語り部たちの讃歌




※『語り部とヒーロー』同世界線。

01.
(じわじわ同棲に持ち込もうとするまいくんのマイ武)


「ただいま〜」
「おかえり、マイキー君」
 渡した覚えのない合鍵で普通に家に入ってくるマイキーを迎える。彼は機嫌良さそうに高級そうなショッパーを掲げた。
「お土産」
「別にいーのに……」
 マイキーは慣れた様子で手を洗いに行った。ドラケンに外から帰ってきたら手を洗えと言い含められているらしい。
「やっぱ我が家落ち着く」
「あ、そう……」
 タケミチが出した麦茶を飲んで、マイキーがにこにこ笑う。
 否定しづれぇー……。タケミチも麦茶をちびちびと飲んだ。
 タケミチの方が悪かったのだ。毎日のようにやって来るマイキーに、つい「おかえり」と言ってしまった。その時のマイキーときたら、目はきらきら輝き、頬には少女のようにほんのりと赤みが差していた。ぼやっとした声で「ただいま……」と消え入りそうにそう返して。
 因みにその後武道宅を出て仕事に戻っても機嫌の良さはしばらく継続したので、東卍の下っ端たちはすわ明日が世界の終焉かと戦慄した。だって売春斡旋業者のアジトにアサルトライフルでカチコミかけて一般市民を巻き込みかけたスマイリーを、一発ぶん殴るだけで手打ちにしたのだ。上げて落とす作戦かと思った。
 挨拶に関して、いや〜間違えちったなんか恥ず〜次は気をつけよ〜と思っていたタケミチだったが、次に訪問してきたマイキーが「ただいまー」とちょっと照れながらも嬉しそうに言ったので、「おか、おかえり……」と言わざるを得なくなった。なんだこの甘酸っぱい雰囲気。やめて?
「お土産美味い? 今人気のやつらしいんだけど」
「あっはい、好きな味っす」
「ほんと? よかった、買収しとくね」
「オレの一言で世界が……」
 突然核のボタンを渡された気分だ。迂闊に独り言も言えなくなってしまった。タケミチの家なのに。





 今ではすっかり家にほぼ居着いているマイキーだったが、ほんの三か月くらい前まで、すっかりタケミチのことを忘れていた。
 ど忘れとかではなく、存在ごと全て記憶になかった。
 タケミチがマイキーをトリガーとしたタイムリープを経て現代に戻ってきたら、皆の中から丸々自分が抹消されていたのだ。泣いた。隣人の壁ドン(苦情の方)を貰った。
 しかもちょっと調べてみたら、東卍が反社会勢力になっていた。仕事の休憩時間に知ったのでバックヤードで泡吹いて倒れるかと思ったが、裏社会を統制する組織と分かってひとまずは落ち着いたり、いややっぱりやばいんじゃと青褪めたり。仕事でいつも以上にミスを連発し、長谷川からのマイナスだった信頼が更にマイナスになりマイナスかけるマイナスでプラスになったりしなかった。
 これはタイムリープの代償なのだと必死に自分を宥めていた矢先に、マイキーと遭遇したのだ。
「記憶戻ったの運命だと思うんだよな」
「それだとナオトとか稀咲も運命になっちゃう……」
「他の男の名前出すな」
 紆余曲折あったが、こうして皆の記憶が戻ったのは幸運だった。白状する、めっちゃくちゃ寂しかった。



「エッ、でも千冬はペットショップで働いてるじゃないすか」
 千冬が会議にポメラニアン連れて来てさあ、それでもう会議どころじゃなくて、机片付けてフリスビーで遊んだんだよな。
 マイキーの記憶が戻って一週間、その爆弾発言にタケミチはあんぐり口を開けた。
 現代に戻ってすぐ突撃したペットショップで、千冬が自分に店員として他人行儀に接客してきたあの時の衝撃は未だ忘れていない。思い出すと心臓がキュッとなる。
 それでもまっとうな仕事を頑張ってるんだと、ひっそり喜んでたのに。
「表ではペットショップしてるけど、フツーにうちの幹部。バジも一虎も」
「嘘でしょ」
 健全に働いていると思っていた相棒は、まさかの反社会勢力の一員だったらしい。猫にでれでれしてたあの姿は世を忍ぶ仮の姿だったのかよ。
「ってことはドラケン君も」
「乾もそうだし九井も稼いでるよ」
「じゃ、じゃああの売れっ子デザイナー三ツ谷君も」
「売れっ子モデル八戒もだな」
「まさかエマちゃんも女幹部に」
「いやエマは巻き込んでねえ」
 可愛い妹をアンダーグラウンドへ引き込むことはしなかったらしい。マイキーが変わりなくて安心した。後日、「あれ、そういやオレにはめっちゃ絡んできますよね? パンピーなのに」と疑問を呈せば、「え? だってタケミっちだし……」ときょとんとされた。これにはまだ納得してない。
「他のみんなも表の顔と裏の顔が……?」
「人による。イザナなんか身寄りのない子供支援するNPO法人立ち上げたけど、自分の顔出すのは嫌ってそのへんのおっさん代表にしたし」
「中身も見た目も足長おじさんじゃないすか」
「勝手に部屋入って物置いて一人で悦に入ってるサンタぐらいきめーよな」
「サンタと揉めたことあるんすか?」
 自分の存在が消えている間に、友人たちは尽くアングラへの道をバイクでかっ飛ばして生きて来たらしい。いやまあでも、皆マイキーについていくよな。当然っちゃ当然の帰結なのかもしれない。
「じゃあ千冬たちは世間的に仕方なくペットショップしてるんすか」
「この前東卍の今後に影響する重要な取引があったけど犬の譲渡会で欠席してた」
「安心しました」
 たとえ法律に中指立てる仕事をしていても、相棒が変わりなくてほっとした。しかしながら、過去で親しくなった知り合いがほぼ社会の敵という事実はなかなか受け止めきれない。
「ま、どいつもこいつも元気有り余ってるから気にすんなよ。ペーやんなんかこの前新興の組に拉致られたけど一人で壊滅させて帰って来たよ」
「ワア……さすが……」
 皆に会いたいような、でも思い出さなかったら辛いから、顔を合わせるのが怖いような。そう思っていたのに皆漏れなく思い出してくれた。嬉しいけど、呆気なさ過ぎてあの日の涙を返してほしかった。





