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 遥か昔。
 グリーンがその女性と出会ったのは、人間達の争いの渦中において。

 剣が人々の命を奪い、砲丸が家々を破壊し、火が放たれ、一つの街が崩れ落ちていく最中、彼女は崩れた家の下敷きにされていた。両足が瓦礫に挟まれ、その機能を失くしている状態で、正に死へと向かっている時だ。

 グリーンがこの街へ来たのは、ただの興味本位であった。この時代、人間達はまだ、己達の欲望に従って争いを起こしていた。むしろ悪魔は、その様を余興として眺めることが多かったのだ。決して、人間を唆し、争いを起こさせるようなことはしていなかった。つまり、人間はあまり悪魔の存在をはっきりと認識しているわけではない時代だった。
 魔王の二十二番目の側室である女性の悪魔から生まれたグリーンは、王位継承権を持ってはいたけれど。その座に興味も無ければ、特に自分の「生」に対する興味も無かった。ただ偶然に、この世に生まれたから、生きているだけ。何か価値を見いだすことも無ければ、存在意義など考えることも無かった。惰性的に過ぎて行く日々に身を任せ、呼吸しているだけの人生。

 阿鼻叫喚の響く、燃える街。歩きながら見回していると、グリーンの耳に彼女の呻き声が届いた。他の人間達の声も聞こえていたにも関わらず、グリーンは彼女の方を見たのだ。おそらく、逃げようとした瞬間に崩れたであろう家は、彼女の命を奪おうとしていた。偶然にもまだ火は移っていないが、時間の問題だ。失血死が先か、焼死が先か、そんな未来。
 なぜグリーンが彼女に興味を持ったのか。それも、偶然であった。その長い黒髪が、母親の物と似ていた。
 母親は、グリーンが産まれて数十年後、魔王を謀略しようとしたことで死罪となった。もう何百年も前のことだ。酸の風呂に落とされた彼女は、全身を溶かされて死んでしまった。桶からハミ出た黒髪を、グリーンは今でも覚えている。
 何も出来ないまま、その姿を見送るしかなかった彼に、母親は笑顔を向けた。何も言わないで、しかし直後、彼女は断末魔を上げて死んで行った。言葉にならない苦痛の叫びが、耳にこびりついて、グリーンの心を縛り付けた。死が生を飲み込む瞬間は、これほどまでに醜いのかと。その時、初めて思ったのだ。

「くっだんねぇ」

 自嘲だ。
 グリーンは、彼女の目の前までやってきて、笑っていた。俯いて動かない彼女を見下ろし、かつての母親の末路を思い出す。
 もう力を失くした首。髪の毛を掴んで、その顔を上げてやった。彼女は、両目を閉じていたけれど。その刺激を感じて少しだけ、目を開けた。額からも血を流した彼女が、グリーンをようやく見た。
 おそらく悪魔を見るのは初めてであったのだろう。彼女は、その黒い翼が、炎の逆光でそのように見えるのだと思い、また朦朧とした意識であったため、グリーンの角もはっきりと見えなかった。
 だから、勘違いをしたのだ。

「……かみ、―ーーーーさま?」

 走った衝撃は、グリーンが今まで培っていたもの全てを打ち崩した。瞠目して、言葉が出ない。この女性が、己に対して救いを求めている。グリーンが、求められている。
 直後、彼女が笑ったのだ。もうすぐ終わる命を前にして。彼女は。その笑顔が、あまりに美しかった。ただ、それだけだ。
 グリーンは。終わらせたく無い、と思ってしまった。それだけで、理由としては十分であった。一瞬の出来事であったけれど、時間などここではさしたる問題では無かった。
 そしてグリーンは、彼女を助けた。両足は置いていくしかなかった。下半身の機能を失くした状態で、彼女を抱えて、グリーンは飛び立った。
 己の住処へ帰れば、彼女を介抱した。切断するしかなかった箇所から熱が出て、三日三晩は苦しんだものの、無事に快復へ向かった。この時程、治癒魔法の使えない自分をグリーンは悔やんだ。基本的に、悪魔は攻撃魔法しか習得しない。それこそ、医療専門の悪魔にでもならない限り、覚えないのだ。
 意識も無事に戻り、ようやく彼女はグリーンの姿を認識した。黒い翼に二つの角を見て、彼女は一瞬驚いた。何せ、聖書で見ていた神様の姿とは大違いであるからだ。しかし。

「黒い神様も、いるのね」

 結局のところ。彼女にとっての神様は、グリーンであった。
 自分のことをどう思われるか、初めて恐れを抱いたグリーンが。彼女の一言に救われた。なぜだか涙が出た。そんな彼を、ベッドの上から手を伸ばして、抱きしめる。

 彼女がグリーンに救われたように、グリーンは彼女に救われた。二人の関係に愛情が湧くことは自然であった。子供が出来たのはそれから二年後のことで。グリーンと同じ茶色の髪をした男の子に、彼女と同じ黒い髪をした女の子、の双子であった。命が、これほど愛しいモノであることを、この時初めてグリーンは知った。
 それからしばらく、といっても、何年も経った後に、母親は病気を患って亡くなった。三日三晩、グリーンと子供達は泣いた。それでも、彼女は笑ってその命を終えた。皆で彼女の墓を作って、弔った。
 その後。子供達も、悪魔の血が流れていることを斯くして、人里へ帰った。グリーンが、帰らせた。その時代はまだ、魔女などという存在は多く無く、狩られるようなことも無かった。しかし、それでも己達の異質さには本人達が気付いていた。隠していることに、越した事は無い。

「死ぬまで、生きろ」

 たった一言だけ、彼らに託して。
 グリーンは彼女が眠る我が家から離れなかった。それから数百年、悪魔や魔女の存在が公となって、人間達から迫害され始めた現実。グリーンの血筋を継いだ人間達も次々に殺されて行った。それでも、手を加えることを、彼はしなかった。一つ、また一つと、彼の血が消えて行く感覚は、彼を苛んだにも関わらず。時代がそれを求めるなら、仕方の無いことだと。
 だが、悪魔が人間達の争いに介入を始めたことで、その感覚が変わって行った。そもそも、悪魔という存在が、人間達にとって害となる印象があるから、その血を継いだ人間が殺されて行くのだ。つまり、悪魔の行動に拍車がかかるから、グリーンの子供達が殺されて行く。許せなかった。



「だから、お前を助けたんだ」



 レッドは。唐突に自分へと話題が戻ったことに着いて行けなかった。
 目を白黒させて、グリーンを見る彼の顔が、あまりに間抜けで面白い。グリーンはただ、悪戯をする子供のように笑った。
 レッドが解釈に必死になっていることも分かっていた。その上で話を進めるグリーンは酷い男だ。

「悪魔達へ、反撃する機会がもう迫ってる。レッド、お前には選択肢が二つある」

 昔話は。レッドにとって衝撃をもたらした。
 そして、改めてグリーンと自身の人生の差を感じさせられる。
 グリーンがかつて、愛した女性との間に生まれた血脈が、レッドの身体に宿っている。それだけでも信じられない。

「一つは、俺の後継になって、俺とともに、戦いに行く。二つ目は」

 ましてや。
 そんな大層な話が。

「ただ、俺を見送って、この世に残ることだ」

 自分に、降り掛かってくるなど。

「そん―ーーーーなの」
「最後に選ぶのはお前だ。俺は、強制しない」

 その突き放し方が、また酷い。
 レッドは喉が詰まって、何も言葉が発せなくなる。
 胸中に渦巻くあらゆる感情を、処理しきれないでいた。
 そんな状況も、グリーンは手に取るよう分かっている。
 昔から見て来たレッドのことを、彼が分からない訳がなかった。

「次の春に、俺は魔界へ向かう」

 タイムリミットは提示された。
 後は、レッドが決断するだけだ。


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