月のない夜の唄




 油っぽい湯気を漂わせる炒飯の皿片手に振り返って、武道は「あっ」と足を止めた。
 日焼けした畳に胡坐をかいてこちらを見上げるのは、金髪をオールバックにした万次郎だ。
「おあ……そっか、こっちのマイキー君になっちゃったんすね」
「ああ、そうみたい」
 声が冷やかでちょっと心にクる。首を竦めつつ、テーブルに皿を置いた。
「よかったら食べます? 具、卵とツナだけだけど……」
 本当はネギとかレタスとか入れたかったけれど、生憎冷蔵庫に緑色のものがなかった。健康に長生きするために野菜が必要と言われても、明日を生きていくために出費は押さえなければいけない。人生って難しい。
「食べる」
「えっ」
 断られることを前提で訊いたので、想像を裏切る回答に皿を置こうとする中腰のまま固まった。今まで“この”万次郎にはふられ続きだった。アイス食べますか。食べない。おすすめの映画見ますか。見ない。銭湯行きますか。行かない。全てにおいて空振りで、だから今回も二つの皿の内一つは、ラップを掛けておかなきゃと思ったところだったのに。
 黒々とした瞳にじっと見つめられて、慌ててスプーンや水を持ってくる。
「いただきます」
 日頃の癖で、手を合わせて宣言する。万次郎は目だけで武道を見て、無言のまま食べ始めた。
 しばらく陶器と金属が触れ合う音だけがボロアパートの一室で空気を揺らす。武道は料理がさほど得意じゃないから、この炒飯もパラパラどころかちょっとべちゃっとしているし、ところどころ調味料が混ざりきらず味が薄かったり塩辛かったりする。でも万次郎は何も言わず、黙々とスプーンを動かしていた。
「ごちそーさま」
 武道より早く食べ終わった万次郎がそう言った。少しほっとして、でも同時に少し焦る。
「今度はネギとか入れるんで……」
「今度?」
 初めて口角が少し上がった。「別に、なくてもいい」「いや、野菜は摂った方がいいし」「ネギで?」くつくつ、喉の奥を揺らす笑い方。あ、違和感。よく知っている万次郎の笑い方じゃなくて、武道はなんだかどぎまぎしてしまう。
 もそもそと万次郎より時間をかけて食べ終わって、武道は皿をテーブルの端に押しのけた。代わりに部屋の隅に放置していたノートを広げる。
 机上に片肘をついた万次郎の視線を感じた。構わずボールペンの頭をノックする。

 今日の日付と、目の前万次郎のこと。そして、炒飯に卵とツナと、ネギをいれること。ほとんど箇条書きで書いてノートを閉じた。ボールペンは間に挟んだまま。これでよくペンを失くしてしまうのだが、つい不精していつもちゃんと仕舞わない。
「オレ、これから買い物行きますけど、一緒に行きます?」
 頬杖をついたままノートの表紙をじっと見つめていた万次郎が、目だけで武道を見る。武道は料理も食べてくれたなら買い物も、と少し期待した。案の定、万次郎は長い睫毛を上下させて、目で頷いてくれる。
 やった、と立ち上がろうとすると、万次郎の手が武道の項に回った。
 え、と思った時には武道の唇にべたり、ぬるい舌が当たっていた。
「、っぅ、!?」
 咄嗟に下がろうとする頭を、首を支える手がますます引き寄せた。うっかり開いた唇の隙間に舌が入り込み、武道は反射でそれを噛もうとした。だが理性がぎりぎりでそれを止める。噛んじゃだめだ。柔く歯列に舌を挟まれた万次郎は、目を細めてもう片手の親指を武道の唇に捻じ込んだ。
「っふ、ぐ」
 閉じられないよう親指に歯を押さえられ、武道の唇の端から唾液が垂れた。熱さを増した舌はそれも舐めとる。