 裏社会の王様が、お土産を摘まみながら「ねーココア飲みたい」と机をぺしぺし叩く。この間までタケミチの家にココアなんてなかった。マイキーが持ち込んだものだ。
 社会に反する方々と関わるのは、一店舗の店長としても非常に、非常にまずい。が、もうそれは今更というものだ。
 最近、ほぼ毎日マイキーはタケミチの家に来るし、平均週四で宿泊している。歯ブラシとか下着が置いてあると気づいた時には、寝巻も気に入りのクッションも持ち込まれていた。じわじわ自宅が侵食されている。
 さすがにやんわり抵抗すべきかとも思ったのだが、タケミチのさほど美味しくない料理も幸せそうに頬張るマイキーを見ると、やっぱり口を噤むしかない。
「はい、どーぞ」
「さんきゅー」
 タケミチとの何気ないやり取りや生活の共有を、マイキーは結構大事にしてくれているようだった。今もほくほくとココアを啜っている彼の、その手にあるマグカップ。あれはタケミチと色違いだった。
 揃いのマグカップを買ってきた時、分かりづらいが彼はかなり喜んでいたらしい。二個買ってきたマグの内、一個マイキー君が使えばいいよ、とタケミチが何気なく差し出したのだ。そこに遠回しに想いを伝えようとか乙女チックな要素は一切なく、自分のをうっかり割ってしまって、二個で格安になる見切り品があったから、というごくごく庶民的な事情だった。しかしマイキーはその日一日、暇さえあればじっとマグカップを眺めていたのでめちゃめちゃ怖かった。翌日マイキーのトークアプリのアイコンが二人のマグが並んだ写真になっていて戦慄した。あの無敵のマイキーが、匂わせ(おそらく無自覚)してる……えぐ……。
 ずっと初期アイコンから変わらなかった首領が突如彼氏ができた女子大生みたいな写真アイコンにしたことで、東卍幹部たちもかなり混乱しボス抜きの緊急会議まで開かれた。妹たるエマだけが、兄に春が来たのだと喜んだりしていた。
「そういやさ、さっき映画借りて来た。一緒に観よ」
「うわっ、ホラーじゃん! 無理っす無理っす!」
 健やかに生きているマイキーなので、鬼畜ぶりも中学の頃と遜色なかった。レシートを見れば去年話題になった本格ホラーのタイトルと、レジをした店員の名前。長谷川……店にも押しかけてくるマイキーのことを把握している彼女のことだ、絶対一緒に観るんだろうなダメ店長ざまぁとか思いながら貸し出ししたに違いない。
「安心しろよ、風呂も寝る時も一緒だし、トイレもついてってやる」
「う、裏があるどころじゃねえ、表に出てる」
 結局部屋まで暗くして強制的に見せられた。六回本気の悲鳴を上げて八回隣人に壁を殴られた。



「怖かった? ん?」
「なんで嬉しそうなんすか……」
「一緒に風呂入ろうぜ。シャンプーしてる間背後見張っててやるよ」
「それマイキー君の視線のが気になるやつ」
 膝を抱えて震えるタケミチの顔を覗き込み、マイキーがにまにま笑ってさわさわと頭や背中を撫でた。
「優しいだろオレ。この前タケミっちがイザナのことおじさんって言ったのも黙っとくよ?」
「悪意のあるトリミング」
 本当に優しいひとは恐怖に半泣きの人間の写真を撮ったりしない。
 その後しつこいマイキーと仕方なく一緒に風呂に入り(前に不可抗力で一緒に入浴した時味を占めている、絶対)、一緒にうっすい布団に入った。身体がはみ出そうだから、と理由をつけて、マイキーはタケミチにぴたっとくっついて来る。
「そしたらさー、ケンチンめっちゃ怒るんだぜ。トラックひっくり返しただけなのに。ひでーだろ?」
「はあ……ドラケン君の苦労がしのばれます」
「は? なんでケンチンの味方すんだよ、オレを褒めろよ」
「味方になる飛び越えて褒められようと……? ご、強欲……」
 大人が寝付くにはまだ少し早い時間だが、マイキーには健康でいてほしいので速やかに消灯した。マイキーはいつもタケミチにくっついて、眠気が来るまで東卍のことを楽しそうに話す。
「タケミっちにスゲーとかカッケーとか言われたい」
「それならまずパンツに手いれようとすんのやめて……」
 手首を掴んで引こうとしたが、力、力つよ。全然抜けない。
「いやマジで、浮気になっちゃうから」
「アア゛? どこの間男だ」
「なんでだよ。ヒナっすよ」
 どっちかというと間男はマイキーである。
 狭い布団の中でごそごそ距離を取ろうとすると、頬を膨らませたマイキーがタケミチの肩口に顎を乗せてきた。重い。
「ヒナちゃん記憶まだ戻らねえんだろ?」
「まあ、はい、でもナオトの紹介でこの前会って……いやーやっぱりいつの時代でも美人すねヒナは」
「でれでれすんな」
 バチンと頬を叩かれた。辞書の『理不尽』の例文に自分とマイキーの名前があっても驚かない。
 相手がすっかり忘れているとしても、結婚まで誓い合った女性だ。ヒナに他に好きな人でも出来ない限り、他の人とどうこうなろうという気にはなれない。
 マイキーは唇を尖らせて、「身持ち堅い」とぼやいた。女性じゃあるまいし。しかも中学時代はエマの誘いにホイホイついていくようなクソバカだったし、うっかり風俗の誘惑に流されかけたこともあるので、特別貞操観念が強固なわけでもない。ただタケミチだってもう中身も外見も大人だし、ヒナの両親へ挨拶だって済ませている(この現代ではしてないだろうけど)。その辺の分別はあるのだ。
 マイキーがぐりぐり乗せた顎を刺してきた。なんかのツボに入ってて痛い。
「やっぱヒナちゃん好きなんだ」
「そうっすね、なんか、ありきたりだけど大事で大事で仕方ないんすよ。マイキー君たちのことも」
 ぽろっと口からそうこぼしてから、あれ、これ結構恥ずい台詞じゃね? とタケミチは顔を顰める。しかし誤魔化そうと口を開く前に、マイキーの声帯の振動が肌から伝わる。
「……ずる」
 暗い部屋で、窓から入る夜のネオンに晒されたマイキーの青白い頬がぽぽ、と仄赤くなる。それがなんだかすごく可愛く見えて笑ってしまう。
 笑うタケミチが不服だったのか、マイキーは何か言おうとしたがすぐ口を閉ざし、ふっと息を吐いた。
「……なるほどね、確かにオマエって、そう簡単に心変わりするほど器用なやつじゃないもんな。分かった分かった」
「いやなんも分かってねえ」
 普通にのしかかりながら服を脱がそうとしてくるので、タケミチは全力で抵抗した。ビリッて音がした。お気に入りのシャツが。
「分かってるよ、ヒナちゃんの記憶が戻る前に既成事実作ったらタケミっちは優しいから責任取ってくれるってこと」
「やっぱマインドが反社ぁああ……!」
 ここまで力量差があるのに弱者に責任を負わせようとしてくるその気概、むしろ見習うものがあるかもしれない。ここまで強気になれるならどんなクレーマーも怖くない。
「任せろ、寝取りはカラダから落とすのがセオリーだって明石も言ってた」
「助けてお隣さーん!!」
 壁の薄さに一縷の望みをかけたが、壁を三回殴られるだけに終わった。信じてたのに。
「オレたちの幸せ願ってくれてたじゃないすか! 応援してよ!」
「ヤダ!! カッコつけて幸せになれよとか言ったけど全然オレの方がタケミっちに幸せにしてほしい自信ある! 奇跡的に巡ってきたチャンス逃したくない!」
「幸せにしてほしい自信て何!」
 中学生のときよりとっくに成人した今の方が俄然わがままになっている。誰だこんなに甘やかしたのは。ドラケン? 三途? 東卍全員か? この疑問を口にすれば東卍幹部たちはにべもなく「オマエ」と答えることをタケミチは知らない。
「ちょっ、まっ、万次郎、いい子だからやめろ! お行儀よく!」
「いただきます!」
「そういう行儀のよさじゃない!!」

 この後ドラケンに救出された。















02.
(みっちの真実に迫るばじさんのバジ武、ふゆタケ)


