星を飲む
※暴力、嘔吐の表現。
※年齢制限ほどじゃないけど匂わせどころじゃないアレな表現。
※過呼吸の人間にしちゃだめなことしてます真似しないでください。
※救いも続きもないメリバ。
「あと三日……」
男はたまに呟く。口にする期間は、呟くごとに短くなっている。一年、半年、三か月、一週間。その度にタケミチは、背筋を這い上る怖気に息を詰める。
いくらでも替えが効く、どころか上位互換だってありふれているアルバイト。ほんの一年前まで、タケミチはどこにでもいるフリーターだった。
特段、何かをしたことはない。善行を積んだ記憶もなく、世間の目を恐れるほどの悪行をなす度胸もそのつもりもなかった。
だから、不運だったのだ。ずっとそう言い聞かせている。たまたま、隕石が当たるほどの確率で、偶然選ばれたのが自分だった。そう思わないととても正気を保てなかった。
ある日男に腕を掴まれた。バイトからの帰りか、行く途中だったのか、それすらももう曖昧だ。思い出したくもない。
「タケミっち」
突然、肩が外れそうなくらいの強さでタケミチの腕を引き、男はそう言った。
それは偶然にも自分の渾名のようだった。“ようだった”――だって、そんな風に呼ばれたことは覚えている限り一度もない。
男はじっとタケミチを見ていた。瞬き一つしなくて、タケミチは薄気味悪さにその手をふり払おうとした。
「なんで?」
男の握力が増して呻く。なぜタケミチが自分から逃れようとするのか、まるで見当もつかないという様子だった。
「……す、すいません、オレの知り合いでしょーか……」
こんな男知らない。
会っていたら、きっと覚えている。こんな――怖いやつ。
長い黒髪の男だった。でも、陰鬱さや根暗な印象は受けない――というか、そういうレベルじゃない。思い出したのは、前に偶然ネットで見たシミュレーション動画だった。星を砕いて塵にして、吸い込んでいくブラックホール。宇宙で無数の光を飲み込んでいく闇は、きっとこんな風に素知らぬ顔で周囲を抉りながら空を泳いでいる。そんな底知れなさだった。
星のない夜なんて、この都会では毎夜の光景だ。けれどこの男は、星の代わりに空を脅かすぎらつくネオンすら塗り潰すような、黒々とした印象を一瞬でタケミチに与えた。一人の人間――それも初対面の――相手に、ここまで恐懼に駆られたことはない。鬼気迫る表情を差し引いても、とにかく、雰囲気のある男だった。
なんでもいいから早く距離を取りたい。その一心で「人違いじゃないですか」と続けた。するとあんなにもタケミチを締めつけていた拘束が緩んだ。今だとばかりに腕を引き抜き、形だけの会釈をして早足で立ち去った。振り返らなかった。
その翌日、バイトの帰り道に背後から抱きしめられた。気がついたら知らない部屋のベッドの上にいて、タケミチはありふれたフリーターから、地獄で這いつくばる奴隷になった。
天井はずっと平行に、どこまでも続いている気がした。どこまでもどこまでも、世界から自分を遮るようにどこまでも。
視線を動かす。永遠に続いていそうな天井には勿論終わりがあって、カーテンの隙間から光はない。まだ夜らしい。失神してからどれくらい経ったのかも分からなかった。
ここに来てしばらくのうちは、カーテンを開けて空を眺めていた。今はもうしていない。開けても空しか見えないからだ。最初は焦がれていた外も、ずっと手が届かないと自分を追い詰めるだけの忌々しいものになった。だから外はもう見たくないし、ここが何階なのかも訊いたことがない。
逆隣に目を動かすと、男――マイキーがささやかな寝息を立てている。細い腕がタケミチの胸の前を通り、緩く肩を掴んでいて煩わしい。
それでもこの腕を払う気力も、意思ももうない。