 万次郎はずっと武道の顔を見ていた。ぎゅっと目を瞑った、さして長くはない睫毛の、密集した根元にじんわり滲んでいく涙が、どこまで広がっていくのかずっと観察していたい気がした。
 少ししてそっと武道の咥内から舌と親指を抜き去ると、武道は今度こそ素早く距離を取った。
「な、なに」
「炒飯の味する」
 自分の唇を舐めながら真顔でそう言う万次郎に、武道は顔を真っ赤にしてばっとトイレに駆け込んだ。
 この猫の額より狭いアパートの一室で、一人になれる場所はそこぐらいだ。押入れは整頓できない武道の私物がみっちり詰まっている。
 万次郎はテーブルの端にあるノート、その表紙を摘まんでみたが、結局開けなかった。
 他人の書き物を勝手に見ちゃいけません、とかそんな常識から来るものではなく、なんとなく、そら恐ろしい気がしたのだ。
 ノートの角をかりかりと爪で掻いていると、しばらくして武道がトイレから出てきた。万次郎には見向きもせず、テレビの横におざなりに置かれた薄い財布をポケットに突っ込む。そのままサンダルを足に引っ掛ける。
 そっか、買い物。よれたジャージの背中を万次郎がぼんやり見守っていると、くるっと武道が振り返る。
「……え、一緒に行かないの?」
 ずる、と頬杖がずれた。
 まじまじと見つめるが、武道は不思議そうに首を傾げている。
 万次郎は小さく息をついて、重い腰を上げた。武道がちょっと嬉しそうに頬を緩めていて、仕方のないやつ、と思う。





 入ってすぐにある野菜コーナーでネギをカゴに入れた――レタスは高くて諦めた――武道は、適当に安そうな物を物色していく。万次郎は武道の二歩ほど後ろを黙ってついて来て、たまにスーパーの中を見渡していた。この万次郎にはめずらしい場所なのかもな、とちらと背後をうかがいながら、武道はこっそり笑う。
 特売の豚コマをゲットして、ちょうど男手があることだし飲み物も多めに買って行こう、と足を進める武道の目に、安くなっているチョコレートのパッケージが飛び込む。お菓子のコーナーはいつだってカラフルで目に楽しい。
 この前インスタント食品は買い込んだけど、お菓子には手を出さなかったな、と思い立つ。
「なんかお菓子買います? 一個までならいいっすよ」
 後ろを振り向いて、――あ、と瞬きする。
 立っていたのは、切り揃えられた黒髪をさらりと揺らす万次郎だった。
 かつての未来で、フィリピンで出会った彼だ。
 ――いつの間にか、“替わって”いたらしい。
「……買ってくれるの?」
 黒髪の万次郎は緩く微笑んで、「なんにしようかな」とおどけるように囁いた。するっと猫みたいに武道に近づいて、腰を抱いてくる。歩きづらいけれど、嫌がるとこの万次郎はますますべったり貼りついてくるから、武道は仕方なく黙っておつまみの類を探した。
「これ食べたい」
 カゴに放り込まれた袋に武道が「うわ懐かし」と思わず声を上げると、小さく吹き出す気配がして少し気恥ずかしい。最近あまり見なくなったスナック菓子のパッケージは子どもの頃の記憶とほとんど変わっていなくて、これ周りの粉がめっちゃ指に付くんだよな、と思い出が呼び起された。
「タケミっちこれ好き?」
「んー、好きっていうか、なんかたまーに食べたくなる感じ。そんな美味しくはないんだけど」
 万次郎は「ふうん」と武道の肩に顎を置く。どことなく、嬉しそうに見えた。