 運命、或いは歴史の修正力。ナオトはそう称した。
 曰く、タケミチのタイムリープによって本来の世界線とは未来が大きく異なってしまった。その帳尻を合わせるために、花垣武道という人間の記憶が関わったものから消えたのではないか、という話だった。本来タケミチは、東卍その他の面子とは関わりがなかったはずだから。
 タケミチは大体の不良の例に漏れずおつむの出来があんまりなので、小難しい話にはナチュラルにスペキャ顔を晒してしまうが、確かに思い至ることはあるな、と脳の片隅で思った。
 二回目の、中学二年生七月へのタイムリープ。そこで稀咲と一晩中殴り合い、和解(仮)(一応)(暫定)(渋々)(隙あらば再戦)したため、これまで過ごしてきた過去とは随分流れが変わった。しかし稀咲の策とは別にパーちんの友人が狙われたり、ドラケンが死にかけたり、一虎も前回とはやや異なる理由でバジを刺そうとした。タケミチの左掌には、その時バジを助けようとしてナイフが貫通した傷痕がある。キヨマサに刺されたり稀咲に撃たれることはなかったが、結局同じような傷が身体に増えていったので、どんなに過去を変えても幾らかは同じ未来に帰結するんだな、と馬鹿なりに考えた記憶がある。
 あれはナオトの言う修正力というやつだったのかもしれない。
 じゃあその修正する力を跳ねのけてオレのこと思い出してくれたのすげえじゃん。タケミチがそう言うと、義弟(予定だった男)はちょっと得意気に胸を張った。なんかヒナに似て可愛かったので頭を撫でたら怒られた。



「オマエさ、なんか、未来予知的なモン出来んのか?」
「んぇっ?」

「仕事終わったらバジさんと一虎君と飯行こーぜ」と千冬に誘われ、タケミチはペケJランドにのこのこやって来た。一虎の姿が見えないなと思ったら、彼は今日は東卍の方の仕事をしているため、遅れて現地集合らしい。
 まだ千冬はペットフードなんかの発注があるらしく、店内で待たせてもらう。「なんか似てるから」という理由でバジが抱かせてくれた小さなコーギーが、さっきからめちゃくちゃ顔を舐めてきていた。ここにマイキーがいなくてよかった。やつは犬にも嫉妬し対抗してくる。
「おう、コーヒー飲むか?」
「あっ、あざ、あざす、ふぐ、ちょ、飲めないかも」
「懐かれたなァ。飼うか?」
「や、まい、マイキー君がたぶん、犬もいびるんで」
「ヤな姑だな……」
 バジがひょいとコーギーを抱き上げると、途端子犬はタケミチの顔面を舐め回していたのが嘘のようにきゅうんきゅうんとバジの腕の中で大人しくなる。人間力の差か?
「千冬もうちょいで終わるってよ」
 有難くコーヒーを啜っていると、妙な沈黙が出来てちょっと落ち着かない。コーギーをケージに戻したバジの視線を嫌に感じた。ちらと元隊長をうかがうと、凝視されていたのは手の甲の傷だった。
 なんか気まずいが、隠すのも違うし。タケミチはそわそわとコーヒーを飲んで気づいていない振りをする。
「……オマエさ」
 めずらしく、バジがちょっと言いよどむような間を持たせた。首を傾げると、がしがしと後ろ頭を掻いている。
 続けて発されたのが件の台詞だった。



「よ、予知というと」
 口の端からだーっと垂れたコーヒーを手で拭う。バジがティッシュでごしごし拭いてくれた。その力の強さに首をがくがくさせながら、タケミチは鼓動の速さを実感していた。
 ばれてる? タイムリープのことが。
 タイムリープに関して、“一周目”の記憶があるのはトリガーだったナオトとマイキーだけだ。後はタイムリープ自体のことを話した人間はいるが、最初のタイムリープで救えなかったひとたちには到底語れる話じゃない。
 かつてのタイムリープについて、詳細まで話したのは千冬だけだ。バジが殺される結末の回避のために、実際彼が亡くなった未来のことも全て語った。
 千冬のことだから、いくらバジ相手でもそう簡単に口を割ったりしないはずだ。ましてや「あなたは死ぬ運命にありました」なんて、口が裂けても言わないだろう。
「オマエって最初に会ったときから変なやつだったろ。いくらぶん殴ってもやけにまとわりついてくるし、しかもなんか最近まで、オレらの記憶から消えてたしよぉ」
「変なやつ……」
「オレが一虎に刺されそうになった時も、分かってたみてぇに飛び込んできたし。マイキーたちも気づかなかったっつうのによ」
 分かってたんで、とは言えない。勿論一周目とは異なる流れだったのでバジが死ぬという確信はなかったが、ドラケンが殺されかけたりしたことも踏まえ、千冬と一緒に四六時中周りをうろちょろしていた。
 しかし、それだけのことで?
「オレがお守り持ってんのも知ってたし」
「あー、そうでしたっけ……」
「――オレが自分刺すのもすぐ止めたろ」
 双眸に射竦められて、たらりと冷や汗が背を落ちる。背中に手を伸ばして、そこにある小さな傷痕を引っ掻いた。
 肉食獣のような瞳だ。獰猛に見えて、思慮深い。
 バジは「刺されそうになった」と言ったが、実際のところ、彼は刺されている。タケミチの掌を貫通した刃は、その勢いを殺せずバジの腹まで届いてしまった。
 その失敗があったから、バジが自決の覚悟を決めた瞬間、タケミチはその腹に抱きついた。
 振り下ろされた刃は、切っ先だけタケミチの肩甲骨の上を抉った。突然抱きついたのに、よく止めてくれたなと思う。命を救う代わりに殺人犯にしてしまうところだった。
 そんなわけで、未だに背中に小さな傷がある、はず。目に入ることもそうそうないので存在すら普段は忘れている痕だ。が、今そこがずくずくと疼く気がした。
 ――たぶん、話せば信じてくれる。千冬と同じように。
 でも、知らせたくはなかった。バジが死んだこと、一虎に殺されたこと、――マイキーが一虎を殺したこと。
 今ここで可愛い動物たちに囲まれて、友人たちと笑って生きているこの人に、そんな世界の話をしたくはない。
 小さく息を飲んで、白を切ることを決めたタケミチが口を開く前に、ぱ、とバジが片手を挙げた。まさか殴られるのかとびくつく。
「――やっぱなんでもねえ。さすがにバカ過ぎるワ」
 長い黒髪を掻き回すバジに、タケミチは覚悟を置いてきぼりにされてフリーズする。徐々にじわり、じわりと肩の力を抜いた。
 いやめっちゃ図星デス。そう顔に出ている気がしてコーヒーを飲むふりで俯いて隠す。
 今、たぶん、見逃してもらえた。訊きたいことなんて山ほどあっただろうに、タケミチのことを慮って。
 やっぱ千冬が憧れた男だな、と、自然笑みがこぼれる。
 なんとなく嬉しい気持ちのまま見上げると、ばつが悪そうに顔を顰められた。
「んだよ」
「や、バジ君て頭いいなって……」
「ア? バカにしてんのかテメェ」
「いやマジっすマジっす、稀咲に張りますよ」
「ア゛アン!? あの腹黒と一緒とすんな!!」
「じ、地雷踏んだ」
 バックヤードからひょこっと頭を出した千冬が「待たせた!」と明るく笑っている。それから「一虎君仕事早く終わってもうすぐ着くって」とスマホを振る。タケミチは慌ててコーヒーを飲み干した。
「チワワの飯心配してたんで動画送っときました」
「おー、やっぱウェット系にしたら食うようになったな」
 二人はスマホを覗き込みながら話している。ペットショップは三人で上手く経営されているらしい。ここでこうやってコーヒーを飲む、そのためなら何回刺されてもいいな、と思った。







