語り部とヒーロー




 情けない後ろ姿を見せて去っていく男たち。振り返ると、胸ぐらを掴まれたせいで襟がよれた男が呆然と突っ立っている。
「ねえ、名前は?」
 男は目を瞠って、しかしさっと視線を逸らした。
「オレはマイキーって呼んで。名前は?」
 明らかに答えたくなさそうだけれど、マイキーには関係ない。王に譲るという概念はないので。
 じっと見つめ続けると、渋々、という様子で男は名乗った。
 タチバナナオト、というらしい。







 無敵のマイキーこと佐野万次郎。反社会組織東京卍會の首領にして、悪のカリスマ、裏社会の顔。
 中学生の頃発足させたチームは、「不良の時代をつくる」という信念の元すくすくと拡大し、今や日本中のあらゆる悪を統率する巨大勢力になった。
「遊園地行きたい」
「あ?」
 東卍は今日も今日とて法に抵触しながら社会貢献していた。カタギに手を出す外道どもをふん縛って吊るしたり、海水に浸けたり、燻したり。この前捕まえた詐欺グループの胴元は顔から出せるもん全部出して「もう殺じでぐだざい」と命乞いしていたけれど、命までは奪わないのが東卍のルールだ。その時もうわっ汚っとちょっと引いただけで殺さなかった。
 社会奉仕明けの朝、ドラケンが運転する車の助手席でマイキーが言った。ドラケンはフリスクをごりごり噛み砕きながら、横目にマイキーを確認した。
「遊園地行く。ここで下ろして」
「……九井に言やあ貸し切ってくれるだろ」
「ダメ、今日じゃないと。ヒーローショー最終日なんだって」
「反社が遊園地行くんか」
 え、ダメ? 足踏み入れた途端SAT出動かもな。でも反社だって遊園地行きたくなる時はあるだろ。メリーゴーランド乗りたくなったりか? オマエがメリーゴーランドとか絵面犯罪だな、実刑じゃん。あ? やっか?
 東卍の幹部たちは子どもの頃からやんちゃしてそのまま年齢だけ重ねてきたので、普通のおしゃべりも水が下流へ流れるがごとく自然に喧嘩になる。カタギの方々が自制心とか倫理観を学びながら成長する間も、他人様の車を粗大ゴミにしたりして遊んでいたからだ。
 普段はちょっとやそっとでは手が出ないドラケンも、今日は昔馴染みのうざ絡みをいなせないくらい苛々していた。三日間寝てないからだ。灰谷兄弟がテロ組織を潰すために大きめのビルをうっかり爆破した、その後始末に追われていたのである。真っ先に事態の隠蔽に駆り出された稀咲はイスを壁に叩きつけて破壊した。今月に入って四脚目。半間が動画撮ってた。
 こういうとき割りを食うのは比較的(反社当社比)真面目な人間なので、ドラケンは基本並行して仕事を抱えている。主に後始末と後始末と後始末だ。爆破の秘匿と同時に、バジと一虎がヤクの売人をダンプで追っかけていて崖下に落ちて山火事を起こしたので、それを揉み消すのにも奔走していた。
「え、死んだん? もしかして昨日スマブラしてたの亡霊?」
「いや徒歩で帰って来たけど、ハ? あいつらゲームしてたんかコロス」
 因みに運転していたのは一虎だが、大型の免許は持っていない。ついでに他の免許も持っていない。気紛れで一回だけ教習所に行ったとき、教官の爪と前歯を持って帰ってきて以来千冬に出禁を言い渡されている。
「で、なんだヒーローショーって?」
「今日、ホテルであのオッサンに議員辞職してって“お願い”してた時、テレビついてたじゃん」
「おー」
「なんちゃらってヒーローの特撮してたんだよね」
「見てたんか。オレに仕事させてる横で。名前一文字すら記憶に残らねえ特撮を」
「これだって思って」
 何が? ドラケンは首を捻った。
「で、今日そこの遊園地でショーあるんだって」
「そうか……」
 こいつとの付き合いもだいぶ長いが、いつまで経っても分かんねえな。ストレートなようで裏でいろいろ考えてるタイプなのは分かるけど、いや、今回の場合何も考えてねえのか。
 フリスクをざらざら口に流し入れて、ドラケンはマイキーを遊園地の近場で下ろした。「夕飯までに帰って来いよ」「うん分かった、ハンバーグがいい」「三ツ谷に言え」もう訳を聞くことも付き添うこともしなかった。眠かったのだ。





 マイキーはがっかりしていた。買ったチュロスが美味しくなかったからだ。
 ヒーローショーまで時間があるので、小腹を満たそうと買ったチュロス。マイキーはテーマパークとかなんかそういうキラキラしたものと基本縁が薄いので、アウトドアあるある「こういうところで買う飲食料値段の割に味がイマイチ」を忘れていた。大型遊園地ならまだマシだったのかもしれないが、ここは郊外寄りのちょっと廃れた小さな娯楽施設だ。クオリティーを求める方が酷だったのかもしれない。
 マイキーのテンションは露骨に下がった。大人だからその場で暴れだしたりはしなかったけど、かなり苛々した。並ぶ売店の裏へゴミを捨てに回ったところで(ゴミはちゃんと捨てる、反社でも)、見本として陳列されてそうなチンピラが一般人らしき青年に絡んでいるのを見て、もっと苛々した。
 青年の背後には泣いている小さな男の子がいた。手にはジュースか何かの紙コップ。ヤカラの履いているださいデニムが濡れている。あーなるほどそういうことね。
 無敵のマイキーは雑魚を捻るのに五秒も必要としない。そして話は冒頭へと戻る。