 その時、とたとたとつたない足音が近づいてきた。棚を曲がって来た小さな影が、武道たちを見て大きな目をぱちぱち瞬かせる。
 大の大人が、スーパーでべったりくっついている図がめずらしいらしい。子ども用のミニサイズのカゴ片手に、まだ小学校にも入ってないくらいの女の子がじっと見つめてくる。
 さすがに気まずい、と武道は距離を置こうとしたが、万次郎は何を思ったか、するっと背後から首に腕を回して更に密着してきた。
「ちょ、」
「んー?」
 ぺったり武道の背中に万次郎が貼りつく。なんか情操教育とか、一般常識的なあれそれを育んだりするのによくないんじゃないんだろうか。武道は万次郎の腕を引き剥がそうとしたが、膂力の差を鑑みれば絡んだ有刺鉄線を外すより無理ゲーだった。この子のお父さんお母さんごめんなさい、努力はしたんです。
 万次郎は武道の首に腕を回したまま、目の前の耳朶の後ろあたりに唇を押し付けた。「ぎぇっ」と色気のない悲鳴が上がる。「あっ」と女の子が小さく声を漏らした。
 万次郎は人差し指を口の前に立てて、「しー……」と歯の隙間から息を吐き出す。子どもはそれにぱっと頬を染めて、そそくさとお菓子のコーナーを出てしまった。
「ちょっ、マジ、なんなんすか、可哀想でしょ!」
「あの子がタケミっちのこと見てたから、コイツはオレのって教えてやんなきゃと思って」
「と、通りすがりの子どもにマウントを……? 怖過ぎる……」
 そもそも少女は武道のことなんてそのへんのおっさんくらいにしか思っていないだろうし、加えて武道は万次郎のものでもない。しかしそれを馬鹿正直に口に出すほど、彼との付き合いは短くない。
「ねーこれ一緒に食べよ」
「お菓子は一個!」





「何書いてんの」
 夕飯を終えてから、ノートを開く武道の手元を万次郎が覗き込んでくる。頬に彼のさらさらの黒髪が当たってこそばゆい。
「途中で替わっちゃったでしょ? だから今度、あっちのマイキー君に会ったらお菓子コーナー一緒に行こうと思って」
 忘れないように書いているのに、万次郎は唇を尖らせてノートの前に手を伸ばし、一切隠す気なく大胆に邪魔をしてきた。いっそ清々しい。
「オレが買ってもらったんだからいーじゃん」
「いや、違うマイキー君じゃん」
 ぐいぐい武道の腕と足の間に頭を突っ込み、ささやかな抵抗もかまわず万次郎は無理やり膝枕のポジションに落ち着いた。逆光の顔を見上げる。
「今はオレじゃん。他のやつのことは置いとけよ」
「他のやつって、おんなじマイキー君なのに」
「おんなじなら尚更オレに構えばチャラじゃん」
 謎理論を展開してくる万次郎の髪を撫でてやると、機嫌良さそうに喉を晒す。無防備で、この世に危険があることを知らない幼い子どものようだった。
 照明が眩しいのか、武道の袖を引っ張って光を遮るよう要求する。膝に乗せた頭を覆うように俯くと、武道がつくる影の中で万次郎が目を細めた。
「……オレを見てよ」
 額にかかる前髪をよけてやりながら、武道はその眉をなぞった。瞼を掠め、こめかみ、輪郭をたどる。髪型が変わっても眼差しが変わっても、すべて同じ慣れ親しんだ秀麗なその形。
「マイキー君、――アイス食べる?」
 囁いた武道に、万次郎は一瞬顔を歪めた。すぐに飛びつくように武道の首に手を回して、自らの上半身を起こす。
「う、ぐぇ」
「食べる。でも先に風呂入る。一緒に入ったら許してやる」
 ぐりぐり首筋に頬をすり付けてくる万次郎に、武道はその背をぽんと叩く。ぎゅう、と抱きついてくる力が強まった。