 千冬がある日号泣しながら同じく号泣する男を連れ帰って来てから、およそ二か月が経つ。
 ペケJランドはその時もう閉店間近で来客がなく、バジは子猫を猫じゃらしで運動させていた。買い出しに出ていた千冬の帰りが遅い。何か厄介事でもあったのか? とスマホを確認する。締め作業が一人だと面倒なので、早く帰ってきてほしかったのだ。正直心配はしていなかった。東卍のメンツは全員悪運が強いので、ガソリン掛けられて火を点けられても生還する。実際この前のバジがそうだった。稀咲のヤローが邪魔だった敵対勢力を誘導してバジにぶつけてきやがったのだ、腹立つ。ちょっと三か月でダンプ一台とミニバン二台をオシャカにしただけなのに。むかついたので稀咲の愛車を燃やしておいた。
 そもそもバジは稀咲とは生理的に合わないのだ。顔を見るたびなんか殴りたくなる。たぶん前世でタマの取り合いとかしてたんだろう。
 そんな殺されても死なない東卍幹部の一員たる千冬が、泣きながら帰って来た。しかも千冬以上に泣いている男の手を引いて。
 かれこれ付き合いは長いが、あんなに泣いている千冬をバジは初めて見た。成人男性二人が手を繋いで号泣している様子というのはもうドン引きを通り越してホラーだった。しかも千冬が連れて来たぼさぼさの黒髪の男は、明らかに殴られ蹴られされていてボロボロの有り様。事件性の塊だった。
 痛くて泣いてんのか、と思ったが、男は「ちふゆぅちふゅうう」とえぐえぐ千冬の名を呼び続けていた。千冬も「たけみっちぃい……」と泣いているし、ペットショップ内は完全なるカオスと化した。犬たちがめっちゃ吠えていた。
 とりあえずバジは「顔拭けよ」と近くにあったタオルを男に差し出した。それを受け取ったのは千冬で、子どもにするみたいに男の顔を拭き始める。それを見てから、あ、そのタオルさっき子猫包んでたやつだわ……と気づいたが、面倒だったので言わなかった。

 話を聞くに、千冬が最近この辺りで幅を利かせている半グレに絡まれた際、助けに入ったのがタケミチなのだそうだ。と言っても千冬がほぼ無傷なのに対してタケミチは満身創痍だったので、助太刀として役に立っていたのかは不明だ。
 ただ、たまたま背中合わせになった瞬間に、千冬は“思い出した”らしい。
 この辺りの話がバジにはよく分からなかった。昔の知り合いかと訊けば、覚えてませんかと千冬に迫られる。切羽詰まった様子の千冬をタケミチが宥める。そんなやりとりが数回あった。
 どうやら東卍が暴走族だった頃からの知り合いらしいが。バジの記憶にはこんな男の顔はない。千冬と親しいなら、自分も覚えていてもよさそうなものだが。
 どうやら随分遠方に行っていて、最近こちらに戻って来たらしい。海外にでもいたのか?
「てゆーか、ごめんな。オマエ、“こっち”戻ってきた時、オレに会いに来たろ」
「あー、いや、謝んなよ、仕方なかったんだしさ」
「けどオレ、結構きつめに言って追い返したじゃん」
「まあ千冬からすれば、いきなり知らない男が馴れ馴れしく意味不明な話してきたわけじゃん、引くのも無理ねーよ。自分で言っててもこえーし」
 千冬に手当てされている花垣タケミチという男は、さっきまでガキのように泣き喚いていたというのに、なぜか今はずっと年上のような、どことなく揺るぎない穏やかな雰囲気も垣間見せている。変なやつ。バジは率直にそう思った。
 二人を観察していると、不意にぼろっと千冬がまた大粒の涙を零したので、バジはまたぎょっとする。
「オレだけは戻ってくるオマエを笑顔で迎えたかった」
 タケミチを抱き締めてぐすぐすと泣く千冬と、あやすようにその頭をぽんぽんと撫でるタケミチ。懐いたやつ以外には基本塩対応の自身の右腕が、こうも気を許している相手。ますます自分が覚えていないのが不思議でならない。
「てゆーか千冬も手消毒しとけよ、オレ殴ったやつ顔面変形するまでボコってたじゃん……」と今度は千冬の手当てをするタケミチが、バジの視線に気づいて顔を上げる。その左手に明らかに刃物が貫通した痕があるのを見て、わりとヤンチャしてたんか、こんななよいのに、と思った。
「オマエはオレのこと知ってんのか」
 タケミチはへらりと笑った。間の抜けた顔なのにやはりどこか、泰然として見える。
「覚えてますよ、バジ君」
 ――この三週間後、転んだタケミチが腹に突っ込んで来た瞬間に、バジの中で記憶の奔流が起きた。キャパオーバーでそのまま倒れた。後にこのことをマイキーから「脳味噌の容量ペットボトルの蓋じゃん」と嘲笑われて殴り合いに発展したりした。たぶんバジの記憶が戻ったのが気に入らなかったのだ、あの万年小学生は。





 皿から海老を取られまいと抵抗するタケミチと、代わりに貝類をぶんどる一虎、店内で騒ぐなと叱る千冬。三人を眺めながら、バジは水で唇を濡らす。
 今までは三人で当たり前に外食していた。そこに今はタケミチがいる。
 違和感、という感覚すら浮かばない。ずっと前からタケミチはここにいた気がする。これが完成形だと思ったら、まだパーツがあって、付けて見たらこっちの方がしっくりきた。そんな感じ。
 なんで忘れてたんだろうな。おそらく自分は一生知ることのない答えを無意識に探す。
 タケミチは正直、バジの世界の異物だった。東卍に彗星みたいに現れた未知の何か。その未知に救われた。自分の命と、守りたかったもの。想像する。タケミチがいなくても、自分は欲しい未来を手に出来ていただろうか。
 バジを殺そうとした一虎に激昂するマイキー。バジは唯一無二の仲間に自分を殺させたくなかったし、彼らに殺し合ってほしくもなかった。そのためなら命を懸けられる。覚悟はしていた。
 なのにタケミチが飛び込んで来た。
 あんなに他人に怒りが湧いたのは、後にも先にもあれが最後だ。自分の覚悟に水を差してきた男が許せなかった。
 けれど死に損ねて顔を上げれば、必死な顔の仲間たちと、涙を流す千冬がいた。
 こんなに視界というのは広かったか。あの時の景色を、大人になった今でも覚えている。
 自分の覚悟が間違っていたとは、今でも思っていない。でも、タケミチに感謝している。
「泣くなよ相棒」
「いや泣くかよ。飯取られて泣くかよ大人だぞ」
 一虎に海老も貝も取られたタケミチに、千冬が甲斐甲斐しく自分のハンバーグを分けてやっている。記憶が戻ってから、千冬はタケミチを異様に甘やかしている気がする。自分たちの中でまだ、この男は学生のままなのだ。あの青い日々の中、いつもボロボロだった泣き虫の子ども。
 バジの自決を止めるために抱きついてきたタケミチに、千冬は泣きながら怒った。いつの間にか、タケミチはバジの右腕の大事な人間になっていた。
 そういう男だった、花垣武道という男は。
「泣くんじゃねえよ、ホラ、これも食え」
「しゃあねーなー、オレの唐揚げもやっから泣くなよな」
「だから泣いてないっすよ……何……皆何が見えてるの……?」
 なんでコイツのことを忘れていたのか、なんで未来のことが分かるみたいに動けるのか。きっと生涯知ることはない。それでいい、些末なことだ。バジもタケミチも生きている。
 四人で食う飯が美味い。これ以上のことがあるか。タケミチが貰ったハンバーグで舌を火傷していたので、バジはグラスに水を注いでやった。