「知ってる? このなんとかって特撮」
「いや……」
 青年――タチバナナオトは、居心地悪そうに身じろぎした。ステージの前、並ぶベンチ。その一番後ろでどっかりと足を開いて座るマイキーと、膝を揃えて距離を開けようとするナオト。
 てっきり彼が庇っていた小さな少年は弟とか下手したら息子かと思っていたのだが、曰く全く見も知らぬお子さんだそうだ。チンピラの服を汚して泣いているところを見かけ助けに飛び出したらしい。さして強くもなさそうなのに、正義感はあるんだなあと思ったら思い出した、そうだ、ショーを見に来たんだった。
 しかもナオトは、部下に押し付けられたチケットが勿体ないからというだけの理由で一人で遊園地に来たらしい。一人? えーオレも一人、じゃあ一緒にショー見ねえ? 今日で最後なんだって〜。
 ナンパでもまだ相手の話に耳傾ける、というレベルでまくし立ててステージへ引きずってきた。ナオトは街灯を掴んで抵抗してきたが、肩が外れることと見知らぬ男とヒーローショーを見ることを自動的に天秤に掛けられ、後者を取ったらしい。
 遊園地の規模のせいか、前の方のベンチはぎゅうぎゅうに詰まっているが後ろはそうでもない。まばらに埋まり、立ち見の客もちらほら、その程度。
 ナオトはずっと落ち着かなさそうで、何かと理由をつけて立ち去ろうとしているのが見てとれた。マイキーはそれを横目に眺めつつ、「ほら、始まるよ」と前を指さす。
 最初に司会進行らしき女性が登場し、場を盛り上げる。みんなで呼ぶとヒーローが出てくるらしい。じゃあ練習しましょう! まずは男の子ー! 女の子ー! お父さんお母さーん! お姉さーん! お兄さーん! みんな一緒にー!
 二人とも無言だった。マイキーはしたくないことはしないし、ナオトは無理やり連れてこられただけだからだ。
 ステージ袖から出て来た怪人が、解説のお姉さんを人質にとって高らかに笑っている。
「頭でかいなー取れそう」
 東卍空気読めないランキングにてイヌピーとパーちんと並ぶ同率一位の男が、声も潜めず感想を口にした。前のベンチで子どもと共に応援していた父親がちょっとふり返って尖った視線を向けてくる。マイキーはおっと、と思った。空気は読めないけど、子どもの夢を壊すのはよくない。うんうんと頷く。
 ナオトは硬い顔で、ただショーが終わるのを待っているようだった。
「オレ、まあ、フツーに暮らしてんだけど」
「……はあ、フツーに……」
 唐突に自分語りを始めるマイキーに、ナオトはなんとも言えない渋い顔で相槌を打った。
 子どもたちは興奮してきゃあきゃあ声を上げる。
「でもさ、なんか、たまにふっと、あるんだよね、なんか突然砂漠とか北極とかで、一人みたいなさ、そーゆー瞬間が」
「…………」
「で、たまたまテレビでこの、特撮の見てさあ。『これだ!』って」
 意味分からん。マイキーの話を聞いてそんな顔をするやつは漏れなく三途が暗くて怖いところにご招待するが、現在彼は泣く泣く王の元を離れて出張中だった。
「これ……?」
「うん、これ。ヒーロー」
 辛いことがあったとき、颯爽とやって来て、助けてくれる。どんなやつにでも平等に寄り添う完全無欠の存在。ステージで子どもたちを脅す怪人を見ながら、マイキーはだらりと力を抜いた。せっかく来たのにもう飽きてきた。今朝はこれだ、って思ったのに。
「ヒーロー……」
 ぽつり、ナオトが呟く。
「好き?」
 こんなもん面白いのかよ、という意味だったが、ナオトは首を振った。
「好きと、いうか、知ってます」
 少したどたどしい口調だった。懐かしい記憶を呼び起こすような。
「へー、どんな? 呼ばれてから来る?」
 興味は薄いが一応聞いてみる。「いや、だいたい突然に」と続けられる。
「それで、とても強い。一見、そうは見えないんですけどね」
 マイキーは横目にナオトを見た。今日はじめて、彼の唇が綻んでいた。
「強くて、本当、馬鹿みたいに優しいひとです」
「ふーん、なんか、ありきたりなやつだな」
 一見強く見えないけれど強くて優しい。世の中のヒーロー、かなりの割合でそのタイプだ。これから登場するだろうヒーローも、テレビで見たときヒョロガリで弱そうだったけど(本職の感想)、画面の中ではすごく強かった。そして正義の味方は往々にして優しい。
 ナオトは、ふ、と呆れたように苦笑した。
「ヒーローってたぶん、そんなもんですよ」
 さあ、みんなで一緒に呼んでみよう! 人質に取られたまま視界のお姉さんが明るく叫んだ。
「めっちゃ好きじゃん」
「大事なひとです」
「死んだの?」
 またも空気の読めない、というよりデリカシーがカス過ぎる発言だった。ナオトの目がマイキーを向いた。
 ぎゅう、と男の右手が胸の前で握り込まれる。何もないはずの手の中、彼にだけ見えるものがあるようだ。
 甲高くてちょっと不揃いな、ヒーローを呼ぶ声で空間が満ちた。
「いいえ、すぐそばに」
 弾けるみたいな爆音のBGMと一緒に、ヒーローが飛び出す。
 みんながヒーローを見ている中で、マイキーはせっかくの登場シーンを見ていなかった。ナオトの右手を見ていた。
 こんな風に想ってもらえるなんて、そいつは幸せなやつだな。
 ――どんなやつなんだろう。