「そういや明日夜勤ですけど、昼から出かけます」
 湯船につかりながら、ふと思い出してそう告げると、足の間にいる万次郎がばっと振り返った。ぴしゃっと髪から散った水気が武道の頬を打つ。地味に痛い。
「用事?」
「うん、ヒナと飯食いに」
 万次郎は狭い湯船の中で無理やり武道の方へ向き直った。「いでで」と武道が呻いてもお構いなしだ。
「浮気じゃん」
「いやいやいや、そーゆーんじゃないでしょ」
「浮気だ」
「いだっ!?」
 びしゅっ、と水鉄砲で顔面を撃たれた。ただ手を合わせるだけのそれなのに、万次郎がやると威力が武道の知るそれじゃない。どんな水圧だ、とじんと痛む鼻の中心を擦る。
「ばか。オレも行く」
「マイキー君とは、今度どっか行こうよ、二人で」
 武道も万次郎と暮らし始めて一年が経つので、どうすれば機嫌が直るのか、ドラケン並とはいかずともだいぶ察せるようになってきていた。どこで機嫌を損ねるのかは、まだいまいち謎が多いけれど。
「……今度っていつ」
「空いてるとき、そうだ、双悪行こうよ」
「じゃあ明日の朝」
「朝ラーメンはちょっと……」
 まだまだ脂っこいものは大好きだが、朝からというのはアラサーの胃にはきついものがある。万次郎はむっすりと眉間に皺を寄せ、鼻より下を浴槽につけてぶくぶく息を吐いた。
「約束、ね?」
 精一杯ご機嫌取りをする武道に、万次郎はまた身体の向きを戻し、武道の胸へ背中を預ける。
「……ちゃんとノートに書いといてね」
「書く書く」
「風呂出たらすぐ書けよ、服着る前に書け」
「風邪引く……」
 ばしゃんと顔に水を掛けられた。こりゃ風呂上がりのアイスをあーんする必要があるなと、武道は額に貼りつく前髪をかき上げた。







 夜中、武道はふと目を覚ました。
 硬い敷布団と、すり切れて薄くなったブランケットの中。武道の胸にぴっとりと頬をつけて眠っていた、黒髪の万次郎の姿がない。
 上半身を起こすと、部屋の中に風の流れを感じた。
 部屋の窓は数センチ透かしてあって、入ってくる夜風が部屋の空気をかき混ぜていた。その窓辺、片膝だけ立てて、万次郎が座っている。
 風がその白髪をさやさやと揺らしていた。
 万次郎が武道を見た。青白い頬と黒ずんだような目の下の隈を、薄められた遠くのネオンが、浮かび上がらせるように淡く照らしていた。絹糸みたいになめらかな髪が、薄暗い空間でぼうと光を吸収している。
 かつてあった未来で武道を撃ち抜いた時のような、黒々とした瞳は微かな明かりも全て飲み込んで、何もその表面に浮かべないままこちらを向いていた。
「万次郎」
 武道はブランケットをめくって、自分の隣の空間をあけた。
「おいで」
 一緒にアイスを食べていたときのような温かみが失われてしまった部屋に、武道の囁きがふっと落ちた。真白い頬の筋肉一つ動かない。排気口から漏れる濁った空気、水商売の女たちの甘ったるい香水、キャッチをする男の馴れ馴れしい声、昼間焼けたアスファルトと、隣人が吸う煙草の匂いを全て混ぜこぜに含んだ風だけが、今万次郎に触れているものだった。
 武道はブランケットを羽織ったまま、膝で敷布団から下りて畳を進む。痩せこけた身体を包むように抱き締めた。
 微動だにしない身体を抱いて、そのままころりと一緒に寝転がる。無抵抗だった。
 明日は少し身体が痛いかもしれないな。温度のない肉体を自分と共に薄い布で包み込むと、ようやく腕の中の彼が緩慢に身じろいだ。身を縮めるように背中を丸めている様は自分自身を押し潰そうとしているみたいで、ちゃんと呼吸してほしくて背中を撫でる。額がそっと武道の肩口に、触れるか触れないかまで寄せられた。武道はその頭をやんわりと抱き寄せて、自分に預けさせた。