・バジ
 地頭の良さと常識のなさによる論理の飛躍から、稀咲と同じくほぼノーヒントでタイムリープという事実に迫ったひと。東卍ではよくやり過ぎるが結果を出す男なので許されている(稀咲は許してない)。ペットショップの客に少なくない彼のファンがいる。

・ちふゆ
 絡まれてるときに飛び込んで来たタケミチにぽかんとしていたが、背中合わせになった途端記憶が戻って泣きながら相手をボコボコにした。以前よりべったりなのでタケミチ宅にお泊まりをよくするが、三回に二回の確率でマイキーがいる。















03.
(いぬぴとここくんとご飯食べに行くイヌ武、ココ武)


 ドラマなんかで、瓶で人の頭をぶん殴るシーン。あれは気持ちよくガシャーンと瓶が砕けるけれど、それはそうだ、撮影用のアメ瓶だから。
 実際、瓶で人の頭を殴ると、ゴン、という鈍く反響する音がする。瓶も割れない。
 タケミチは目の前でくずおれたチンピラを見下ろして、それから顔を上げた。イヌピーが空のビール瓶をもう一度振りかぶっていた。
「待っ、ま、うぉあああイヌピー君ストッ、ストップストップ!! ステイッ!!」
 イヌピーを止めようとタケミチは飛びついた。ほとんど頭突きみたいになった。軽々受け止められたためお互いダメージは受けなかったが、イヌピーが手放した瓶がゴヅン、とチンピラの頭部に落ちたせいでタケミチが追い打ちをかけたみたいになった。人生ってままならない。



「あの……瓶で人を殴らないでください」
 クソ英語講座の例文か? なんで自分はこんな台詞をわざわざ口に出して言ってるんだろう。
「けど花垣がコイツに胸ぐらを掴まれてて」
「ハイ」
「瓶が近くにあった」
「因果関係成立させないで」
 仕事終わり、居酒屋が並ぶ通りを歩いていたタケミチは、当たり前に酔っ払いに絡まれた。トラブルにしつこくアプローチをかけられる体質なのだ、昔から。
 胸ぐらを掴まれて酒臭い息に鼻呼吸を止めていたら、背後でビール瓶を振り被るイヌピーが見えて口呼吸も止まった。
 後は先述の通りである。
「でもってそろそろ放してほしい……」
「まだその時間じゃない」
「……あっ、一瞬納得しかけた……何そのカッコイイ感じの嘘……」
 イヌピーはタケミチを抱きしめたままご満悦だった。大好きな総長が自分に抱きついてきた(個人の感想)ことが嬉しかったのだ。
「ボース、ああいうときは二の腕の内側か足の甲を狙えよ。急所蹴ってもいーし」
「痴漢撃退教室?」
 本日はイヌピーとココと食事に行く約束をしていた。なので当然イヌピーだけでなくココもいる。撲殺未遂事件が起きていたとき、ココはイヌピーの背後で腕を組み瓶を振るう幼馴染を眺めていた。アイドルのステージパフォーマンスを見守るマネージャーみたいな顔をしていたのをタケミチは確かに見た。止めろ。
 現在ココは男のポケットを漁って免許証の写真を撮っている。それから近くの防犯カメラを確認しつつどこかに電話し始めた。タケミチは怖すぎて命乞いした。勿論路上で伸びているヤカラの命だ。まったくもーしょうがないなーみたいな顔を二人にされた。今月のベストオブ解せないの瞬間だった。



 ザ・敷居が高い感じの高級料亭。いろんな店に連れ回されるたびよれよれのパーカーを恥じたりしていたが、タケミチも随分慣れた。というよりココは個室を選ぶのでもうどうでもいいかと思考放棄するようになってきた。タケミチは順応性だけはある。
「これも食え。これも」
「イヌピー君、オレココ君じゃないから」
 タケミチの膳にひょいひょいと自分の分の料理を乗せるイヌピーは、タケミチと同じく彩りとか繊細な盛り付けなんかを感じ取るセンスが壊滅しているので皿の上が散らかっていく。
 そこそこ燃費が悪い彼の幼馴染と一緒にされては困る。市民らしくある程度意地汚いところがあるのは自覚しているが、フードファイターは目指してない。
「イヌピー君も食べてくださいよ、これ美味かったっすよ」
 止まる気配がないので交換ならいいだろ、と行儀悪く彼の皿につみれのような何か(名前も何が使われているのかも知らない)を乗っけようとすると、イヌピーがあ、と口を開けた。
「え……?」
 箸を皿の方に近づけると露骨にイヌピーがしゅん……としたので、恐る恐る口に持っていった。ヤローのあーんとか……やる方もやられる方もダメージを受けそうだが、イヌピーは満足そうに咀嚼している。
「オレはこれがいい」
 何かの照り焼きっぽいものを指して、ココも「あ」と口を開ける。流行ってるの? 目で催促されて仕方なく口に運んでやる。
 楽しそうに食事する年上の元部下たちに、タケミチはちょっと戸惑った。二人とも優しいから、反社生活が辛くて変な趣味に目覚めたのかもしれない。ちゃんと寝てるのかな……。
「はー、美味しくて困る……」
 運ばれてくる料理を粛々と平らげ、最後になんか雅やかな名前の氷菓に舌鼓を打ちつつ、タケミチは溜め息をついた。ココが器用に片方の眉を上げる。
「何が」
「いや、こんな高いモンばっか食ってたら生活水準戻せなくなるじゃないすか」
 これはわりと深刻な問題だ。最近スーパーの惣菜にいまいち食指が動かない。マイキーのお土産や三ツ谷が作ってくれるお袋の味、そして目の前の二人に連れて行かれる高級料理店で提供される品々。最近それらのおかげで舌が肥えてきた。さして高給取りでもなければ自炊スキルも底辺のタケミチにとって、由々しき事態となりつつある。
 竹製の匙を片手に、ココはちらっとイヌピーと視線を交わす。
「……別に、戻さなくていージャン。オレらとずっと飯食えば」
 そわそわと髪をいじりながら目を逸らす。商談ならなんでもござれ、人を騙すのも口説くのも大得意の男は、本命とは素直におしゃべりできないタイプだった。部下が目撃していたら東卍に九井一双子説が広まること必至だ。
 タケミチはへらへら笑った。
「いやんなわけにはいかないでしょ〜」
「…………」
 幼馴染から送られる生温い視線に、ココは手でその端麗な顔をぐいと押しのけた。