ここに連れて来られた日、マイキーは「家に帰してくれ」という当たり前の主張をするタケミチを殴った。細身なのに拳は信じられないくらい重くて、硬いフローリングで馬乗りになられて殴られるたび、顔も床にぶつかる後頭部も割れそうだった。自分がどうなっているのかも、天地すらも分からなくなるほどの、津波にも似た暴虐に晒され続けた。激しい痛みと刺すような熱さと、それらの苦しみを凌駕する恐怖を、マイキーは一緒くたにタケミチに刻み込んだ。
彼は殴っている間、ずっと単純作業をこなしているような無表情だった。一方で拳は幾度も角度が変わり、徹底的にタケミチを痛めつけることに腐心しているようだった。
そして抵抗する術を失ってしばらくした頃、「痛めつける」の方向性が変わった。
顔の形が変わるまで殴られ続けた方がずっとマシだった。マイキーはぐったり横たわるタケミチの服を剥ぎ取って、そのまま強姦した。
もう指一本動かせないと思ったのに、服に手を掛けられると腕も足も切れていた神経が繋がったみたいに暴れ出した。男としての矜持とか、そんな綺麗な建前めいたものじゃない。単なる暴力とは違う、人間としての自分を否定され蹂躙されることへの恐れが身体を突き動かしたからだ。
マイキーは抵抗するたびタケミチを殴って、服を引き裂いて、誰にも触れられたことのない場所を暴いて踏み躙った。
無理やり捻じ込まれてタケミチががむしゃらに暴れる間も、腹を殴り、髪を掴んで床に叩きつけ、脳震盪を起こした身体を揺さぶった。胃の中のものを吐き出しても意識が飛んでもお構いなしに、幾度もタケミチの中で達した。
いつの間にか奈落みたいに真っ黒い瞳から、涙が落ちていた。全てを吸い込むような双眸が雫を落としているのが騙し絵みたいで、彼が泣いているという事実の理解に時間を要した。ちゃんと認識できた途端どうしてオマエが泣くんだ、と怒りが煮立ったが、その時にはもう細胞の一片まで打ち据えられて、とても感情を顔にも行動にも出せなかった。
「な、オレのこと殴れよ」
タケミチの足を担ぎ、血の滴る下半身に腰を打ちつけながら泣いているマイキーが言った。
「セックスはスポーツとか言うけどさ、暴力のが近いだろ。エロとグロってセットなとこあるし。なあ、オマエもオレにぶつけてよ。“今”のオマエを教えてよ」
枯れたと思っていた涙が溢れた。怒りで全身が発火するみたいだ。何発殴ったって足りるわけがないのに、痛みと恐怖でもう爪の先すら動かせない。
この男が怖い。
マイキーははらはら綺麗に涙を落としながら、またタケミチの中で果てた。急に抱き締められる。冷たかった床にはとっくに体温が移っていたし、傷は燃えているように痛むのに、寒くて仕方なかった。喉は叫びすぎて裂けていたかもしれない。
そのまま彼はタケミチの血塗れの唇にキスをした。やわやわと唇を啄むキスだけ、血の味がするのに馬鹿みたいに優しかった。
肩と首の間、そこが自分の居場所であるというようにぴたりと顎を乗せられる。熱い体温だった。
「あと一年」
男はタケミチの耳元でそう呟いた。
隣で繰り返される微かな呼吸に、あの日耳に触れた吐息を思い出す。
今日、「あと三日」と言われた。
初めてここに連れて来られたあの日から、時々囁かれるカウントダウン。最初は意味のない独り言だと思っていた。けれど一番有りうる可能性に一度思い当たってしまうと、もうそこから抜け出せなかった。身体から骨が引き抜かれるような嫌悪を伴う不安が、嵐のように心身を嬲る。急に肺が肋骨の中で不自然にうごめく気がした。
「……っ、……」
がたがた身体が震えだして、ひゅーっ、ひゅーっと喉が不出来な笛みたいに鳴る。もがくように喉を押さえた。
「タケミっち、大丈夫?」