 襟首がよれたシャツから覗いている剥き出しの鎖骨を、万次郎の柔らかな前髪が擽る。胸に湿ったぬるい吐息が当たって、武道は少しほっとした。
 白く産毛が光る項に、彼の兄のピアスを模した刺青が沈んでいた。
 緩く曲がった背中に手を這わせる。浮き出る背骨の一つ一つを指の腹で確かめるように辿った。それは今にも皮膚と薄い肉を突き破り、花咲くように広がって武道ごと彼を飲み込んでしまいそうだった。痩せた身体にはぎゅうぎゅうにコールタールみたいな絶望が詰まっていて、彼のしなやかな筋やまろく臓器を囲む肋骨が、それに周りの人間を呑み込ませまいと堅く閉じ込め、守っている。
 その椎骨の一つ一つが愛しくて、指で確かめる。水底に沈む、貝殻の規則的な溝。あるいは美しい女性のその白い首に連なる、真珠のネックレス。そんな優美さを備えた骨の凹凸。しかしそれは少し力を籠めればかしゃかしゃと砕けそうな、珊瑚の死骸のような脆さも武道に感じさせた。
 深海を背負っているみたいな人だ。彼を抱いていると、武道も深い深い海に沈んでいくようだった。宵闇が武道たちへゆったりと重くのしかかり、流れ込んでくる。髪の隙間まで暗闇に満たされて包み込まれる。こぽこぽと口から零れた息が、丸く形を成して上っていく。こわくはない。音もなく、温度もなく、光もなく、ただ穏やかにこの男を抱き締めてどこまでも沈んでいく。海の底へ。
 大丈夫だよ。頭を撫でる。大丈夫。朝が来る頃になったら、オレが泳いで君を引き上げるよ。それまでは静かな場所で、溺れるように眠っていよう。やわらかな髪に唇で触れる。
「おやすみ、万次郎……」

 目を覚ましたとき、腕の中にいたのは短い金髪の万次郎だった。自分が会ったことも、写真で見たこともない佐野万次郎だ。
 水面へ引き上げる前に、彼は入れ替わってしまったようだった。ほんのちょっと涙が出そうになって、でも唇に力を入れて、朝食の支度をしようと身を起こす。










 タイムリープという長い旅の終着点。十年前から現代へと帰還を果たして、ひと月ほど経ったときにその事実を知った。
 佐野万次郎が、“別の佐野万次郎”になる。
 ドラケンからそう聞かされた時、最初は意味が理解分からなかった。万次郎と会って、少し一緒に過ごせば――彼には最初会うのを拒まれたが――すぐに、理解せざるを得なかった。
 それは、この世界では武道だけが知っている姿だった。
 ある時は一番最初に写真でだけ見た、元々の世界線の金髪を撫でつけた姿。
 ある時はフィリピンで出会った、切り揃えられた黒髪の少しあどけなく見える姿。
 ある時は梵天の首領として孤独を歩んでいた、寒々しい白髪の姿。
 他にもさまざまな“佐野万次郎”がいて、そのどれもが本人であることに違いはなかったが、同時に“本来の”万次郎と異なる人格であることも確かだった。
 短い時は小一時間、長い時は一週間ほど。ランダムに、順番も時間も関係なく別の万次郎に替わったり、戻ったりする。そして別の万次郎になっている間、その間の記憶は本来の万次郎にはおぼろげになってしまう。
 その病気や体質では済まされない異常を、すぐに事実として受け入れられたのは数名。武道のタイムリープを知っていた人間だけだ。
