自転車ハイジャック |
窮地に陥った。 「だから、後ろ乗ればって言ってんじゃん」 その限りなく冷めた瞳であるにも関わらず、発言の内容は俺を助けようとするものだから、そのギャップにどうも着いて行けない。 何か返事をしなければ、とは思うものの。そんな上手く口が動けば、俺は今ままでこんなにも苦労はしていない。 あー、だから。分からない。いちいち、俺の思考回路を断ち切りやがって。ここまで来れば怒りも通し越して憎みたくなってくる。 「んだよその顔。自転車がパンクした方が悪いんでしょ」 俺の格好はボロボロだった。ドロだらけだ。 原因は分からないが、突然自転車がパンクして、気づかず走っていた所、途中で違和感が襲い、止まろうとしても遅かった。変にバランスを崩して傍にあった土手に倒れたのだ。 奇跡的に、雨が降った後で泥濘んでいた為、クッションになった地面のおかげで怪我は免れたが。そこへ偶然こいつが通りかかったのが全て、いけなかった。最悪だ。 いつも。醜態だけは晒さないように、と配慮をしていたのに。俺の努力を返せ。 「……いいよ、自分で帰る」 「……なんでだよ」 「なんでもクソもねぇって。別に、お前の助けなんていらねーし」 倒れた自転車をどうにか起こして、両手で引いて行く。 とりあえず、自転車屋に寄る必要が出て来た。ここからかなり距離はあるが仕方がない。 それでも、俺は絶対に、こいつの言葉に耳を貸さなかった。 反抗する態度を見せる反面、背中には大量の冷や汗が流れていた。 勝手に俺が「体操着事件」と呼んでいる出来事がある。 以前に、体育の授業があるにも関わらず、体操着を忘れてしまった俺に、こいつが自分の分を貸してくれただけなのだけれど。俺にとっては大事件であったのだ。 いつもいつも、ずっと昔から、俺の事を嫌いるであろうこいつが、そんな事をしてきたということは。今世紀最大の衝撃であったのだ。俺からすれば。 何度も言おう。俺の兄弟と、こいつの兄弟は、綺麗なまでにそれぞれが同学年で、同い年で、幼馴染みだ。他の兄弟同士は仲が良いのに、俺だけはどうにもこいつと相容れない。それは向こうのせいである。絶対にだ。俺に非なんて一つもない。と、思っている。 だが、その体操着事件の時は、確かに俺はお礼を言いにいった。こいつの所まで。借りた体操着を持って行く必要もあったから仕方がなかったのだけれど。むんずと掴んだ袋の紐に僅かに手汗が滲んでいることも分かっていた。強気な態度で臨みたかったけれど、どこかで恐怖は拭えなかった。何を言われるか分かったものではなかったから。今までの経験を思えば。 あいつの教室に向かって、扉を開けて。その姿を確認して、目の前で歩いて行って。 体操着袋を机に置いて、座っているこいつを見下げた。 「ありがとう」 何事もシンプルにまとめた方が良い。 一方的に告げて、相手の返答も待たないで踵を返した。やはり、反応までは聞けなかった。心臓が捻れている気がする。変に肺が痙攣したような錯覚。 どんな表情をしていたかも分からない。机に借り物を置いた時、一瞬目が合ったが、それも相変わらず冷めたものだった。その後の言葉を色々予想してしまって、一気に逃げ出したくなったのも事実だ。 ずかずかと早足に教室を飛び出して、廊下に出ればすぐ走り出して自分の教室へ戻った。自分の席に着いた時にはもう心臓が早足で止まらない。落ち着こうと思って、机に突っ伏しながら両腕で頭を抱えた。周りの友達が「大丈夫かリーフ」と声をかけてくれたが、片手をひらひら振って「大丈夫だ」と意思表示。 けれど、その後すぐ状況が急変した。 バァンっ、だなんて。乱暴に扉が開いたかと思えば。 「リーフ」 低い声が聞こえた。 教室にいたクラスメイト全員の視線を浴びながら、奴は俺の所まで近づいて来た。 意味が分からないまま、顔を上げて固まっていると。本当にすぐ傍までやって来られてしまった。 「お礼だけ言えば良いだなんて、思ってないよね」 嘲笑われた。 あくどい顔だ。思わず椅子から立ち上がったけれど、逃げ場がない。判断が遅かった。もっと早く行動すれば。畜生。汗がどうしても止まらない。息は止まっている。相手は、笑みを突きつけてくる。ガッと額を掴まれた。眼前に迫ってくる。 「借りだから、これ」 こんなにも強制的なことを言われたのは初めてだった。 そうして、何も「お返し」が出来ないまま時間が過ぎ去って行っていた矢先に、このパンク事件だ。 どうにも逃げたくて仕方がない、これ以上の借りを作ってしまう訳にもいかない。だから絶対に助けを借りる訳にはいかない。意地が働いて、一切何も喋らなかった。何かしら余計なことを話してしまえば、どこの足を掬われるか分かったもんじゃない。 (早く帰ってやる) 両手でハンドルを押し続けると、パンクした車輪が周期的にカタンっと動く。 それを幾度も無視をして歩き続ける。ようやく自転車屋さんが見えて来た。心がホッとする。俺の後ろを延々とついてくる奴の存在は見えないことにした。頭の中で。俺は今、一人で歩いている。 「すみませーん」 お店の前まで来た。時間は午後の七時。おそらく閉店間際。 店員さんに事情を説明した所、修理をしてもらえることになった。ラッキーだ。 そして色々と調べてもらった所、中にあるゴム部分を取り替えるだけだと思っていた俺の予想に反した声が返ってきた。 「これ、タイヤ変えないと駄目ですね」 まじですか。と声が漏れた。 ただのパンク修理なら五百円程で済む。それなら今の俺の所持金でまかなえる。だが、タイヤを交換となればおそらくもっと掛かるはずだ。 店員さんにどうしますか、と聞かれて、応えに詰まってしまう。 念のため、財布の中身を確認したが、やはりそもそもお金が足りない。先日に好きなゲームが発売されたのが不味かった。そこで出費をしてしまっていた。 ここまで来て、修理をしないまま帰る羽目になるのか、と思うと。おそらく帰宅時間がもっと長引いてしまう。どうしよう、と困り果てていると、後ろからヌッと長財布が伸びて来た。 「タイヤ交換、いくら掛かりますか?」 ファイアが店員さんへ尋ねた。 二千円ですね、と返されれば、すぐに彼は財布を開けて俺に聞いて来た。 「俺、千五百円ぐらいなら持ってるよ」 どうする、と聞かれた。 あまりに普通に聞かれた。瞠目する。さっきまで存在していない、と扱っていたのに。 上手く言葉が返せないまま目を泳がせていると、ため息を吐かれて、迷っている俺のことをすっぱり切って店員さんへ返答した。 「タイヤ交換でお願いします」 それから二十分。タイヤ交換が終わるまで、俺とファイアは無言のまま、お店の前で立ち尽くしていた。 「はぁー結局こんな時間かよー」 自転車に乗りながら、少し後方を走るファイアが気怠そうに零した感想。 結局のところお金を借りる羽目になり、さらなる貸しを作ってしまった俺は、もう気が気でなかった。これ以上何を要求されるか分かったもんじゃない、と口を閉ざしたまま走っていた。もうすぐ家が見えてくる。そこまで行ってこいつと別れれば、本当なら安堵出来るはずなのに。 どんどん憂鬱になってくる。多分、心はとっくに泣いていると思う。目に現れていないだけで。 分かれ道まで来て、そのまま何も言わないで別れたかったけれど、さすがにお金を借りた身分として、それは出来なかった。俺の気持ち的にも。 ちょっと止まって、少し振り返った。つられてファイアも止まった。 「……今日は」 「これで二つ、貸しだからな」 ありがとう、と。お礼を言おうとしたのに。 ファイアが遮って押し付けたのは、俺が予期していた言葉だ。 ビクっと体が揺れて、何も反論出来ない。当然だけれど。 「でもそれだとリーフがあまりに可哀想だから、一個だけにしてあげるよ」 おそらく、俺の心情なんて読まれている。 あぁ、だから嫌いだ。本当に。こいつは。 その優越感に浸っている顔も最低だ。 と、口を噛み締めていると、自転車の後部にある荷台を片手で掴まれた。グッと力を込められたことが分かる。まるでチェーンの鍵を付けられてしまったような気分だ。 ちょっとしたその衝撃に揺れる座席に気を取られていると、いつのまにかその片手の力で隣まで自転車に乗った状態で迫って来られた。 下の方から顔が迫って来たかと思えば、そのまま、俺の右肩へ収まって行く。 「―――――?」 行動の理解が出来ない。ファイアの髪の毛を顎に感じたまま呆然としていると、突然首筋に痛みが走った。 「!?、い″っだぁ!」 「はは。これで一個、解消な」 ガリっと音がして、思わず悲鳴を上げた。反射的に慌てて首筋を手の平で押さえようとすれば、ファイアは笑顔ですぐ離れる。そのまま自転車を漕いで颯爽と俺の前から去ってしまった。涙目になりつつ指で痛む箇所を押さえてみれば、どうやら歯型を付けられたようで。いくつかの凹凸が指で辿ることが出来た。 もはや暗くなった道で取り残されて、じんじんと痛む皮膚をしばらく撫で続けた。 こんなの、結局いじめでしかないじゃないか。 「……まだ、もう一個か」 どうやら、相手はとんだお返しを求めているらしい。 あともう一つ、一体何をすれば良いのかがさっぱり俺の思考回路では分からなかった。 ファイアのお金で修理されてしまった自転車に乗りながら、重いペダルを漕いで行く。 |