まるで最初から起きていたみたいに――本当に起きていたのかもしれない――マイキーがタケミチの肩を掴む。口調はやさしいが、丸まった身体を無理やりベッドに仰向けに押し付けられて、ますます呼吸が苦しくなる。普段の呼吸ペースが分からなくなって、ぼろぼろ涙が落ちた。
はくはくと動く唇を舐められる。気がつくと舌が捻じ込まれていた。
「う、ぅ……!」
パニックになって身体が暴れたが、難なく縫い止められて歯をなぞられる。噛まれないようにするためか指も一緒に入れられた。舌をすり合わせられると唾液が喉奥まで落ちてきて、余計むせそうになる。タケミチの唸り声が唇の隙間から断続的に漏れた。やがてそれもちゅくちゅくと水音に紛れて行く。はっ、はっ、とキスの合間に酸素を求めるようになってから、マイキーはようやく唇を離した。
「落ち着いた? よかった」
硬い指に濡れた唇を拭われる。
ぎしぎしと軋む関節を動かし、タケミチは腕で顔を隠すように覆った。「ごめんなさい、ごめんなさい」と必死に繰り返す。
髪を梳く手が、いつ拳に変わるか分からない。随分抵抗してしまった。
暴れたり逃げ出そうとしたり。抵抗すると、マイキーはタケミチを痛めつけた。単に殴られるわけじゃない。直接的な暴力は初日以来ほとんどなかった。でもそれ以外の方法で、タケミチの尊厳を粉々にしようとする。そこに暴力が加わるときは最悪だ。以前逃げ出そうとした時怪我をして、彼を本気で激昂させたことがある。その時は口にマイキーのモノを捻じ込まれ、片手を繋がれながら奉仕を強要された。「噛んだら折る」と一本一本指を絡めて。噛むのは恐ろしくてしなかった。なのに息が苦しくて一度吐き出しただけで、呆気なく爪楊枝を折るみたいに小指をへし折られた。そのままマイキーが達するまで、手を放されることはなかった。タケミチを効果的に苦しめる方法なんて、男はいつ訊かれても両手の指より多く挙げられるのだろう。
大人しくしていれば、マイキーはただタケミチを甘やかす。ひどいことはしない、どころか丁寧にこちらの快楽を引き摺り出してくる。その飴と鞭と言うには過激すぎる差が洗脳のためのそれと分かっていても、立ち向かえるほどタケミチは強くない。
「うん? 大丈夫、怒ってないよ。息できなくてびっくりしたんだよな」
何度も労わるように頭を撫でられる。このところそうだ。マイキーはひたすらにタケミチを可愛がった。
――それは、あのカウントが着実に減って来ているからなのだろうか。
あと三日。あと、三日。
「お、おれ」
ぼたぼた涙が落ち続ける。マイキーはタケミチを抱き寄せたまま、「うん」と宥めるように頷いて続きを促した。
ひくひくと嗚咽を飲み込んで、口を開く。
「おれ、ころ、こ、……ころされ、っる、ん、ですか……、っぅ」
口にするだけで身体が奈落へ落ちて行くような不安に支配されて、背を丸めて呻いた。涙が止まらない。しゃくり上げながら、これから自分を襲い来るかもしれない暴力に怯えた。マイキーの琴線が、一年近く経つ今でも分からない。大人しくしていれば優しいけれど、タケミチが何気なく発した言葉が原因で、気を失うまで犯されたことも一度や二度じゃない。
胎児のように身を丸めていると、少しの沈黙の後、頭上で喉の奥が震えるみたいな息が聞こえた。
マイキーは唐突に、大声で笑い出した。ぎゅうぎゅうと、子どもがぬいぐるみを抱くみたいに力任せに抱き締められて骨が軋む。哄笑の振動がタケミチの身体に伝わって、自分が震えているのかどうかも分からなくなるくらい彼は笑い続けた。
「バカだなぁ、タケミっち」
ひぃひぃと苦しそうに、起き上がったマイキーが目じりを指先で拭った。
「ほんと馬鹿。かわいい。頭から食っちまいそう」
頬を紅潮させて、マイキーはうっとりとタケミチにキスをした。唇を合わせるだけの口づけが、獣が食事前にする儀式めいている気がして嗚咽が漏れる。