 どういう理屈でそうなったのか、それにどんな意味があるのかは誰にも分からない。それでも武道は理解した。理解して、奈落の底に突き落とされたような気分になった。
 どうしてあの奇跡の代償を払うのが、幸せになってほしかった君なんだろう。
 武道がタイムリープによって改変した世界。あるはずだった――もうないはずの世界線の万次郎たちが、この世界の佐野万次郎に収束されている。
 親友も身内も全て奪われた彼も、友人たちを手に掛けた彼も、武道を殺めた彼も。
 全て、自分が殺した佐野万次郎だ。そう思った。







 橘日向に会うのは久しぶりだった。彼女はいつでも変わらない。雰囲気が軽やかで、瞳がきらきらしていて、微笑みは愛らしい。付き合っていた頃からずっとそのままだ。
 万次郎の身に起きていることを知って、武道は日向に別れを切り出した。あんな体質では、まともな社会生活を送ることは望めないだろう。そんな万次郎を、武道は傍で支えることを選んだ。それは償いとかじゃなくて、武道はずっと前から、あの黒々とした瞳の万次郎を放っておくことができないのだ。他の誰が幸せでも、万次郎一人が不幸であることを受け入れられないくらいに。
 結婚を前にして頭を下げた武道に、日向は泣きも怒りもしなかった。彼女は全てを分かっていた。ただ一言、武道が大好きな笑顔で『待ってるね』と言った。武道にとって彼女は愛する人であり守るべき人であり、いつだって武道を許し、支えてくれた人だった。
 万次郎が満足に社会と繋がれる状態でなくなってから、武道も他の誰かと遊んだりすることに消極的になった。それを咎めたのがこの世界線の万次郎だ。彼は日向と別れた武道が同居を提案した時も烈火のごとく叱り飛ばしてきたし、なんなら一発もらったが、持ち前の諦めの悪さで武道が根負けさせた。
 武道が普通に生活すること。それが同居するにあたって最初に提示された、唯一のルールだった。万次郎の優しさだと分かっていたから、武道は素直にそれに甘えたし、ドラケンや千冬なんかのタイムリープの事情を知っている友人たちを招いて、宅飲みなんかもよく計画した。
 二人の生活は、思いの外穏やかに過ぎて行く。散らかし過ぎると万次郎が容赦なく物を捨てようとするので武道はゴミ出しをちゃんとするようになったし、頻繁な外食も難しいから、拙いながらも自炊する回数も増えた。味は上出来とは言えないが、それでもほとんどの万次郎は、そのさして美味くもない料理を完食してくれる。非科学的な現象が常に隣で置き続けている事実とは裏腹に、劇的な事件は何もなく、続いているのは人間と人間が営む、ただのありふれた生活だ。
 そんな中で、武道は日記とも独り言とも言えない文をノートに綴るようになった。いろんな万次郎と過ごす中で、大きな問題こそ起こらないけれど、手から砂が零れるようにささやかな生活の欠片を取りこぼす時がある。食べたいと言われた物を買って帰ったら別の万次郎に替わっていたり、ともに見ていた映画のラストに差し掛かる場面で入れ替わってしまったり。そういう些細で取りとめのない、でも叶えてやりたいことをノートにメモするようになった。この一年でかなりのページを使ったと思うが、結局どれもタイミング悪いばかりで、ほとんどが果たされていない。





「ただいまー……」
 夜勤を終えて、深夜、なるべく音を殺しながら扉を開ける。明かりのついていない部屋に人影が見当たらなくて、あれ、と首を傾げた。
 出掛けているのだろうか。たまにふらっと散歩に出たりしているが、この時間に?
