを覚えている。怒り喚く武道をまた組み敷いて、どちらが主人であるかを今一度分からせてやろうと思っていた。
 武道の腕が動いて、半間はフィルターを噛みながら笑う。ばしり。手は半間の腕を叩いた。ぱさりとマフラーが床に落ちる。武道はそれに、手を伸ばそうとはしなかった。
 叩かれた箇所を見下ろしてから、半間は顔を上げる。
「オマエ、ドラケンのこと好きなんじゃねーの?」
 ――一週間前の、あの夜。あれだけで十分だ。武道が龍宮寺を想い、龍宮寺もまた同じように武道を慈しんでいるのはすぐに分かった。だからこそ引っ掻き回してみたかったのだ。かつての相棒がしていたように。
 武道の、散々フローリングを掻いて剥がれかけ、血の滲む爪がまた床に立てられた。がりり。新しい赤が線を引く。
 項垂れていた顔が上がった。青ざめた肌、色のない唇。大きな瞳だけが、青く純度の高い熱を閉じ込めて燃えていた。
「ッオマエは、稀咲と一緒に……、……エマちゃんを、殺した……」
 叫び続けて潰れた喉が、血の滴るような怒りを吐く。半間はその双眸に釘づけになった。
 瞳は燃えているのに、同時に涙の膜が張り、目の縁に透明なそれが盛り上がった。ぼたぼたと頬を転がり落ちる。
 人とはこんなに大粒の涙を流せるものなのか。半間はつい今し方、確かに蹂躙し征服したはずの男に見入った。涙に覆われながら、命を燃料にしたように煌々と燃える光。
 しかしその恒星のような熱は、ふっと急に途切れた。武道は力なく目を閉じて、また蹲るように項垂れた。
「……おい、」
「エマちゃんを殺した、オマエの」
 しゃがれた声に涙が混ざった。

「オマエの番になっておいて、……ドラケン君に、顔、合せられるわけないだろ……」

 ――それはまるで細い銀の針が、綺麗に肋骨の隙間を通って心臓を刺し貫いたような衝撃だった。
 煙草の灰がぽとりと落ちた。
 武道は蹲って、小さく身を震わせて嗚咽を殺している。視界に入るだけで興ざめするような弱者のそれから、目が離せない。
 この男は今、半間の番になることを受け入れて、それと同時に半間をふったのだ。
「……ック、……ハハ」
 煙草を噛む歯の隙間、耐えきれない笑いが漏れる。それは次第に哄笑になり、煙をかき消すように狭い部屋に響いた。
 これが笑わずにいられるか。
 ふられて好きになったなんて!
「ッハ……、ハハ、いいじゃん、さすが運命だなァ、な、そーだろ?」
 かつて稀咲鉄太が死んでから、半間の世界は彩りのない、つまらないものに逆戻りした。彼は唯一自分を楽しませてくれた道化だった。そんな男が執着した人間。そいつが自分の運命だなんて、まったく妙な巡り会わせだ。稀咲が生きていたら、どんな反応をしただろう。
「もっかいヤろーぜ」
「っや、」
 運命の前には全て無意味だ。武道は番のフェロモンに屈するより他なく、半間は泣いて震えるΩの肌に手を這わせる。目じりに舌を伸ばし、頬に甘く歯を立てた。
 自分を最高に楽しませてくれた男は、十二年も前にいなくなった。
 あの日から半間の視界はモノクロで、でも今鼻腔にこの番の甘ったるい匂いが香る。指はしっとり湿った皮膚の感触を捕まえていて、舌には確かに塩辛いはずなのにずっと唇を寄せていたいような涙の味。耳は嬌声混じりの心地よい悲鳴を拾う。
 最高に可哀想で可愛い番を揺さぶりながら、半間は目を閉じた。
 きっと次に龍宮寺に会う時は、自分が殺される時だろう。その時は武道を殺して道連れにしてやろう。この番が今更他のαの手を取るなんて、到底許してやれそうにはないから。
 運命だって言うのに、きっとこの男は一生自分のものにはならない。
 最高に笑えて、喉を震わせながら項に噛みつく。甘い血の味がした。





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