ぼすん、とまた上体をベッドに沈めたマイキーが、シーツの上からタケミチの腕をぽんぽんと叩く。母親が子どもにするみたいに。
「な、昔話。聞いて」
それが強制であることは知っている。返事を聞かずにマイキーは話し始めた。
笑顔が優しかった。
「オレには昔、大好きなやつがいてさ」
そいつはとにかく弱っちくてダサくてバカだったけど、オレもオレのダチも皆、そいつのことが大好きだった。そいつに何度も助けられた。オレたち皆のヒーローだった。
でもそいつ、消えちまったんだ。
死んでないよ。消えたんだ、文字通り。
ある日突然、そいつの姿が見えなくなった。そいつの家に行ったら全然違う家が建ってて、違う家族が住んでた。それももう五年もここに住んでます、とか言うんだぜ。
……頭おかしいと思った?
オレたちも混乱した。でも夢でも幻覚でもない。そんなわけない。あいつは確かに、あそこにいた。オレたちの中心に。ボロボロになって、ツラぐしゃぐしゃにして泣いて、オレたちを救うために戦ったんだ。
なのにあいつの存在は抹消された。オレたち方々探し回ったけど、結局そいつは見つからなかった。息も出来なかったよ。この世界のどこにも、オレたちのヒーローがいない。
ずっと、ずーっと探し続けた。子どもから大人になっても探して、探して――、
「ようやく見つけたそいつは、オレらのこと全然覚えてなかった」
話している間、とろとろと眠らせようとする速度でタケミチを撫でていた手が頬に触れる。接触した皮膚から、ちりりとした痛みが根を張るように広がっていった。
勿論タケミチに眠気なんて欠片も訪れなくて、目は彼に釘づけだった。
――知らない。
こんなやつ知らない。
マイキーがタケミチに覆いかぶさった。長い髪がタケミチの頬や首筋を掠めて流れる。世界から隠される。
「な、もしかしたらさ、そいつ、もうすぐ帰って来るかもしれないんだ」
ひゅ、と息を飲むと、喉をあやすようにくすぐられた。爪が喉笛を裂くように浅く引っ掻く。
「もうすぐ丁度十年経つ。そしたら帰って来るかもしれない。帰って来ないかもしれない。もう“あいつ”の全て、跡形もなく消されたのかも。分かんねーけど、でも、いいんだ、もう。 “オマエ”が腕の中にいるならいい。どんなオマエでもオレのヒーロー、オレの一部だ」
マイキーが顔を近づけて、タケミチの首筋を吸う。薄くなっていた痕に上書きをして、満足そうに舌先で押した。
「あと三日。それが過ぎたらもう一度、ちゃんとやり直そう。はじめましてから全部。第二の人生だ。今度こそ、もう二度と離れない」
鋭い痛みと吐息の熱さに酩酊する頭でも、分かることがある。
首から顎の線、頬と辿って、マイキーが唇を離す。タケミチを安心させるように微笑んでいた。
「もしタケミっちが死んだら、オレも追っかけてやるよ。そしたらビビりのオマエも怖くないだろ?」
タケミチは咄嗟に、小さくだが首を横に振った。
「あ? 喜べよ」
皮膚をなぞっていた指がタケミチの喉を捉える。親指が喉仏を確かめるように圧した。
「オマエがいなきゃオレはダメなんだから、オマエもそうあるべきだろ」
手はそのまま輪郭に添い、頬をなぞり、眼窩の縁を確かめる。そのまま片手で、中身ごと頭蓋を握り潰されてもおかしくなかった。でももう分かっていた。マイキーはタケミチを殺さない。殺してはくれない。
このひとは自分を憎んでいるから。
「オレが好きって言え」
マイキーはよく、その言葉を強要する。そんなものなくたって力で捻じ伏せられるのに、甘い囁きをねだる。恋人みたいに。
「すき、です」
からからの口にへばりつく言葉を必死に押し出す。褒めるようにゆっくり唇を食まれた。タケミチは凍りついたまま目を閉じなかったから、マイキーも濡れた瞳を見つめながら唇を啄んでいる。
「地獄でも一緒だよ。嬉しいだろ」
口づけの隙間に囁かれた。熱っぽく浮かされた声音に、タケミチは酸欠の頭でぼんやり思った。
ここって、まだ地獄じゃなかったんだ。
マイキーの手がしっとりと汗をすり合わせるように肌を這う。タケミチの口から熱い息が漏れると、マイキーが胸元の皮膚を吸いながら喉の奥で笑った。腕がシーツと背中の隙間に潜り込む。下半身が押し付けられる。
「地獄でもセックスしようぜ。斬られても焼かれても腰振っててやるよ」
タケミチは天井を見つめていた。ぼやけていてもそうでなくてもさして変わり映えのしない景色だ。
首筋に触れる長い髪すら快楽の端に引っ掛かる気がして、小さく吐息をこぼした。
「くすぐったい? そろそろ切ろうかな。やり直し記念にさ」
本気なのかそうでないのか、わざと髪で肌を愛撫するように緩く頭を振る。
与えられる悦楽に慣れた身体がひくんと跳ねた。地獄に行ってもこの男から逃れることはできないらしい。
だだっ広い部屋。知らない部屋。
目を覚ましたときにあたりを見下ろして、しばらく呆然とした。記憶にない場所だ。まさか自分の家か。
――かつて、東卍の幹部になっていた時のような未来だったら。
寒気がしたが、自分の家にしてはあまりに殺風景で、生活感というものに欠けている。
馬鹿みたいにでかいベッドで、上体を起こしながらタケミチはきょろきょろ辺りを見回した。
広い部屋なのに、ベッド以外の物がない。照明が絞られているのか薄暗い。滝のように高い壁一面を覆う大きなカーテンの隙間から、うっすらと光が差し込んでいた。
「っ……」
痛い。起き上がるときに捻った腰と、ベッドについた腕。股関節も何かおかしい。しかも、自分、全裸じゃないか? 裸のまま、シーツだけが掛けられている。
痛む腕に目を落とすと、びくっと身が竦んだ。
赤い痕があった。分かりづらいが、手の形をしている、気がする。
なんだか暑い。額を拭えば、ぬるつく嫌な汗が吹き出していた。
「……ぅ、」
どろ、と足の間から何かが流れ出て、太腿に伝っていく感覚。鳥肌が立って身動ぎすれば、ますます溢れ出す。
焦ってシーツをめくる。
――ひ、と喉を空気が通る音がした。
足の間から垂れている、白く濁ったもの。知っている独特の匂い。
それと同時に視界に入った自分の裸身。全身、至るところにびっしりと刻まれた赤い痕と、執拗なくらい散りばめられた歯形。腰を掴まれていたと分かる手の形の痣。自分の身体が不気味なアートになったみたいに、一瞬現実味がなかった。咄嗟に腹の噛み痕に触れた。肌に触る感覚、触られた感触、そして痛み。ここにあるのは間違いなく自分の肉体で、なのに、動くとこぷ、と身体から溢れたものがシーツを濡らす。
がたがた全身が震えた。内臓を誰かの手で混ぜっ返されたように、末端まで張り巡らされた神経がめちゃくちゃになる。平衡感覚を失ってベッドに肘をついた。勢いよく胃の中のものが逆流する。
「ぅ、お゛……え゛……っ、っぁ……」
喉奥からせり上がったものをそのままベッドに吐き出した。ほとんど胃液だった。喉が胃酸で焼けてずきずきと痛む。鼻の奥に饐えた嫌な匂いが籠り、つんとした。生理的な涙が目に滲む。
なんで? 何が? どうして、嫌だ、怖い、なんで、誰か、
まとまらない頭の中で、浮かんだのは相棒の顔、頼りになる仲間の背中、最愛の人――最強の男の姿。
その時、ガチャ、と扉が開いた。
反射的にそちらを振り向く。顔から出せるものを全部出した情けない面を拭う気力さえ殺がれていた。恐怖で肺がうまく空気を拾えない。
そこに立っている人物は、知っている人だった。一目で分かった。
「ま……」
マイキー君?