 トイレか? と首を巡らせたところで、突然背後から強い力で襟首を掴まれた。
「っが……ッ」
 畳に引き倒される。開けっ放しの玄関から入る非常口の誘導灯が、自分にのしかかる男の顔を逆光にして隠していた。
 長い黒髪に頬や首筋を撫でられた。
 あ、このマイキー君だったのか。唐突な襲撃に粟立っていた背筋から、じわりと緊張が抜けて行く。扉の影に隠れていたらしい。
 腕が喉を圧迫していて息苦しいが、ひとまず不審者じゃないことに、武道は場違いにも胸を撫で下ろした。こんな事態でも、目の前にいるのが万次郎である、それだけでもう恐怖は煙のように消えていた。
「……ただいま、マイキー君……」
 万次郎はさっきから何も言わない。この万次郎と、武道は未だまともに口をきいたことがなかった。長髪の万次郎は、表に現われるとすぐにアパートを出て行ってしまって、他の万次郎に替わると戻って来る。追いかけたのは大雨が降った日だけだ。この日、武道は自分の家に傘が一本しかないことに気づいた。その傘を彼に押し付けて自分は濡れながら戻ったので、次の日風邪を引いた。
「……遅くなってごめんね。明日の朝ね、小倉トーストにしようよ。小豆の缶詰買ってあるんだ」
 武道が垂れ下がる髪を耳に掛けてやろうとすると、腕の筋肉の震えが接触している喉から伝わった。すっと離れる腕を、武道は仕事終わりの疲労する腕を伸ばして掴む。
「ね、散歩行こう」
 彼がまた出て行ってしまう前に、その手を引く。





 自動販売機の明かりが先にある。その周辺だけが人工の光に姦しく照らし出されているが、そこを過ぎればすぐ暗くなり、どういう物が並び立っているのかすら分からない。昼だって通る道のはずなのに、こうして歩いていても何があるのか思い出せなかった。見えなくなるだけで、そこに何か潜んでいるような気がするのはなぜだろう。
 空に星はなく、立ち込めた雲は小さな月も独り占めにしている。
 夜の街の煌びやかな光源は、足元までは届いてくれない。万次郎の手を引きながら暗がりを歩く。二人の足音は静謐な夜を少しずつ乱す。足音のおかげで、武道は自分が万次郎と一緒にいることを認識できた。確かに手を握っているのに、握り返してくれない冷たい手は、この宵闇に馴染んでいつの間にかなくなってしまいそうで怖かった。夜の端を掴んでいるみたいに心もとない。
 沈黙が暗闇を助長しているような気がして、武道は最近耳につくCMソングを口ずさんだ。途切れるような独特のメロディーのバラード。でもコマーシャルで聞くだけだから、知っているのはサビの一部だけで、すぐに前も後も分からなくなる。
「これ、たぶんですけど、千冬が好きなバンドなんすよ」
 中学以来の相棒はセンスがよくて、千冬が勧めるインディーズのバンドはそのうちあっという間にメジャーデビューする。この前流行ったドラマの主題歌もそうだし、この歌も、何年か前に千冬が教えてくれたバンドのニューシングルだ。
 二人の足音と、武道がたまに口ずさむ歌だけ、夜をやさしく揺さぶる。
 足音が一つ止まって、もう一つもすぐに止まる。武道は口を噤んで、立ち止まった万次郎を振り返った。
「オマエの大事なひとは皆オレが殺したよ」
 目が合った瞬間を撃ち抜くように、初めてこの万次郎が口を開いた。声はやはり変わらず、武道の知る万次郎の声だった。
 武道の手の中、不自然な位置にタコのある指が無抵抗に収まっている。
「許せるか?」
 それは挑発的でもなく、憐れみを誘うような色もしていなかった。純粋な、“この”佐野万次郎の疑問だった。武道は躊躇いなく答えた。
「許せないよ」
 それは歌うように自然に口をついて出た。
「でも君を愛してる」
 万次郎の手をしっかり繋ぎ直す。この深い夜の底で、寂しがりの彼がはぐれてしまわないように。





 自販機の傍に来たときだった。武道に握られているだけだった手が、一瞬にも満たず弱々しく、縋る幼子のように武道の手を握り返した。はっと足を止める。
 ジジ、と自販機の明かりが明滅した。
 手はすぐに脱力した。武道はその手を放さないまま、背後の彼を振り返った。
 凪いだ湖面のように、微笑む男が立っている。
「――ただいま、タケミっち」
 万次郎が、しっかりと武道の手を握り返した。