「オマエなんか肌ツヤいいな」
 型紙を引きながらそう言った三ツ谷に、マイキーはきょとんとスマホをいじる手を止める。
「なんか最近、カタギと遊んでんだろ。好きなコでもできたかと思ったわ、楽しそうだから」
「んー、楽しい? 楽しいかわかんねーけど。この前映画観たよ。特撮の、なんとかレンジャー」
「ハ?」
「寝たけど」
 ショーの後、ナオトはめちゃくちゃ嫌がったが、ほぼスマホをくすねる形で連絡先を交換した。それ以来何かと約束を取りつけて、映画に連れて行ったりフィギュア専門店に行ったり。断らせることはしないが、相手も律儀に一方的に告げた待ち合わせ場所にくるのだからなかなかにお人好しだ。そうでなかったらチンピラに一人で立ち向かったりしないか。
「相手の趣味?」
「いやあっちも興味ないし詳しくない」
「何だそのセルフ拷問空間……」
 とうとう刺激溢れる仕事に慣れ過ぎて変な性癖でも目覚めたか。三ツ谷は引いたが、マイキーはぼやっとした顔で型紙の端を手慰みに摘まんだり引っ張ったりして遊んでいる。やめろ。
「カタギ巻き込むなよって話なら気を付けてるよ」
「や、オマエのことだからそこはそんなに心配してねーけどさ」
 職業が職業だから、エマの元へもそれほど頻繁に帰っていないはずだ。それが最近カタギと遊ぶために仕事をさっさと終わらせたりドラケンの言うことを素直に聞いたりなんだかお行儀がいいので、下の構成員たちの方が不気味がっている。
「……どんなヒーローなんだろ。あんま答えてくんねーし」
 ぽつん、とマイキーが呟いたそれに首を捻って続きを促したが、マイキーは言う気はないようだった。キャスター付きのイスの上で、くるくる回っている。
 三ツ谷の方が気になって訊こうとしたところで、八戒が部屋に入ってきた。
「ちーす、……タカちゃんまた会議室で縫ってるの……?」
「まだ縫ってない」
 表ではデザイナーをしている三ツ谷は、幹部会議中も普通に刺繍したりしている。マイキーもたい焼きを食べるしバジも千冬もペットカメラ見てるし、学級会よりも行儀は悪いがなんとかなっている。だいたいの案は稀咲が出してくれるからだ。ブレーンは最近体重が四キロ落ちたらしい。



 ナオトとは会ってもせいぜい二週間に一回くらいだ。マイキーが勝手に約束を取りつけて、ナオトは無視もできないのかちゃんと待ち合わせ場所に来る。これで最後にしてほしい、と脅迫被害者みたいな台詞を毎度吐くのが気に食わない。でもやっぱり呼べば来る。律儀に。
 マイキーは彼のヒーローがどんな人間なのか気になったけれど、聞いてもナオトはやんわりとはぐらかす。東卍の力をもってすれば彼の交友関係も出生日時も初恋のあのひとの名前も全て丸裸だが、珍しいことにまだ身元調査をしていなかった。普段なら出先で会った人間の調査は自分が頼まなくても周りが勝手にしてくれるわけだが、今回はマイキー自身がそれを止めた。誰かに介在してほしくなかったので。
 今日も彼に一方的に待ち合わせの場所と時間を伝えていたが、マイキーの方に問題が起こった。イザナに絡まれたのだ。
 前に映画に行く際仕事が入ったので、イザナに丸投げしたことがあった。その苦言を呈しにきたのだ、わざわざ。タイミング悪いなお兄ちゃんは。
 のらりくらりとかわそうとしたが、イザナの方もキレていた。大物議員との取引だったが、息を吸って吐くより早く若い男にセクハラをかます人種だったらしい。
 ヘドロ塗れの生ゴミの方がマシな人間の相手をさせられたイザナは、それはもう怒髪天を衝き抜け大気圏突入という具合だった。後から鶴蝶に聞いたところ、イザナが相手のタイプど真ん中だったこともよろしくなかったみたいだ。これにはマイキーもなけなしの罪悪感がちょっと芽生えたりしたが、でもこの時は約束が優先だった。
 で、喧嘩した。
 たまーに、ストッパーが双方不在の際に勃発する二人の兄弟喧嘩は加減も遠慮も常識もないので、容赦なく骨とか折りに行く。やった後はいつも互いの右腕に引くほど怒られるが、頭に血が昇るとそういうのが全部脳から吹っ飛ぶのは兄弟の共通点だった。
 大喧嘩して見つかってお説教食らって、終わったときには約束の時間から二時間が過ぎていた。



「……あ」
 いるじゃん。
 スマホを確認してもナオトから連絡はなくて、怒って帰ったかなあ、と思いながら一応待ち合わせ場所まで来てみた。するといたのだ、まだ。
 彼は突っ立っているマイキーを見つけ、ぎょっとした顔をした。そりゃそうだ。まだ顔に鼻血の跡が残ってる。鼻の骨こそ折れていなかったがしばらく止まらなかったのだ。マイキーはイザナの指を折ったので、お相子と言うよりマイキーの方が悪かったけど。
 ナオトが何かを差し出してきた。どこかで配っていそうなポケットティッシュだった。
「はじめて見たときも思ったけどさあ、オマエ自身もヒーローぽいよな」
 遅刻を謝ることもなくそう言ったマイキーに、ナオトはなんとも言えない顔をした。ちょっと泣きそうにも見えた。