「ご馳走様っした! 今度ボーナス入るんで次はオレが奢ります。なんか新しいバーガー屋出来たらしいんすよ、職場の近くに」
 にへら、と笑うボスに、イヌピーとココの頬も緩む。昔から三人で食べるのが好きなのだ。物は駄菓子でもなんでもいい。この前もタケミチに奢ってもらったアイスを食べながら出社し、その機嫌の良さに部下たちの間では未だうちの上司アイスめっちゃ好きと誤解が続いている。
 タケミチは「じゃっ、この辺で」と解散しようとしたが、不意にするっとイヌピーに右手を掴まれ、そのまま握られた。
「え?」
「ん?」
「いや、あの……え?」
「?」
 そんな心底不思議そうに首を傾げられても。
「今日は徒歩帰宅だな。そのまま泊めてくれ」
「う、嘘でしょ反社は周りの視線怖くないのかよ」
 反対の手もココに取られた。しかも恋人つなぎ。男三人横並び、通行の邪魔過ぎる。
「え、二人とも迎えの人来てますよ」
「今日はもう帰っていいぞ」
 止めてある黒のリムジンにココは素っ気なく声をかけた。せっかく来てもらってたのに……とタケミチの方が勝手に罪悪感に苛まれる。なんかすいません、の意でぺこっと頭を下げると、何うちの総長に頭下げさせてんだとイヌピーの冷たい視線が運転手に突き刺さった。沸点がほぼ常温。
 まるで小さな子どもみたいに手を繋いで、月明かりの下を歩く。
「あ、待って、家にカップ麺と食パンとかしかないかも。朝トーストでいいすか?」
「なんでもいい」
「しゃーねえなー、今度一斤一万のやつ持ってってやるからな」
「やめて!! 戻れなくなる!!」







・イヌピー
 ぼんやり生きていたがタケミチのことを思い出して最近生き生き人を殴っている。なんかタケミチが昔のまんまなので中学生通り越して幼児みたいに思っている。タケミチはアラサーの自覚があるので認識の齟齬が生じているが気づいていない。

・ココ
 クレーマーから他の従業員を守っているタケミチの背中を見て記憶が戻り、イヌピーとクレーマーをボコった。とりあえず貢ごうとしているが手応えがあんまりないし、何気なく貰った飴とかもしばらく眺めてしまってイヌピーに生暖かい目で見られている。















04.
(みつやくんに採寸されるみつ武)


「その辺適当に座って」
「あっはい!」
「緑茶でいいか?」
「なんでもダイジョブっす」
「今日米は玄米にしてみた」
「いっすね!」
「採寸してもい?」
「もちろん……え?」
「ヨシッ」
 許諾の取り方が小狡い……引っ掛かる自分も自分だけど……。



 三ツ谷に飯食いに来ないか、と家に誘われた。交流が再開して以降、週二くらいで三ツ谷の差し入れを貰っているタケミチは、いやいやそんないつも悪いっすよと一応最初は断った。が、一度食い下がられたらすぐオーケーを出した。だって三ツ谷の飯は美味い。美味しいご飯の前に人類は皆無力だ。
 三ツ谷のところにご飯に行く、と話したらマイキーは自分も一緒に行くと言い出したが、仕事で三途に連れられて行った。よくうちにいるけどそういや一組織の長なんだよな、あの人……。タケミチはひっそり胸中で稀咲に黙祷した。たぶんなんやかんや生真面目なあいつが東卍を機能させてるんだろう。そういえばタケミチの記憶を取り戻した三日後くらいに、稀咲は胃潰瘍で入院したらしい。余程ストレスなことがあったみたいだ。大きな組織の参謀って大変だな。
「懐かしいな、オマエの特攻服作ったの」
 タケミチがしみじみしていると、随分年季が入っていそうなテーラーメジャーでそんなとこまで測る? ってとこを測っていた三ツ谷が呟いた。
「そっすね……でも、あの、なんで測ってるんすか……?」
 まだ三ツ谷お手製の特攻服はタケミチの手元にある。なんならまだ皆に忘れられていた頃、それを眺めながら一人で安い発泡酒を飲んで泣いていた。我がことながら引く。
「いや、さすがに目算でオーダーメイドはねえだろ」
「ヒィッ」
 びくんと身体が跳ねたら「大人しく」と腰のあたりをがっと掴まれた。うわ握力つよ。
「まさか嫌とは言わねえよな」
「オッ、オソレオオイデス」
 ぶんぶん首を横に振るタケミチに、「んー?」と圧を掛けてくる。この十年で、あの優しい三ツ谷もすっかり反社の人になってしまったらしかった。切ない。
「いやいやだって……見ましたよ、ネットの、あのハリウッドの人のオフショットのやつ。三ツ谷君のブランド着て、パパラッチにピースしてたやつ」
「あれなー、あれでうちのオフィスしばらく電話鳴りっぱだったわ」
 テキパキサイズを記録していく三ツ谷がなんでもないことのように言うので、タケミチはますます恐れ戦いた。件の写真を見たときはオレたち東卍のおかんが世界に羽ばたいてる……と感動したというのに、そんななんでもないことみたいに。その際同時にほんのちょこっとだけ寂しくなったのは内緒だ。
「オレの給料じゃ買えません……」
「押し売りするわけねえだろー? 貰ってくれよ」
 タケミチは膝が震えそうになった。料理を振る舞ってもらうのとは次元が違う話になって来てしまった。三ツ谷は「フォーマルは二着……いや三着欲しいな」ととんでもないことをぶつぶつ言っている。着て行くところもないのに?
「も、貰えません貰えませんマジで。自分を大事にしてください」
 うっかり援交するJKに対するみたいな台詞まで出てきた。それを聞いて、面白くなさそうに少し目を細められる。
「でもこれ貰いモンだろ?」
 長い指がタケミチの肩の布を摘まむ。シンプルなシャツだが、実はそのお値段はタケミチの三か月分の食費に相当する代物だ。袖を通す時動悸と汗が止まらなかった。
「いやこれは、ココ君が泊まったとき置いて帰って行くんすよ……で、着ずにいたら次来たとき、ゴミ袋突っ込むんすよ!? オレが着ないなら廃棄になるだけって……怖すぎて着ざるを得ないでしょ」
 服飾関係の人間からしたら許されざる暴挙だろう。ぜひとも叱ってほしい、そしてやめるよう忠告してほしい。趣味の片手間に億を転がすようなあの男は、タケミチから言っても聞かないのだ。「元部下」って言ったら「元じゃない」って食い気味に否定してくるくせに。
「じゃあオレもオマエん家泊まって作った服置いてったら受け取ってくれるわけ?」
「あの日助けた鶴?」
 ココに怒ってほしかったのに、タケミチに不満を持たれた。東卍メンバーだからか? だから甘いのか? タケミチだって元東卍なのに。差別だ。
「九井はこういうのが趣味なのか、ふうん……」
「服に着られてる自覚はありますけど……」
 ココから貰った服では夜には出歩かないようにしている。襲撃に遭って服を剥ぎ取られるかもしれないとタケミチは本気で思っているので。
「でもちょいオーバーサイズだな。ダーツ入れてやろうか? やっぱ体型に合ってると雰囲気も変わるぞ」
「エ?」
 タケミチの全身を見回しながら三ツ谷が顎に指を当てた。ブランド物に手を加えるとか、そういうのアリなんだろうか。これはこれで完成しているものなのでは? おろおろするタケミチの身体を半回転させて、隅々までチェックしてくる。
「襟ぐりもちょっと広いだろ? タック入れるとして……裾も気持ち長いな、切るか?」
 なんか改造したがってないか? 今にも脱がされそうな気がして一歩後ずさると、二歩距離を詰められた。
「……なんてな、冗談だよ。オレだってデザイナーだ、そんな冒涜は出来ねえよ。嫉妬しただけ」
「嫉妬とは……」
 ふ、と目元を緩めた三ツ谷の指が、袖を摘まんで引っ張る。
「覚えてたら絶対、今オマエが着てるモンもオレが作った服だったから」
 めずらしく、拗ねたような声音にタ7ケミチはぽかんと間抜け面を晒した。三ツ谷はタケミチの肩の輪郭を確かめるように撫でている。手の優しさが中学生の頃と同じで、なんだか胸が温かくなった。
「もし忘れてなかったら、この十年の間にきっともっとオマエの服作ってた。だから今からちょっとでも取り返したい」
 急にそんなことを下唇を噛みながら、本当に口惜しそうに言われたら、涙腺の弱いタケミチじゃなくても泣いてしまう。肩口の布で拭こうとしたが、服の値段を思い出してますます顔をくしゃくしゃにした。三ツ谷が袖で拭ってくれたけれど、彼の着ている物だってタケミチの家賃より圧倒的に高いはずだ。慌ててティッシュを貰って顔面を覆った。
「オレ、スーツとか着てくとこないっすよ……」
「じゃあ私服ならいいわけだ」
 三ツ谷の声が明るくなる。言質を取られた。
「でもお金はちゃんと払います……」
「ア゛ア゛?」
「本職の低音怖過ぎる……」
 受け取ってもらえないかもしれないが、それでも三ツ谷貯金をしておこう。拒否されたらそれでご飯でも食べに行けばいい。そう一人結論付けるタケミチに、さっきとは打って変わって上機嫌になった三ツ谷が、タケミチの肩口にもう光沢からして高そうな布地を当てた。
「いずれタキシードも縫ってやるよ」
 タキシード。その単語に涙もすぐ乾いた。
 三ツ谷宅の開けたリビング、目の前に突然トルソーが見えた気がした。それは白いタキシードを着せつけられている。ふへ、と笑いが漏れた。
 実は縫ってもらったことあるんですよ、と言いかけた。タイムリープによって“その”未来はもうなくなってしまったけれど、タケミチはジャケットやベストの襟、その美しい鋭敏なラインも、ヒナが纏ったドレスの光をまぶしたような清廉な刺繍も、ちゃんと覚えている。もう存在しないけれど、確かにそれはあった。
「いやーでも、ヒナ記憶戻ってないし」
 美しい彼女の姿を思い出して嬉しいような寂しいような気分になり、同時に面映ゆくて照れ照れと頭を掻く。
「別にヒナちゃんとじゃなくても着ることあるだろ」
 さらっとすごいことを言われた。
 自分はそんな浮気性に見えるのだろうか。いやヒナ以外の女の子とか今は考えられないし、そもそもオレモテないし……ともごもごしていると、また別の布を顔の近くに持って来られる。
「でもマイキーには迫られてるんだろ?」
「いやあれはなんつーか、アレでしょ、母親取られたくない子どもみたいな」
 まったく困っちゃいますよね……と続けても無反応なので、横を見ると三ツ谷がすごい顔をしていた。タケミチはこんな顔をする三ツ谷を初めて見たのでちょっと心配になった。「お水飲みます……?」「いや、大丈夫……オマエ……鈍い鈍いとは思ってたけどオマエ……今年最大のホラーだわ……鳥肌立った」寒そうに腕をさすっている。
「長期戦だな……」
 何が? 服作りだろうか。そこまで気合入れてくれなくてもいいんだけどな、とタケミチは口に出したらメジャーで絞められそうなことを考えた。なるべく払いやすいお値段でお願いしたい。
 その後そろそろ飯にしようか、といったタイミングでインターフォンが鳴った。モニターに映っていたのは千冬と八戒で、タケミチは二人も誘ってたんだ〜言ってくれりゃーいいのに〜とにこにこしたが三ツ谷がスンッと冷たい顔をしていたのでびくっとした。後から話を聞くと、アポなし突撃隣の三ツ谷君だったらしい。食べる前に何故か三人でマイキーの指示云々抜け駆け云々言い争っていたが、タケミチは温かいうちにご飯が食べたかったのでよく聞いていなかった。とりあえず三ツ谷の家にアポなしで来るとめっちゃキレられるということは脳内にインプットしておいた。