――そう名を呼んだ瞬間の彼を、なんと表現すればいいのだろう。
殺される。そう感じ取ったのは生き物としての本能だった。彼からぶわりと吹き上がった感情の奔流は、いっそ殺意にも似ていた。激しい怒りだと思った。けれどそれは勘違いだったのかもしれない。目を爛々と輝かせる彼の唇が笑っていた。黒い瞳はタケミチを一心に見つめていた。
「タケミっち」
そこにあったのは、確かに歓喜だった。
「あ、あぅ、おれ、うぅ」
よく知っている声にそう呼ばれた途端涙腺が完全に壊れて、吐き出した胃液の上にぼたぼた落ちた。
助けて、マイキー君。オレ、たぶん、レイプ、されてる。
言いたいことは胃酸で荒れた喉奥で絡まって出てこない。横隔膜が馬鹿になって、息もまともにできない。
この現代で何が起こっているのか、自分がどういう位置にいるのか、これまでより掴める情報が格段に少なくて、何より身体も頭も痛くて、もう動けそうになかった。
マイキーが近づいてくる。この身体を彼に見られるのが嫌で、なんとか手探りでシーツだけ引き寄せた。動くたびにぬめる足の間が気持ち悪い。もう何も出ないのに吐きそうで小さくえずいた。
「おかえり、タケミっち……おかえり」
マイキーに抱き寄せられた。タケミチは温かな腕の中で、ひゅうひゅうと息をする。この、最早いるだけでタケミチを責め苛むような冷ややかで惨たらしい空間で、彼のぬくもりだけが異質だった。
「ま、まい、」
「うん、びっくりしたよね。ちゃんと説明してやるよ」
なんで彼の肌はこんなに温かいんだろう。自分の強張った皮膚を溶かすような熱っぽさだ。自分が冷え切っているせいだと思ったが、もしかしたらマイキーの体温が高いのかもしれない。
タケミチが知っているマイキーは、いつも指がひんやりしている。よくタケミチから暖を取ろうと服に手を突っ込んできていた。
目の前にいるのは確かにマイキーなのに、このマイキーをタケミチは知らない。
――そもそもなんで、ここにいるの、マイキー君。
助けに来てくれたの?
そう訊こうとした口は動かなくなった。
「オレたち、恋人同士になったんだよ」
熱い指先がぐしゃぐしゃの髪を梳いた。
こいびと。
呆然と見返すと、マイキーは心底嬉しそうにタケミチの頬に触れた。
恋人? マイキー君が、オレの?