 家でも突撃してみるか。
 マイキーはそう考えた。いろんなところに連れ回されたが、ヒーローショーの時以来ナオトのヒーローの話は話題に上がらない。わざと避けられている。こうなれば何としてでも聞き出してやりたい。なんでこんなに気になるのか、自分でも分からない。もうほぼ意地だった。
 家なら口も緩むかも。でも家まで連れてってくれそうじゃない。何か口実がいる。偶然バジたちが経営するペットショップの近くに来たとき、そういえば、とマイキーは思い出した。あいつらゲームしてたな。ナオトをゲームに誘うのはどうだろう。なんか弱そうだけど。でもこれなら家に行く理由になる。マイキーの自宅に連れて行くという選択肢は最初からない。
 善は急げとペケJランドへ足を踏み入れる。本部で聞いてもいいけれど、バジはこの前「アメショーの調子があんまよくねぇ」と幹部会議を欠席していたのでこっちにいる可能性の方が高かった。
「マイキー君?」
 カウンターにいた千冬が目を瞠る。千冬と何か話していたスーツ姿の男がぱっと振り返った。
「バジいる?」
「あー、今飯食いに行ってますけど、たぶんそろそろ戻りますよ」
「んじゃ待ってる……そういやあれ大丈夫だったの? マスタングみたいな……」
「アメ車じゃなくてアメショーすね。元気ですよ」
 それはよかった。マイキーは特別動物が好きなわけではないけれど、武蔵神社で昼寝していた学生時代は気がつくと周りを猫に固められたりしていた。猫は元気な方がいい。
 視線を感じてそちらを見ると、スーツの男がぴくりと肩を揺らした。緊張した面持ちをしている。見たことのない顔だった。
 若い。ほとんど年は変わらないだろう。細身で皺一つないスーツをきっちり着込んでいる。きりりとした眉に潔癖な印象を受けた。
 サツかな。なんとなくそんな感じがする。「警察官すよ。情報貰ってたんす」やっぱりそうだ。自分を前にこういう顔をする男はだいたい国の犬だ。
 千冬が男に名乗れ、の意で顎をしゃくる。男は少し顔を顰めたが、東卍の首領相手に下手を打つわけにはいかないと思ったのか、引き結んでいた唇を開いた。



「橘直人です」






























 散らかった部屋で、マイキーはたい焼きを食べながら寝転がり、そのへんに置いてあった漫画を読んでいた。あと数ページ、というところで外から足音が聞えて来て、むくりと身体を起こす。
 ガチャン、と鍵が回る音。次いでノブがガチャガチャ鳴る。開かない。少し置いて、また鍵の音。
 あーあ、危ないなあ。どうせ今日閉め忘れたっけ〜とか思ってるんだろうな。
 帰ってきた家主に、マイキーはひらっと手を振った。
「よ、ナオト。邪魔してる。これ、お土産のたい焼き」
 紙袋をぶらぶら揺らしてやる。男は玄関に立ったまま愕然とこちらを見ていた。マイキーはよいしょ、と立ち上がった。
「にしてもめっちゃ部屋散らかってんね? あ、この漫画続きどこ? ナオト」
 にこにこ笑うマイキーに、男は一歩後ずさる。自分の家に帰ったら、家の場所すら教えていない知り合いが寛いでいる。どんな気持ちだろうな。
 マイキーが踏み出すと同時に、男は外からバンッとドアを閉めた。なので大股で玄関へ向かう。
「――ヒッ……!」
 蹴りで簡単に折れるドアとかドアじゃなくない? 扉を名乗っちゃいけなくない? もはや存在していないと言っても過言じゃなくなくない?
 一発でうっすいドアを蹴破ると、男は廊下の手すりに貼りつくように目を見開いて固まっていた。
 折れたドアの上を裸足で歩く。男が階段の方へ爪先を向けた。
「おい」
 がん。マイキーの手に掴まれた錆びた手すりが、鈍器で殴られたように反響する音を立てた。
 一瞬で肉薄して、自分の身体の横を通り過ぎて殴るように手すりをんだ腕を、男が目だけで見下ろしている。
 今にも死にそうに顔色が悪かった。
「な、ちゃんと自己紹介しよっか。してなかったもんな?」
 ぐっと鼻先が触れ合うくらい近づく。
「オレ、佐野万次郎。オマエの名前は?」
 額に滲む汗まで見える。鼻先が触れ合いそうだった。
「……た、たち、」
「あ゛?」
 凄めば、男は上質紙と同じくらい肌を白くさせた。
「もう一回だけチャンスやる、オマエの名前は?」
 男の頬がひくりと引き攣った。



「は、花垣、武道です……」




















 タケミチが飛び降りたマイキーの手を掴んで、タイムリープした先は中学二年の七月四日。あの、初めてタイムリープをした日だった。
 訳が分からなくて、マイキーが未来でああなっていたことが悲しくて、その場に蹲って泣いた。アッくんたちに心配された。
 でも、膝をついている暇はなかった。千載一遇の機会、そしておそらくトリガーであるマイキーが死んでしまったことを考えれば、これがラストチャンスだった。

 ――結果として、タケミチはかつてのタイムリープで手から零れ落ちたものを掴み取った。果てしない旅路だった気がしたけれど、これから自分が現代で過ごす時間の方が長いのだと気づくと、なんだか呆気なくて笑えた。
 そうして、じゃあ未来で会おう、と元の時代に戻って。それからが問題だった。