 短い黒髪、ゆるやかな、薄い甘さが滲む微笑。
 この世界の佐野万次郎。
「…………、おかえり、マイキー君」
 彼に「おかえり」を言うことに、武道は躊躇いがある。彼だけにそれを言うのは、別の万次郎たちに申し訳ない気がして。でもそれを見越したみたいに、万次郎はいつも「ただいま」と言うから、武道もいつも「おかえり」と返す。
「どこ行くの」
「コンビニ。なんか、アイスとか買おうかなって」
「あずきバー」
「スイカも捨てがたい」
「パピコも」
「いっそソフトクリーム」
「天才じゃん」
 繋いだ手をゆらゆらと揺らされる。こうやって会話をしていると、辺りの暗さが薄くなる気がして不思議だ。
「そーいや炒飯、作ってよ。食べ損ねた」
「ん、今度はネギあるから」
「なくていい」
「あった方が美味いって」
 不満を表すように握力を強められる。痛くて身をよじると笑う気配。
「じゃあまた昼は炒飯で……」
「朝は?」
「んー……小倉トースト」
「えっ、最高」
「うん、小豆、いっぱい乗せていいよ、バターも……」
 会話が夜を満たす。子どもみたいに繋いだ手を振って、同じ歩幅で歩いていく。















 涼しさと肌寒さの中間のような真夜中、武道と繋いだ手はどちらのものか分からない汗でしっとりと湿っていて、でも放す気になれなくて揺らし続ける。
 会話が途切れた拍子、武道が何かのメロディーを口ずさんだ。愛の歌だった。耳を澄ましたけれど、続きはもう歌わないようだった。また聞くときは来るだろうか。それに耳を傾けるのは別の自分かもしれない。
 他の万次郎が表に出ているとき、記憶はぼんやりとしているけれど、でもその時の感情の揺れだけは強く胸に残る。嬉しさだったり、ちょっとした憎らしさだったり、嫉妬心だったり。もっと強い感情の、津波のような奔流も。
 さっきまでの自分の気持ちも、なんとなく今の万次郎の中に、その残滓が揺蕩っている。
 もうあいつは、表に出てくることはないんだろうな。なんとなくそう察した。武道も、気づいたかもしれない。
 万次郎がこんな体質になった時、武道は自分を責めたけれど、万次郎が責めたのは自分と、その浅ましさだった。
 もうこんなに救ってもらったのに、まだ救われたいのかよ。
 一緒に暮らそう。そう言われた時の、恥ずかしさと悔しさと、どうしようもない嬉しさ。可愛いあの子と結婚して、たまに一緒に遊んで、いつか子どもの顔を見せてくれたら。そんな淡く美しい願いを飲み込む、暴風雨のような欲求。
 少ない荷物をもってあの小さなアパートに足を踏み入れた時、万次郎は確かに満たされていた。
 無数の未来の中から、今の万次郎を掴み取ってくれた武道。今手を引いてくれるこの男は、もういないはずの万次郎たちが抱える空洞すら、埋めてくれようとしている。
 空いた穴が満たされたら、彼らはようやく本当に、今の佐野万次郎の中で、その一部として眠れるのだろう。
 いつか、全ての自分が満たされて、この身体が今の万次郎だけのものになったら。その時武道は隣にいるだろうか。それとも安心して、愛した女性の元へ戻るのだろうか。
 その時が来たら、自分はこの手を放してやれるだろうか。
 武道がまた同じメロディーを繰り返して、万次郎の手をきゅうと握った。万次郎が今自分の手から完全に力を抜いても、決して放さない強さで。
「やっぱ見てから決めようよ」
 武道は振り向かずにそう言った。後ろに必ず万次郎がいることを、疑うことすら知らない声だった。
 手を握り返すと、男の硬い指が万次郎の手の甲、その浮き上がった骨をそっと慈しむようになぞる。慣れた仕種。
 月すら照らしてくれない闇の中、怖がりなはずの武道が、万次郎の手を引いて前を歩く。繋いだ手が揺れるたび、しっとりと汗ばんでいる掌がすれ合った。
 そっと、確かめるように手に力を込める。
 いつか、ただのどこにでもいるありふれた男になった時。対等になれたその時も、どうかこの手を放さないでほしい。オマエがいてくれないと夜の歩き方も分からないんだ。戯れに口ずさむその何小節かの愛を、どうかオレのしるべにさせて。願いは月も見ていない、ただ彼だけに捧げられている。






BLコンテスト・グランプリ作品
「見えない臓器の名前は」
- ナノ -