「タケミっち、オレのこと好きって、言ってくれたんだ」
ふんわりと笑う彼は、なんて綺麗なんだろう。
ぐちゃぐちゃの自分とこんなに綺麗なマイキーが向き合っているのはあまりにちぐはぐで、滑稽とすら思えた。
「な、なんで」
「そりゃ、オレが好きだから、告白してくれたんでしょ」
違う――違う。
なんでこんな状況で、こんなにも幸せそうに笑えるんだ。
タケミチの口からはあはあと荒い息が漏れ続ける。だって、自分は明らかに誰かに暴行されてるのに。なんで助けてくれないんだと、その理不尽な怒りに視界が明滅して歯を食いしばった。彼の言葉の真偽も、今この場に限ってはもうどうでもいい。早くここから逃げ出したかった。とにかくどこか別の場所へ、あの慣れ親しんだ汚いアパートの一室に行きたかった。あそこでだらだら過ごしていた自分に戻りたい。惨めで、情けなくて、怖くて涙が止まらない。
「これ、どして、……お、おれの、なか」
中に出されてる。その一言を言うのが怖くて、口の中のわずかばかりの水分に縋り、何度も唾液を飲み込もうと喉を動かした。
「ん? うん、いっぱい出したから、後で掻き出さなきゃな」
マイキーの手が自然にシーツを引き摺り下ろして、タケミチの腹を撫でた。
「…………、え……?」
手つきは、慈しむ、という形容がぴったりだった。目の前の彼は神様みたいに綺麗で優しくて、慈悲深い手でタケミチに触れた。
心配そうに美しい線を描く眉が下がる。
「寒い?」
じわじわ、冷たい水の温度が肌に慣れて行くみたいに、静かに頭から無駄な血の気が引いて行く。
「こいびと、って……」
舌が絡まった。腹に手を添えられながら、目で続きを促される。乾いた舌がねばつく口蓋に引っ付いて、話しづらい。
恋人。じゃあこれは彼が。自分と彼は――彼女は。
「……ヒナ、は」
筋肉が、反射でぴくりと動くことがある。それに似ていた。タケミチの腹にある噛み痕の上、そこに乗っていたマイキーの手がそんな風に反応した。
その瞬間、全身の血液を抜かれたように身体に力が入らなくなった。力なくかしぐ上半身をマイキーの腕が抱き留める。
血がなくなったと思うくらい寒いのに、耳元で鼓動がバクバクと鳴っている。誰の? マイキーの? 瞳孔が散大しては戻る。指の一本たりとも自分の意思で動かせない。勝手に震えるだけ。
「大丈夫、全部、ちゃんと説明してあげるよ」
丁寧な手つきでシーツに横たえられた。衣擦れの音が鼓膜をざわつかせる。
覆いかぶさるマイキーの、切り揃えられた黒髪がさらりと流れた、その軌跡を無意識に目が追う。視線に気づいたマイキーは、指で自身の髪先を摘まんで見せた。
「髪切ったんだけど、どう? タケミっちが擽ったがるからさあ」
ちょっと面映ゆそうに笑うマイキーは、恋人の反応が待ち遠しい、と仕種や視線で訴えている。
この部屋で、彼だけが温かいと思ったけれど、綺麗だと感じた。
でも違った。ここでタケミチだけが外見も中身もぐちゃぐちゃだ。
「ここ、どこ……」
「オレたちの家だよ」
「みんなは……」
「東卍のやつら? 元気だよ」
「オレ、オレは……」
どうなったの? ――どうなるの?
首筋に唇が触れた。熱い粘膜が、子猫を可愛がるみたいな甘さで肌を食む。純粋な黒の瞳がタケミチを見ていた。昔ネットだかテレビだかで見た、ブラックホールのアニメーションを思い出した。近くの天体を粉砕して飲み込んでいく黒。砕かれる星は最期にこんな景色を見るのか。
マイキーが顔を上げた。頬には赤みが差して、目は潤んで、まさしく恋する男の顔そのものだった。
「時間ならたっぷりある。ゆっくり、また初めからやり直そう? きっと身体は覚えてるよ。オマエは、オレがいなきゃダメなんだって」
自分はどんな顔をしているのだろう。マイキーの黒い瞳は全てを飲み込んでしまうから、タケミチには分からなかった。