暮れゆく街 2


 怯えきった表情をしたのだろう私を見て、男は満足げに鼻を鳴らした。下卑た笑いなんかじゃない、もっとおそろしくて吐き気のする顔だ。声を出そうとしてもとっくに首を絞められていた。お腹の上をなにかが這っている。シャツのボタンが千切れて石の上に落ちた。
「や……め、てッ!」
 絞り出した声とともに、自由な両手で男を殴りつける。するとおなかの上から手が退く。けれどほっとする間もなく、私には次の手が見えていた。

――赤く光るナイフが振り下ろされる。血走ったオレンジのなにかがあちこちに飛び散る。黄色。白。暗い赤。濡れて光るわたしの腹。

 眼の奥でぎらつくその色に、金槌で頭を殴られたみたいにぐらりと意識が遠のいていく。
 こいつは"どっちでもいい"のだ。私が息をしていても動かなくても、目的が果たせればいい。容赦なんかない。痛みだけが感覚を上擦ってはしっていく。
「や……嫌、嫌だッ!!」
 ばかみたいに両腕を振るって、起き上がって逃げようと懸命にもがく。しかし軽々と押さえつけられて、頭と背中を路地の突き当たりの壁に強かに打ちつけた。かなり叫んだのに、あたりはしんとしている。誰も気付かないのか、よくあることと無視をしているのか、どちらにしても私を絶望させるには十分だった。
――誰も助けにこない。来たとしても、そのとき私はすでに死んでいる。
 人間なんて簡単に死ぬ。よく知っていることだった。あのナイフが奪えれば、私にだってできるのだとわかっていた。けれど、どうやって奪ったらいいのか、それだけがわからなかった。

 顎の下から臍のあたりまで、一直線になにかが走っていく。熱いのか冷たいのかわからなかった。唯一の武器だった腕も突き刺されたらしい。男を殴りたいのに、じんと震えがきて、磔にされたように動かなかった。
 男が荒い息まじりに何か言っている。ナイフが眉間につきつけられている。良く研がれたきれいなナイフだった。痛みを感じなかったのはそのせいなのだろう。

 もう何も見たくない。
 私は静かに目を閉じて、息を止めた。できれば耳も塞ぎたかった。男が何か喋っているのが呪詛のように聞こえた。――できたら一思いに殺して。通じないから心のなかでだけそう言って、あとはよく言う「あの世」とかについて考えていた。私は天国へ行くのか地獄へ行くのかとか、はたまたお国らしく成仏して仏になるのか、来世は何になるだろうとか、普段では考えられないくらいたくさんのことを、一瞬のうちに頭いっぱいに広げた。そうでもしないと散々喚いた挙句あちこち足りない姿になって帰ることになりそうだったからだ。最後の最後で親不孝なんてしたくなかった。

 ふいに音が止んだ。何もかもが止まってしまったように、冷たい沈黙が訪れる。ああわからなかった、私もしかしてもう死んだのだろうか。案外あっけないものだ。痛くも痒くもないなんて。
 けれどじくじくと痛む頭の後ろと、首と、腕や胸やお腹の感覚が次第に伝ってきて、そうではないと気づいた。――違う。静かになったのは私じゃあない。
「――、―――?」
 声が聞こえる。男の人の声だったが、さっきの男ではないとすぐにわかった。威勢のいいイタリア語がやわらかく聞こえるくらいの、穏やかな口調だったからだ。私は恐る恐る目を開けた。
「――giapponese?」
「Si...」
 聞き取れた言葉に、まずは答える。視線を足元に這わせると、石畳の上に男が突っ伏しているのが見えた。肌の色がやけに青白い。死んでいるのだ、と私は驚くほど簡単に答えを出した。
 視界の隅で黒い影が動いたのを見て、私はようやく顔を上げる。色素の薄い髪をした青年が、私をじっと見下ろしていた。もしも状況が状況でなければ一目散に逃げ出しただろうくらいには人相の悪い人だったが、彼が助けてくれたことは明白だったので、少し考えてから舌っ足らずに「グラッツェ」とつぶやく。彼は何かひとこと返してから、私の顔を覗き込むように身を屈めた。急激に縮まった距離に反射的に身が竦む。私がびくついたのを見て、彼は困ったふうに首をひねった。
 私はちいさく頭を下げ、肌蹴た服をできるかぎり正そうと手を伸ばす。頭では落ち着いているつもりなのに、指先はおかしいくらい震えていた。
 だいじょうぶ、こわいんじゃあない。生まれて初めて人をめいっぱい殴ったせいで指の付け根から血が出ているし、がむしゃらに振り回したせいで両腕だけでも数え切れないくらい傷がある。そのせいなのだ。
 自分に言い聞かせて、浅い呼吸を繰り返す喉をどうにか落ち着けようとしたが、無駄だった。息を止めても、無理矢理深呼吸をしても、震えはとまらなかった。

 シャツのボタンはほとんど残っていなかったが、留めるのには普段以上に時間がかかった。その上どう閉じてもがら空きだ。気のきかない水玉模様みたいな血のしみに吐き気がする。いっそ脱ぎ去ってしまいたかったけれど、インナーのキャミソールはすっかり切り裂かれて、前があいていた。
「大丈夫か?」
 今度はイタリア語ではなく、簡単な英語だった。私はみっともなくうろたえる。まずそれが英語であると理解するまでに数秒かかったし、どうしても声が出なくて、しかも視線を合わせることすらできない。結局そのままだんまりを決め込んだ。道を尋ねなければならないということも忘れて、助けてもらったことに対する礼も考えないで、ただ彼が立ち去るのを待った。
 しかし、日が暮れきってしまって、ついに夜になっても、彼はそこから動かなかった。
 次第に恐れとか羞恥よりも困惑のほうが勝って、私はようやく口を開く。あとになって考えればほとんど意味不明の、カタカナ交じりの英語だったが、「どうしてそこにいるのか」という意味は伝わったのか、彼は静かに「助けが必要だろう」というような意味のことを口にした。
 青年は死体を無造作に脇へ退けて、私の目の前に屈んだ。極端に黒目がちな両目が私をとらえる。それを癖で「見よう」として、そこではじめて調子がおかしいことに気がついた。けれど困惑する隙を与えずに、青年の腕が私の背中を持ち上げる。
「わ、ちょっと!」
 思ったよりも元気のよさそうな声が出たのに驚いて、何が起きているか理解するまでには少し時間がかかった。彼は私を抱えながら、たぶん「この時間にその格好で出歩く気なのか」というようなことを言った。言われてみればその通りだ。服はほとんど意味を成していなかったし、そうでなくてもあちこち切り裂かれて血を被ったようになっている。抵抗しかけた手をとめて、私は大人しく彼の肩に掴まった。
「宿はどこだ?」
 おそらくそう聞かれて、私は首を横に振る。
「場所は?だいたいでいい。」
 私はまた首を振って答える。地図があればまだしも、地名はまったく覚えていなかった。馬鹿な話だが、プランをすべて友達任せにしていたせいで、私は宿の名前すらうろ覚えなのだ。またのどの辺りに嫌な気配がちらつく。
「……たすけて」
 たっぷり沈黙してから、聞こえるかどうかわからないくらいの小声で呟く。青年は私の背中を小さな子どもをあやすみたいに優しく叩いて、あっさりと頷いた。




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