「タケミっちに服?」
 食事の席でたまたま服を作ってもらうことになった話をすると、アポなし訪問客二人がいやに食いついてきた。タケミチは三ツ谷が皿によそってくれた料理を頬張りながら、二人も作ってほしいんだろうな〜とうんうん頷く。それとは関係がないが、千冬たちがデリを土産に持ってきてくれたのに、三ツ谷はさっきからタケミチの皿が空くとすぐに何故か自分の手料理だけ盛りつけてくれる。偶然かな……。
 千冬と八戒は二人でぼそぼそと何事か話し合っている。ちらっとこちらを見た八戒が、どこかわざとらしく口角を上げた。
「えー、もしかして脱がすために? やらしーなータカちゃん」
 タケミチは咀嚼していたキッシュを吹き出したかけた。八戒てめえ変な冗談やめろ。
 しかしそこは東卍大人びてるランキングで十年連続ドラケンとツートップを張る三ツ谷だ(皆もういい年した大人であることを指摘すると夜の海に連れて行かれる)。顔色一つ変えずワインを飲みながら肩を竦めた。
「バカ言ってんじゃねえよ」
「三ツ谷君……」
「着たままでも出来るだろ」
「三ツ谷君……!?」







・三ツ谷
 デザイナー業が忙しいので東卍にはほぼ籍置いてるだけみたいな感じだが、会議では最終的にドラケンと一緒に皆をまとめている。タケミチの身につける物を巡ってココと醜い争いをしている(ココが渡した(押し付けた)服を三ツ谷が返して来てココが切れた)。















05.
(みっちのお隣さん視点でマイ武中心)