 誰もオレのこと、覚えてない。







 過去から現代に帰ったら、皆に忘れられていた。
 これまでのタイムリープでは過去で過ごした時間が未来でも経っていたけれど、今回はきっかりタイムリープをした当日その時間に戻っていた。すぐさま確認したスマホに誰の連絡先も入っていなかったときは、心臓が止まるかと思った。
 いっそそのまま止まってりゃよかったのに。
 タイムリープによって関わるようになった、もしくは交流が再開した皆。誰も彼も、タケミチのことを覚えていなかった。
 ボロアパートの一室で布団にくるまって、タケミチは考えた。
 いやでも結果的に、ミッションコンプリートじゃん? 皆生きてるし。しかも幸せにさ。本来ならオレは関わりなんて欠片もなかったんだから、それを考えたら皆幸せに笑って生きてるとか奇跡じゃない? 最高じゃない? 最高の未来掴めちゃったよオレ。
 東卍がまた犯罪組織になってたときは絶句したけど、カタギを守る裏社会の番人みたいな感じらしいし。番人。何それカッケー。
 千冬は場地君と一虎君とペットショップしてるし、ドラケン君はバイクいじってるし、アッくんは美容師だし、直人は警察官だし、それに、ヒナが生きてる。
 文句のつけようもない未来じゃん。
 そう頭では思えても感情はついてこなくて、一人号泣した。隣人に壁を殴られた。
 親友も相棒も、支えてくれた仲間たちも、自分たちの大事な総長も。
 最愛の恋人も。
 皆もういない。でも、それでもいい。笑って生きていてくれるなら。どうか皆、幸せに。







 ――なーんて思ってたらマイキーに発見された。
 むしろオレが関わるとよろしくないのかもしれない、稀咲のこともなんやかんや元凶オレみたいなとこあったし、これからは遠くから皆の幸せを見守ろう!
 ようやくそう思えるようになったときだったのに、遊園地で遭遇した。心の中で「彼女にふられたんでこれもらってくれませんか、見てるだけで辛いんで……」とやつれた顔でチケットを渡してきた職場の従業員・田村を恨んだ。何ふられてんだよ。
 すぐにでもこの場を離れたかったけど、なぜか名前を聞かれた。しかもとっても身に覚えのある、逃がさない、という圧。
 ――言い訳を聞いてほしい。パニックになってたし、また関わるようになったらまずい、って、とっさの判断だったんだ。
「タチバナナオト、です」
 口をついて出たのはかつて親友であり自身の導き手であり、義弟になるはずだった男の名前。名乗りながら本人のエリートぶりを思い出し、名前負けも甚だしいなと思った。





 どうしてかヒーローショーを一緒に観ることになった。両肩亜脱臼しかけてまで抵抗したが、人間界を裏から操る魔王を前にして、タケミチはスライムの餌より無力だった。
「オレ、まあ、フツーに暮らしてんだけど」
「……はあ、フツーに……」
 なんとか離脱できないか、タイミングを窺いながらマイキーの話を聞く。フツー? 反社の親玉の生活ってフツー?
「でもさ、なんか、たまにふっと、あるんだよね、なんか突然砂漠とか北極とかで、一人みたいなさ、そーゆー瞬間が。で、たまたまテレビでこの、特撮の見てさあ。『これだ!』って」
 意味分からん。途中彼が一瞬遠い目をしたのでどきりとしたが、話の方向性が想定より三百五十度くらい急カーブした。
 マイキーは、ヒーローに何やら心惹かれてるらしい。今は世間のヒールなのに。
「ヒーロー……」
「好き?」
 好きかって、いやまあ好きだけど。
「好きと、いうか、知ってます」
 思い出す、あの喧嘩賭博。突然世界が変動した日。
「へー、どんな? 呼ばれてから来る?」
「いや、だいたい突然に」
 そう、君は突然現れた。
「それで、とても強い。一見、そうは見えないんですけどね。強くて、本当、馬鹿みたいに優しいひとです」
「ふーん、なんか、ありきたりなやつだな」
 興味なさそうにそんなことを言うので、ちょっと笑いかけた。確かにね。天性のカリスマに恵まれてても、社会に後ろ指さされる活動をしてても、仲間や家族を思いやり、一人苦しんだり弱さを必死に隠したり、寂しさを抱えてたりする、ありふれた普通の男だよ、君は。
「ヒーローってたぶん、そんなもんですよ」
 オマエがありふれた一人の人間であることが嬉しいよ。
 マイキーは目を見開いて、ヒーローそっちのけでタケミチを見ていた。
「めっちゃ好きじゃん」
「大事なひとです」
「死んだの?」
 なんてこと言うかな。無意識に右手を握りしめた。骨張って冷えた手を掴んだ、あの廃ボウリング場。触れることのなかった熱い涙。目の前のマイキーを見つめる。
「いいえ、すぐそばに」
 覚えてるよ。
 君が忘れても、誰が忘れても。覚えてる。オレを、皆を守ってくれたヒーローを。
 オレはずっと忘れないよ。
 正直に言う。顔が見れて、泣きたいくらい嬉しかった。クマもないし、元気そうに、ヒーローショーなんか見ようとしちゃってさ。
 ここに君がいる。それだけでオレの勝ちだ。





 遊園地での邂逅から、マイキーに一方的呼び出しを食らうようになった。連れて行かれたところは特に興味がなかったけれど、彼に振り回されるのは中学のあの青い日々をタケミチに思い出させた。だから、関わっちゃいけないと思うのに。どうしたって足が向いてしまった。彼がものすごい遅刻をかましたときも、本当は心配で連絡したかったけど耐えた。もしかしたら自分に飽きたのかもしれないと、寂しいような嬉しいような思いを抱えながら、嘘だ、全然嬉しくなんかなかった。寂しくて怖かった。待ち合わせ場所で立っている間、ずっと泣きそうだった。
 いつかは嘘だってばれる、なんならもうばれてるかもしれない。マイキーに「ナオト」と呼ばれるたび違和感と罪悪感で胸が殴られるようだった。でも、彼が自分に笑いかけるともう何もかもが吹っ飛んでしまう。
 そんな風に後回しにしてきた罰が、今下っている。

「一瞬同姓同名かと思ったんだよね。でもこの短期間で遭遇するほど、ありふれた名前でもないしさ」
 風がマイキーの髪を嬲っている。腰に手すりの冷たい感触を覚えながら、タケミチはマイキーを見つめていた。彼越しのうちの居間。散らかったそこに、マイキーが持ってきたたい焼きの紙袋が転がっていた。
 裏社会の王様は、それはもう非常に、ブチ切れあそばされていた。
「簡単に調べて来たけど。オマエ特別サツとも関わった形跡ないじゃん。そもそも関係者ならわざわざサツの名前偽名に使わないだろーしさ」
 マイキーは笑って饒舌に話す。タケミチは左右どちらにも逃れられず、黙って聞いていることしかできなかった。
「なんでオレに近づいた?」
「ち、ちが……」
 自分の嘘から大きな誤解が生まれている。必死に首を振った。
 東卍のトップに近づきたかったとか、そういうのじゃないんです。しがないレンタルビデオショップの店長で、正真正銘一般人なんです。ただ、タイムリープを経験してるだけの。
 正直に話したって、分かってもらえるわけない。
 涙目ではあはあと息をすることしかできないタケミチに、マイキーは急に笑みを消した。
「なんで嘘ついたんだよ」
 風でお隣さんが放置しているビニール傘がパタパタと音を立てた。責めたてるように聞こえた。
「……あ、」
 風に攫われてのたうつ髪の隙間、マイキーの目はまっすぐタケミチを見ている。自分がとんでもないことをしでかしたと、今更気づいた。
「ごめ……」
「謝るってことは悪気あった?」
 ごめん、ごめんねマイキー君。騙すつもりも、傷つけるつもりなかったんだ。ただ、君が元気に生きてる、その姿を見たかっただけなんだ。
 声は言葉にならない。言葉にしても届かない。
 もう届かないよ。
 身体から力が抜けたと思ったら、視界が回った。あ、まずい。足を踏ん張れない。腰の手すりを支点に、ぐるりと一回転してしまう。
 ――落ちる。
 最後に見えた彼に、胸の中でひたすら謝った。ごめんね、マイキー君。ごめん。ごめん。
 やっぱり関わるべきじゃなかったや、オレ。
「――っぁ、」
 二階廊下から落ちかけたタケミチの右手を、マイキーが掴んだ。
 肩にひどい痛みが走る。見上げる、青空をバックに、自分を見下ろす大人の佐野万次郎。
 彼の目が見開かれていた。
 黒い瞳がゆらっと揺れたと思ったら、雫が真っ直ぐ落ちてきた。



「――タケミっち」



 落ちた涙がタケミチの頬に弾けた。
 タケミチはマイキーを見上げていた。空いている片手でどこかしらを掴むべきなのに動けなかった。全てをマイキーに縫い止められていた。
 マイキーの顔が、くしゃりと歪んだ。
「――ッ、タケミっち!!」
「へっ、ど、わぁあああああーーー!!」
 タケミチの胸にマイキーが飛び込んできた。大の男二人、そのまま下のゴミ捨て場に抱き合って落下する。あ、もしかして、今日生ゴミの日じゃん。










「マイキー君、あの、嘘ついててすいませんした」
「うん、ひでぇよ」
「ハイ、反省してますマジで……関わらないって決めたらちゃんと関わらないべきでした」
「は? まだオレのこと怒らせるわけ?」
「いででででっ、すんませ、すいません、だからあの、いい加減離れて……」
 あれだ、お祭りの夜店の。あの腕に引っ付く人形。マイキーはあれと化していた。しかも迂闊な発言をすると骨を砕かんばかりに締めてくる呪いの人形だ。
 落ちた先が生ゴミの山だったのは、ある意味幸運だったのかもしれない。打ち身で済んだ。しかし自分を抱き締めてずっと名前を呼び続ける男を家に引き摺って戻るのは大変だった。生ゴミ塗れの男が生ゴミ塗れの男にしがみついている図なんて、近所の小学生に見られたら一生物のトラウマを植えつけてしまうので、ひとがいなくてよかったと思う。
 風呂も先に入ってとタケミチは勧めたが、頑として離れなかったのでくそ狭い風呂に男二人で入ることになった。タケミチが仕方なくマイキーの髪をシャンプーしている間も、マイキーはぺたぺたタケミチに触り続けていた。
 バスタオルを巻いてゆったりめのテルテル坊主になったマイキーとも攻防した。今からコンビニで下着買ってくるんで。ダメ、オレも行く。全裸で!? タケミっちのパンツ貸して。ええ……。
 ようやく清潔になり服を着替え(マイキーのほうが身長はやや低いのに、貸したジャージの裾が自分より上でちょっとつらかった)、折れたドアを気休めで立て掛けて、落ち着いたところで呪いの人形は本格的に離れなくなった。
「マイキー君、髪濡れてるから、めっちゃシャツに染みてくる」
「それが何」
「濡れて気持ち悪い……」
「気持ち悪いって言うな」
 どうしよ、これ。ドラケン君とかが回収に来てくれたらなあ。昔を思い出していると、ぐん、と押された。
 さっきみたいに視界が縦に回る。
 ぽたっと髪から雫が落ちてきた。
「なんで嘘ついた?」
 押し倒され、低い恫喝と共に首に手を掛けられた。
 見覚えのある景色だ。マイキーは知らない。フィリピンの廃墟で、全てを捨てた彼に銃を突き付けられたあの日。君を救うと最初に誓ったあの瞬間。
「ごめん」
「言えよ」
「ごめんね」
 日焼けした畳に寝転がって、見上げるマイキーの顔。鼻に赤みが差している。落ちてきた涙が目に入りそうになって、反射的に目を閉じた。
「オレから離れようとしたのかよ」
 離れたオレを、皆の元に戻したのはオマエのくせに。
 首に掛かった手が震えた。怒りに戦慄きながら、あのマイキーがふうふうと肩で息をしている。
「マイキー君」
「知りたくなかった」
 心底憎いというように、食いしばられた白い歯が唇の隙間から覗く。
「知りたくなかった。オレ、フツーに幸せだったじゃん。ケンチンがいて、エマがいて、バジがいて、イザナとも喧嘩したりして、オレ、オマエがいなくてもフツーに幸せになれたじゃん。知りたくなかった。オマエがいなきゃダメなオレがよかった」
 なんつーこと言うんだよ。吐息の欠片も受け止めながらタケミチは胸を詰まらせた。なんてひどいこと言うんだろう。それでもってなんて、熱烈な告白だろう。
 ぼろぼろと涙を落としながら、マイキーはタケミチの鎖骨の中心へ額を押しつけた。
「でも、やっぱりさ、探してたんだよ、足りないんだよ。皆がいればオレは幸せになれるけど、オマエがいてくれるなら、どんなに不幸でも構わない」
「そんなこと言うなよ、バカヤロー」
 オマエを幸せにするために、オレがどれだけ血を吐くような思いしたと思ってんだよ。実際何回か吐いたよ。でも諦めなかったよ。
 この未来が欲しかったんだ。もうそれだけで満足なんだ。
 満足だったんだ。
「オレがいるって言えよ」
 血を吐くようにマイキーが言った。
 どくりと鼓動が跳ねる。目の縁から溢れた涙がこめかみに伝っていった。
「オレがいなきゃダメって言え」
 胸を濡らしていた体温が離れた。濡れた黒い瞳。激情に光る。
「…………、この前観た、映画……」
 ぽつり、唇から落ちる。
 一緒に観た特撮の映画。ヒーローが敵と戦って、絶体絶命になるけれど、皆の力を合わせて勝利して。ヒーローは誰も取りこぼさなくて、最後は皆でわいわいといつもの日常を過ごして、エンディング。
「ああいうヒーローに、なりたかったんだ……」
 皆と笑い合うヒーローに。
 皆が幸せで嬉しかった。オレの手を取ってくれるひとがいなくても。きっと生きていけたよ、君たちさえ笑っていてくれれば。
 なのにマイキーの手が、タケミチの手を握る。指の一本一本を絡めて、隙間を無くすように繋ぐ。
 マイキーが笑った。中学生の頃、ボロボロの自分を見つけたあの日みたいに嬉しそうに、楽しそうに。
「タケミっち」
 名前を呼ぶ。
「タケミっち、もう離れるなよ。ヒーローだろ。呼ばれたら、飛んで駆けつけて傍にいなきゃダメだろーが」
 互いの残った片腕が背中に回った。



「おかえり、タケミっち」
「ただいま、万次郎」










不完全な語り部と完全無欠のヒーロー










 向かい合って寝転がったまま、マイキーはぼんやりタケミチの顔を眺めた。さっきから大きな両目は、ずっと涙をぽろぽろ溢れさせていた。
 すんすんと鼻を鳴らして唇を噛むので、下唇が赤くなっている。ぷちゅ、とキスをする。
「…………えっ!?」
 涙を引っ込めてタケミチがのけ反った。
「え、な、なんで」
「そこに口があったから」
 アルピニストかよ。
 ぱくぱくとタケミチの口が酸素を求めるように動く。泣き止んだ。
「タケミっち、離れちゃダメ、こっち」
「いや、それならこんなのしな、いだだだだ」
 足でがっつり腰を捕まえられたタケミチが、なんとか逃れようともがいている。なんかぎりぎりの隙間通ろうとする猫みたい。マイキーはそれを見ながらけたけた笑った。タケミチは呪いの人形を見る目をした。
 逃がしてやるもんか、ばーか。また唇を寄せると、真っ赤になって抵抗してきた。まったく、往生際の悪いヒーローだ。











「なんで相談しなかったんですか」
「いやオマエ記憶なかったんだし、妄言吐き散らす異常者だと思われて逮捕されたら嫌じゃん……」
 はい、と出された麦茶に口もつけず、ナオトは深く溜め息をついた。
 彼の部屋が記憶と変わってなくてほっとした。ほっとしていたので、「それにしても相変わらず汚い部屋ですね」とオブラートぶん投げて普通に口に出した。
 ぐしゃぐしゃのまま放置されている洗濯物に顔を顰めるナオトに、タケミチは肩をすくめて茶請けに出したスナック菓子をぱりぱり食べる。
「……腹立たしい」
 ぼそっと吐き捨てたナオトに、びくっと食べる手を止めた。負け犬根性が根幹にあるので、怒っているひとがいると自分にかな? と思うのだ。ナオトはどこぞのヤクザ者のように宙に睨みを利かせ、小さく舌打ちまでしている。
「な、ナオトさん?」
「なぜ記憶がなくなったのか」
「そりゃ、分かんねーけど、なんかタイムリープの、ヘイガイ? とかじゃない?」
「それをなぜ君だけが被るんですか」
 この部屋暑いですね、と立ち上がって窓を開け放つナオトの背を、タケミチは菓子の油に汚れた手を宙に浮かせながら見上げた。
「ボクだってトリガーだったのに。君と一心同体だった」
 ぬるい風を額に浴びて、気休めでも頭を冷やす。振り向いたナオトはぎょっとした。タケミチが顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。
「なんで泣くんですか」
「いや、なんか、……ナオトだーって……」
「君は本当に語彙が少ないな……」
 ティッシュを渡しながら、ナオトは微笑んだ。タケミチ自身も、記憶と何も変わらない。このひとの存在が一時でも自分の中から無くなっていたことが正直まだ怖かったし、不思議だった。こんな人間、そうそういないのに。忘れられるわけがないのに。
 ほら早く泣き止んで、とケースからティッシュを引き抜く。
「オマエ何タケミっち泣かしてんだよ」
 地を這うような低音。背後に、あの東卍首領・佐野万次郎が真っ黒な目で立っていた。
「は……」
「タケミっち大丈夫? ぶさいくになってる」
 しかもタンクトップにハーフパンツで、頭にタオル。いかにも風上がりという格好だった。入ってたのか、今まで。
「なっ、……なんで佐野万次郎が」
「あ、記憶戻ったの、マイキー君が最初」
「君は本当に大事なことを先に言わない」
 頭痛に眉間を押さえると、マイキーがタケミチの背後を陣取って背にへばりついた。見てるだけで暑い。
「それこそ警察相談案件じゃないですか。怒りますよ?」
「まだ怒ってなかったのか……。っつってもマイキー君だしさ……」
「タケミっち髪乾かして」
 どいつもこいつもらちが開かない。ナオトは苛々して麦茶を一気に飲み干し、タンッとテーブルに置いた。雰囲気は居酒屋の小さなテレビで見る野球に野次を飛ばすリーマンだ。
「何より腹立たしいのは、君がボクらの記憶戻すのを早々に諦めてへらへらこのゴミ溜めに引き籠ってたことですよ」
「ゴミ溜め」
「それは分かる」
「ゴミ溜め……」
 反社会組織のトップは勝手にタケミチの麦茶を飲んで、近くにあった扇風機を自分の方に引き寄せていた。暑いなら離れろ。
 明らかにこの部屋に慣れている挙動に、ナオトは皺の取れない眉間を揉んだ。昨日今日思い出した感じじゃない。
「だからボクの記憶が戻ったときわりと落ち着いてたわけか……まあ君の話を聞くに、彼もトリガーだからですかね」
「いや、稀咲も思い出してたから違うと思う」
「は?」
 貼りついたまま明後日の方向をぼーっと見ていたマイキーがぐりんとタケミチに向きなおった。タケミチはびくついた。瞳孔開かないで……。
「いつ? どこで?」
「いや、あいつ、この前うちの店来て。そしたら、オレの顔見た途端吐いて気絶したんすよ、やばくないすか? 掃除オレがしたんすよ? 事務所に寝かせてたんですけど、起きたら殴りかかって来たし」
 興奮しているのをなんとか宥めて話を聞くと、めっちゃ思い出してた。頭がいいせいかすぐに整理がついたみたいで、混乱はしていなかったけど代わりにブチ切れていた。
「は? オレだって手握らないと思い出せなかったのに何あっさり思い出してんの? むかつく後でシメよ」
 キレどころが分からないな……。タケミチはちょっと引いた。
「あいつオレと一緒で戦闘力ミナミコアリクイ並なんすよ、やめてやってください」
「タケミっちと一緒……? 許せねえ潰す」
「ば、バグってる……」
 ナオトは爪の先でテーブルをコンコンと叩いた。
「というか稀咲が来たの、あなたがタケミチ君に付きまとっているせいでは?」
「は? 付きまとってねーし彼氏だし」
「初耳すぎる」
 最初に見つけたからオレのだし、最初に思い出したからオレの。マイキーの中では筋が通っている。
「まあ、取り敢えず他の人も思い出す可能性があるってことです。よかったじゃないですか」
 タケミチはきょとんとしていたが、また目にじんわり膜を張って、「う゛ん゛っ」と大きく頷いた。マイキーがティッシュをぐいぐい頬に押しつける。
 ナオトは毒気を抜かれて微笑んだ。
「まああのクソメガネストーカーのことは変わらずボクは嫌いですが」
 だよね。まあオレも稀咲にはいろいろ思うとこあるけど、一晩中殴り合ったりもしたからさ。タケミチは曖昧に笑った。
 仲良くはできないだろうけど、喧嘩はね、反社と警察同士は余計にね……とタケミチが心の中でだけ宥めていると、ナオトの目が背後霊のマイキーに向く。
「言っておきますがあなたのことも好きになれないので。タケミチ君から離れてください」
 タケミチはひえっと息を飲んだ。仮にも裏社会の親玉に……やっぱりオマエぶっ飛んでるよ。
 ナオトの挑発的な視線に、マイキーはより腕に力を込めてきた。死ぬ。
「なんでオマエに指図されなきゃいけねえんだよ。オレのタケミっちなんだから関係ねーだろ」
「いやタケミチ君は姉さんのですけど」
「あ゛?」
「は?」
「お、オレのために争わないで……!」
 この台詞を言う日が来るなんて。








・タケミチ
 レンタルビデオショップ店長。いろんなひと助けて現代に帰ってきたらみんなに忘れられてた。握手とか背中預けるとか、たぶん他の人それぞれに記憶が戻るトリガーがある。そのうち店に反社の人たちが入り浸るようになってドキドキしている。

・マイキー
 ヒーローの活躍により現代でも健康優良児(27)。記憶戻る前はナオト(タケミチ)が話すヒーローに無意識に嫉妬してた。自分じゃん。そのうちほぼ同棲まで持ち込む。平気で手出そうとするけど、それよりお揃いのマグカップとかで照れるタイプ。

・ナオト
 握手したら記憶が戻った。命の恩人を忘れてたことに結構ショックを受けていたが、タケミチがぽやんとしているのでだんだん腹が立ってきた。どうやったらヒナタの記憶が戻るか試行錯誤している。

・きさき
 中学時代へ二度目のタイムリープしたタケミチとめっちゃ殴り合いした。なんやかんや東卍で頭が悪いひとたちに囲まれて楽しく割りを食っている。憎きヒーローの記憶が戻って発狂しそう。






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