 今日も今日とて隣の部屋のアラーム音がずっと鳴り響いている。壁をぶん殴ってやると、少し間を置いて音が止まった。こいつオレを目覚まし時計にするためにアラーム掛けてんじゃねえのか。クソが。
 隣に住んでいる男は、まあ冴えない男の見本みたいなやつだ。よれよれの服にぼさぼさの頭、おまけに猫背。最初は大学生かと思っていた程度には身形がだらしない。
 表札も出してないから名前も知らない。あっちも知らないはずだ。たまに会えば軽く頭を下げてくるだけで、視線すら合わない。
 他人のことを言えた義理じゃないが、しょうもねえ人生を送ってそうなやつだった。
 そいつがある日、夜中に泣いていた。薄い壁越しに掠れた声が聞こえてきた時は一瞬デリヘルでも呼んだのかと思ったが、それは必死に押し殺した男の泣き声だった。
 社会に出れば泣きたいことなんざ幾らでもあるだろうが、こっちには関係がない。これからの勤務に向けて仮眠を取っていた時だったから余計に苛々して、壁を殴りつけた。声は止まったが、まだ時折啜り泣くような呻き声が聞こえて来てイラついた。
 その三日後、ゴミ捨ての時に見かけた男は目も顔も死んでいた。ゾンビと名乗られても違和感がないレベルだ。ふらふらと歩みもぎこちない。さすがに引いた。
 彼女がいた素振りとかはないから(ダチとかもいなさそうだ、壁越しにうっすら聞こえてくる声は常にやつ一人分だ)、さては仕事をクビにでもなったかと推測していたが、そういう訳でもないらしい。次に見かけた時は多少顔色がマシになっていたが、それでも目はどこかぼんやりしていて気味が悪かった。しかもここ最近、アラームが壁を殴る前に止まっている。
 オレとしては朝が快適になって丁度よかった。なんならずっとこのままでもいい、と思っていた矢先のことだった。
 隣人の家の扉が破壊されていた。
 ドアノブが取れた、とかいうレベルじゃない。ドアが横に真っ二つになり、ガムテで雑に補習され立て掛けられていた。ドアの意味ねえじゃねえかよ。
 それを見たときはあんぐり口が開いたし、あいつ死んだな、とも思った。何があったかは知らないが、借金取りに捕まったとか半グレに目を付けられたとかそんなとこだろう。なんにせよ隣が静かになるならオレは万々歳だ。いちいち他人の心配なんかしてるほど人生に余剰はない。こっちに火の粉が降りかかって来さえしなきゃ、どうなろうが関係ねえ。
 ――と思ったら、次の日扉が直されていた。しかも前のベニヤ重ねましたみたいな薄いのじゃない、明らかに重厚なやつ。
 もう新たな入居者が決まった、なんて訳はねえし。なんなんだ?
 自分ちのドアノブに手を掛けながらじろじろ観察していると、隣人の扉が中から開く。オレはすぐ自分の家に身体を滑り込ませたが、辛うじて出て来た人物が見えた。気だるげな、真っ黒い目の男だった。
 家に入って玄関で背中を扉に貼りつけながら、オレは額からじんわり汗が滲む感覚、というのをまざまざと思い知った。
 なんだあいつ、あいつが新たな隣人?
 上手くは言えない。言えないが、なんかやばい。あれなら前の騒音アラーム野郎の方が何万倍もよかった。
「マイキー君、スペアキーもしかしてマイキー君が持ってる? 返してほしい……」
「オレが取り付けさせたドアだよ?」
「いや壊したのマイキー君じゃん。そしてオレの家じゃん」
 廊下の話し声が聞こえて来てぎょっとした。片方は、間違いなくたまに壁越しに聞こえるあの冴えない隣人の声だった。生きてたのかよ。
 しかもなんか、声に張りがある。最近のゾンビ(仮)状態から驚異の回復を遂げていた。
 つーかあんな明らかヤバそうな男とめちゃくちゃ親しげに話してるのはなんなんだよ。今までダチとか全然いなさそうだったろうがよ。
 一緒に出掛けるのか、徐々に二人分の足音が遠ざかっていく。もう一度恐る恐る扉を薄く開くと、何事か気安そうに話しながら階段を降りていた。一体どういう関係だ。



 その後も、今までのぼっちぶりが嘘のように隣人宅には人が訪ねて来ていた。会話の内容までは分からないが、楽しげな談笑だったり、たまにばたばた暴れるような音だったり。家の前でも住人以外の人影を見掛けることが増えた。そのほとんどが一目でブランド物と分かるようないかついスーツを着こなしている。ある日窓が全スモークの黒いリムジンが停まっていた時はさすがに息が止まった。しかも隣室から出て来ていたのは、高身長で頭に刺青が入った男。こいつがカタギに見えるやつがいたらそいつは地獄の住人だ。視界に入るのも恐ろしく、降りてくる男を認めてすぐに塀に隠れた。
 ある時は銀髪の男と玄関先で話していたし、ある時はかなり親しげに刈り上げの男と一緒に家に入っていった。朝に金髪の男と剃り込みが入った男が出てきた時も、小一時間眼鏡の男と言い争いしていた時もあった。ピンクの頭した男が怒鳴り込んでたのも目撃したが、こっちはマジの借金取りかもしれない。
 しかし一番遭遇頻度が高いのは、あの黒い目の男――っていうか、住んでね? コイツ。
 一気に賑やかになった隣室。たまに声がでかく癪に障るが、迂闊に壁も殴れなくなった。
 なんなんだよ急に。しかも時々すれ違う隣人はかなり顔色が良くなっていて、最近ちょっと猫背も直って来ている。オレなら親を人質に取られても着ないようなクソダセェシャツを着てる頻度も減った。この数か月で冴えない不健康な男は、ちょっと冴えない健康的な男に転身していた。オレの精神の安寧と引き換えに。
 そして何より、アラームをすぐ止めなくなった。誰かが泊まっているらしい時はそいつが止めているようだが、そうでない時は相変わらず鳴りっぱなし。クソ。
 いっそもう引っ越すか。そんな考えすらちらつき始めた頃、家から出た途端、廊下の手すりに寄り掛かっている男と目が合った。夜より黒い瞳。
 ひっと息が喉を走った。目にするまで気配もなかった。男はスマホを耳に当てていて、オレを確かに見たはずなのに、何も認識しなかったみたいに視線を外している。
「――ん、じゃあいつも通り沈めといて。任せた」
 男はすぐに電話を切った。オレは全身ぐっしょり汗をかいていた。口の中の水分全部体表に出た。喉がからっからだ。
「これから出勤?」
 一瞬、自分に話しかけられているのか分からなかった。男はつまらなさそうにスマホをいじっている。
「クラブのセキュリティーかぁ。クソ客摘まみ出すのも大変だね」
「ぇ……」
 なんで、という驚愕と把握されてる、という恐怖。なんで知ってんだよマジで。ここの住人誰一人知らねえはずだぞ、話したことねえし。
「タケミっちがさあ」
 唐突に話が切り替わる。なんのことかと思ったが、人名? あだ名か? もしかして隣人の?
「お隣さん、いっつもオレのこと起こしてくれていい人なんですって言うんだよ」
 スマホをタップしながら男はそうぼやいた。足はがくがく震えているが、それと同時に衝撃も受けていた。あいつそんな感覚だったのかよ。ふざけんな。
「それ聞いたときはめっちゃむかつく消しとこ〜って思ったんだけど、でもそれしたらタケミっち悲しむだろうからさあ」
 さらりととんでもねえことを告げられてさっき食ったパンを吐くかと思ったが、もう内臓すらぴくりとも動かない気がする。
「あんまりころころ隣変わられてもいちいち調査もめんどいし……だから、これからもよろしくね」
 男が顔を上げて、にっこり笑った。目は相変わらず真っ黒だった。
 ぱたん、と男は隣室に入ってしまう。オレはガクつく足を引き摺るように仕事場へ向かった。着いた途端吐いた。引っ越すに引っ越せなくなった。



「助けてお隣さーん!!」
 後日、夜中に隣から元気な叫びが響いた。うるせえ。オレを巻き込むんじゃねえ。元気になってよかったなクソ。その意を込めて三回壁を殴ってやった。







・お隣さん
 そこそこ稼ぎはあるが狭い家の方が性に合うのでタケミチの入居よりずっと前から住んでいる。いつも起こしてくれて有難いなあとタケミチが密やかに懐いてるが本人は知らない。職場のオーナーの上の上の上の上の上役がマイキーであることも知らない。





「#オメガバース」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -